孫権と谷利が回廊を曲がると、その先にある若い下級官吏の集まる政務室の前に立つ朱治と孫儼を見つけた。憮然とした表情の孫儼と、困ったような顔をしながら何事か説いている朱治の様子を見た孫権はなるほど、と合点がいったのか、明るい表情を作って二人に歩み寄って行く。
「おや、仲謀様」
 それに気づいた朱治が一礼すると、兄を見た孫儼は一瞬その面に驚きの色を浮かべ、それから決まり悪そうにそっぽを向いた。
「こんにちは、君理どの。儼、君理どのの言うことはよく聞いて、きちんと弁えねばならないよ」
「……わかっております」
「ふふふ、あとは張公にお小言をいただけばお前も立派な孫家の男だ」
「……っ、それは重畳!!」
 孫儼は怒鳴り、失礼、と乱暴に言い捨ててその場を足早に立ち去ってしまった。急に怒られたことに、なぜ、と衝撃を受けた孫権は、どうやら気配を消していたらしい谷利の哀れむような視線を受けて慌てる。
「仲謀様、実は昨日すでに張公からお小言はいただいているのです」
 苦笑する朱治の言葉に、孫権はついに頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「私はただ、場を和ませようと……」
「下策中の下策でしたね」
 しれっと追い討ちをかけるな、と谷利に喚いた彼は、はあ、と長い溜息をつく。
「難しい年頃だ……君理どの、私もああだったのですか?」
「ご自身が一番よくおわかりでは?」
「……はあ……」
 うなだれる孫権が目に見えて落ち込んでいるのがわかって、谷利は首をかしげる。
 弱年の孫権は自身の目先の欲を満たすために金を必要とした。孫儼が今欲しているものは恐らく、孫権が彼くらいの歳の頃には考えもしなかったものだろう――それは、孫権が些かの労苦を伴うこともなく手に入れたものだからだ。
「あれに嫌われるのも当然だなあ」
 懊悩する孫権の横顔は、谷利には理解し得ない感情ばかりを浮かべている。

 正論でたしなめてくる朱治、気安い冗談で場を柔らかくしようとする孫権、黙してただ成り行きを見つめるだけの谷利。そのすべてに腹が立って仕方がない。
 孫儼の足は自然と詰め所に向かっていた。入り口から顔をのぞかせると、ちょうど鎧をつけ終えたところの徐元を見つける。彼は孫儼に気が付くと、それまでの緊張した面持ちからぱっと明るい表情になって、叔弼様、と駆け寄って来た。
「本日は政務だと伺っておりましたが」
「ああ……切り上げて来たんだ。お前はこれから?」
「はい! 程公が遠征に出ておりますので、陳司馬に打ちのめされてきます」
 照れくさそうに笑う徐元の顔はすでに傷だらけで見ている孫儼の方が痛々しく感じてしまうが、当人は何も気にしていないらしかった。なんでも、程普に憧れているのだとか。
 かつて孫儼の長兄、孫策がまだ寿春におり袁術の配下だった頃、丹楊郡の太守である叔父の呉景の下で兵を募り数百人を得て涇県の祖郎征伐に討って出、散々に打ち破られてほとんど全滅に近い被害を出して命からがら逃げ帰ったことがあるという。その時、敵兵に包囲されて窮地に陥った孫策を決死の突撃で助け出した二騎の騎兵が、程普と――
「父をとても誇らしく思います。出立の前夜、父は私に、勇敢な青年の助けになってくるのだと実に嬉しそうに言って聞かせてくださいました」
 徐元の父親である徐晨だった。結局彼はその時の傷が元で亡くなってしまうが、その勇に応えるため孫策は彼の妻と幼い二人の姉弟を引き取り、丹楊に邸宅を与えて生活を約束したのだという。そして今年の春、息子である徐元が、孫策から受けた恩に報いるため兵士として孫策軍に参加することになった。歳が同じだからということで孫策に引き合わされた孫儼と徐元は、以来つるんでいる仲である。
 徐元の孫儼を見つめる瞳は、明らかに友人に対するそれとは少し違っている。叔弼様はとてもお強いのですね、というのが彼の口癖だった。初めは媚を売っているのかとも思ったが、長く付き合って彼の性質を知っていくうちに、心底彼は自分に対してそう感じているのだ、ということがわかってくる。
 事実、孫儼は同世代の若い兵士たち相手にならば模擬戦で負けたことはないし、二つ上の兄――孫権と戦っても勝てる程度の腕っぷしはあると自負している。兵棋演習に於いても彼と対戦して負けることはほとんどなく、一度などは彼が迂闊な戦術を取るたびにその隙をついて攻撃を仕掛けていたら、見物に来ていた長兄が見兼ねたらしく横槍を入れてきて無理やり両軍撤退という結果にさせられたくらいだ。その時の孫権の、やってしまった、というような表情は忘れられない。孫儼は、情けない男だ、と自身の兄に対してさえ思ってしまった。
 孫儼のことを孫策の群臣たちは、兄たる討逆将軍の武勇に酷似する、と将来を目している。孫儼自身も己が期待されているのだと理解している。それがゆえ、朱治や張昭のような孫策の腹心の部下たちが事あるごとに自身を嗜めるような言動を取るのだということも。
「叔弼様も見学されますか?」
 徐元が孫儼の顔を覗き込んで小首をかしげる。驚きに身を引きながら孫儼が頷くと、徐元はやにわにきりっと表情を引き締めた。
「では、今日こそは陳司馬に一勝いたします!」
「そうか……がんばれよ」
 声を掛けると彼は、はい、と元気に返事をして満面の笑みを浮かべた。
 ――結局、彼は五度陳武と戦い、ただの一度も一撃も浴びせられないまま打ちのめされ失神してしまうのだが、気がついたとき目の前にいた孫儼を見て悔しそうに、次はがんばりますから、と唇を噛んだ彼のことを、孫儼は情けないとは思わない。
 そっと孫儼が徐元の前髪を撫ぜると、彼は目を丸くして、それから首をかしげた。
「お前はよくやっている。私も……お前を見習わねば」
「そ、そんな、恐れ多いことです」
「次の戦にはついに我々も従軍することになるはずだ。そこで多くの首級を上げ――」
 ――討逆様に、己を見てもらわねばならんのだ。
 黙り込んだ孫儼を不思議を思った徐元がその肩を叩くと、孫儼はなんでもない、と首を振り、笑った。
「お褒めいただけるよう、がんばろう」
「はい。敵陣深くどこまでも、お供いたします!」
 笑い返す徐元の顔に、自然と孫儼は己の心が温もるのに気づく。
 高みへと登っていくのだ、己は。誰よりも上へと。そのとき傍にいるのが彼なら、それが一番素晴らしいことだ。


 ◇


 建安四年、夏六月四日。袁術が死んだ。孫策軍が袁術征伐のための準備を進めている矢先のことであった。
 当面の目的が頓挫し、孫策が群臣たちと次に打つべき手について相談を持とうと評定の間で軍議を開いたその場に、またしても急報が飛び込んでくる。
 主を失い路頭に迷っていた二人の袁将、楊弘と張勲が、彼らの麾下軍数千をまとめて孫策軍に身を寄せようとしていたところを盧江太守・劉勲に攻撃され、その軍勢のほとんどが虜囚となり金品もすべて掠奪されてしまったという。
「張将軍は私に目をかけてくださっていた」
 寿春にあった頃、張勲は若い孫策に関心を持ち、何かと助けになっていた。その恩に報いる、とぽつりと孫策は呟いた。
「なれば、劉勲征伐のための軍を編成いたそう」
「いや、少し待て。確か程公からの報告で、豫章は上繚の地にある宗民は約一万戸とあったな」
 一度浮かした腰を落ち着けて、そうですね、と訝る張昭の目線を受けながら、孫策はぱちんと指を鳴らした。
「劉勲と同盟だ。まず丹楊に駐屯している徐中郎将の軍は一度呉に戻してくれ。警戒されると良くないからね」
「ど、同盟ですか!?」
 にわかに場がざわつく。張紘の名を呼んだ孫策は、うんとうまい文で口説き落としてくれ、と笑った。
「子綱どの。ついでに上繚の宗民一万戸について打診してくれ。あなた様の武勇の下に彼らを服従させるといい、とね」
「――ああ。はい、わかりました」
 得心が入ったのか、張紘はすぐに筆を取ると書簡をしたため始める。どういうことです、と張昭が詰め寄ると孫策はニヤリと口の端を上げて、同盟するのですよ、と言う。
「近頃、豫章や盧江の辺りでは食料の不足が著しいとの報告もありましたからね。ほんの僅かの民衆の流出も許さぬ劉勲のこと。宗民と言えど一万余戸の生み出す糧はよほど魅力的でしょう。さて、いつ頃動かれるだろう。報を受けてすぐ?」
「恐らく討逆様からの報を受けて先方で事実確認を行ってからでしょうから、少し間は空くと思われますが――当人が動くでしょうか。まずは配下の者が様子を見るのでは?」
 孫策の幕僚の中で最も年若い陸績、字を公紀が顎に手を当ててそう問いかける。だろうね、と孫策は相槌を打つと脇に控えていた兵士に、程普、孫賁、孫輔の軍を南昌に留め置くように通達を、と指示を出した。
「徐中郎将には今後我々と共に行軍していただき、春穀に移した公瑾の軍には追々江夏太守を名乗らせよう。黄校尉、韓校尉、董校尉、凌校尉、そして陳、周、蒋、呂、潘の各別部司馬に通達を。兵装は軽いものでまとめ、いつ何時進軍の合図があっても動けるよう整えておくように」
 てきぱきと通達していく孫策を見ていた幕僚たちは、既に皆が彼の考えていることをはっきりと理解していた。
「さあ、それじゃあ――」

「討逆様! 許昌の曹司空より書簡が届きましてございます!」

 号令をかけようとした孫策の言を遮り、評定の間の外から大声が飛び込んできた。皆が一斉にそちらを振り返り、孫策は、はあ? と思わず素っ頓狂な声を上げた。
「曹司空……曹孟徳!? なんだってこんなときに……」
「入れ!」
 入室の許可を得た兵士が評定の間に転がり込んで来る。秦松が書簡を受け取り、それを孫策へ手渡した。紐を解いて書簡を開き、険しい表情で読み進めていく孫策の眉間の皴が徐々に解れていく。
「…………?」
 その様子を固唾を飲んで見守っていた群臣は、読み終えたのか顔を上げた孫策が、評定の間の隅で息を殺して様子を見ているだけだった孫権に目を留めたのに気づいた。
「あー、権」
「へ、は、はい」
 急に声をかけられて表情を強張らせる孫権を安心させるように孫策は微笑む。
「あとで儼と共に奥に来てくれ。お前たちに訊きたいことがある」
「は……はい、わかりました」
 頷いた孫権に、孫策は満足そうに二度首肯すると、改めて群臣に号令をかけた。


 ◇


 江南に雄々しく聳える、壮麗な峰々が形作る“匡廬”廬山の麓、彭蠡沢に注ぐ修水沿いを西へ遡ると、上繚の地がある。安息国の太子の地位を捨て仏僧となった安清、字を世高が、霊帝崩御後の洛陽の争乱を避けて教化のために諸国を行脚する中で訪れた地のひとつであり、この上繚を根城とする宗民らは彼の霊験に預かるため、安清が離れた後も霧深いこの地に留まり、日夜修行に励んでいるのである。
 劉勲が彼の本拠地、皖から六百里はゆうに離れたこの上繚に従弟である劉階を派遣し、自身も海昏へ向けて出兵した報を受けて、孫策はすぐさま自軍を皖に向けて進軍させた。孫策・周瑜・呂範らに率いられた二万の軍勢は昼夜兼行で西へ行軍し、ほとんど兵のいなくなった皖城を攻囲して些かの損害もなくこれを陥落せしめた。孫策は、袁術の死に当たり劉勲の元に身を寄せていた袁術の眷族や劉勲の妻子を含む三万人余りの捕虜をすべて呉へ移送すると、兵三千に命じて皖の守備とし、また上表して劉勲に代わる盧江太守として汝南人の李術を任じ、自身は彭沢で劉勲の軍勢を打ち破った程普・孫賁・孫輔の率いる軍勢八千と合流して、尋陽の西、西塞山へと落ち延びる劉勲軍を追撃した。
 山中に塁を築き守りを固めた劉勲は襄陽の劉表へ救援を要請した。劉表の配下である江夏太守の黄祖がそれに応じ、息子の黄射に五千の水軍を率いさせて援軍に向かわせるも、孫策軍の猛攻の前に成す術なく打ち破られ、結局劉勲は北に逃亡し、黄射も敗走することとなった。
 孫策は進軍を止めなかった。黄射との戦いで得た兵二千と船千艘を自軍に組み込んだ彼は、そのまま黄祖の布陣する夏口、沙羡県まで軍を進めた。建安四年十二月八日のことである。

 建安四年十二月十一日、寅の刻。孫策、周瑜、呂範、程普、孫権、韓当、黄蓋の軍勢が同時に黄祖軍に攻撃を開始した。太鼓を激しく打ち鳴らし、敵陣を次々に蹴散らす主君の姿に軍吏も兵士も関係なく皆奮い立ち、まるで競い合うように敵兵を討ち取った。風上に放たれた火は盛んに燃え広がり、煙の中兵士たちは奮戦し、飛び交う弓矢はさながら雨のように黄祖軍を打ち付けた。
 辰の刻にはほとんど敵軍は壊滅していた。黄祖は敗戦濃厚と見るや妻子を捨てて逃走し、孫策軍が上げた首級は敵の大将である劉虎や韓晞を始め二万余りにも上った。

「壮観だな。――まだ、父の仇を討つには至らんか」
 夏口の河上、壊滅した黄祖の陣容と船の残骸、そして水面そこかしこに浮かぶ兵士の死体を見つめながら、孫策は呟く。斜め後ろに立つ周瑜、そして呂範はそれぞれ頷き、本陣に建てた幕舎を振り返った。入り口の垂れ幕の前にはそわそわと落ち着かない様子の孫権と呂蒙、字を子明がいる。じっとして孫権の傍らに立つ側仕えである谷利のさらに隣には、黙して直立不動の孫儼と、緊張した面持ちで俯いている徐元の姿がある。
「ほ、本当に私で良いのでしょうか、周中郎将」
 振り返った上司に気づき、情けなく眉を寄せる呂蒙の問いに苦笑で答えるばかりの周瑜を横目に、呂範が言った。
「朱義封も共に行くのだから、あまりお前一人で気負うな。それに谷利、徐元も近頃は武芸も板について頼もしくなってきている。皆で団結して事に当たればよい。子綱どのの書面だって、曹司空に邪な考えを起こさせぬためにあるのだからね」
 そうですけどお、となおも不安げな呂蒙の視界に、本陣へ向かって慌てて走ってくる朱然が映る。
「義封、が、がんばろうな」
「はい……って、呂司馬が一番しっかりしなきゃいけないのに、なんでそんな」
 明らかに頼りなさげな呂蒙の様子を見て呆れたような声で言う朱然に、だって、と呂蒙の悲鳴が本陣の周囲に響き渡った。


 ◇


「許に行ってみたいか?」
 政務室に二人の弟を招いた孫策は、唐突にそう切り出した。問われた言葉すら理解できなかった彼らに孫策は、曹司空――曹操から届いたというひとつの書簡を差し出す。
「お前たち二人にも官職を授けたいそうだ。できるならば“己の元に招いて直々に”ということだが……わかるか?」
 こくん、と同時に頷く二人に小さく笑って、だが危険だ、と孫策は言う。
「己の元に招いて――必ず帰すとは限らないのさ。そういうものだ。それもわかるだろう?」
「はい。……討逆様の身内を手元に置いて、討逆様の動向を牽制するということですよね」
 孫権が言うと、そうだよ、とますます孫策は笑みを深める。
 手中に時の皇帝――劉協を擁し、その庇護者として朝廷に於いて権勢を揮う司空、曹操、字を孟徳は、皇帝陛下に仇成す者を誅滅するとしながら、その実は己の脅威となる者を徹底的に排除している。今回孫策の元に届いた書簡の内容も、江東を凄まじい勢いで平定し、さらに西へと版図を拡大しようとしている孫策を危険視し、今この時点で“懐柔”してしまおうという策略であろう、と彼らは睨んでいた。
「私の軍は天子様の軍であり、私の戦は天子様の御稜威をこの混沌たる江東、江南の地へ広く行き渡らせるための戦だ。それだけは間違いのないことだ」
 はい、と二人の弟は神妙に返事をする。
「彼が本当に朝敵を残さず誅するだけのつもりなら、私の戦と彼の戦とは決して相反しないはずなんだよ」
「討逆様、私は……私は許に行きたいです」
 孫儼が身を乗り出して孫策に訴えた。驚いて彼を見る孫権など気にもしないで、孫儼はまっすぐ孫策を見つめる。
「いただけるものならすべていただいておきたい。この目が見られるものならすべて見ておきたい。もし曹司空が討逆様のご意志を害そうとするのなら、その敵の姿を、見ておかねばなりません」
 そう言う孫儼の眼差しは確たる意思を持って、譲ろうという気がないのだと孫策に伝えている。まずはわかった、と孫策は頷き、次に孫権を見た。
「お前は? 権」
「わ、私は……」
 孫権には恐ろしかった。そんなに容易く、敵陣の最中へと飛び込んでいける孫儼の勇気が。戻って来られなくなるかもしれない恐怖を振り切って、どうして彼はどこまでも立ち向かえるのだろう。何が起こるかもわからない北の地に。
 ――ただ、孫権にもひとつだけ、その地で見てみたいものがあった。
「討逆様、兄上は躊躇われるそうなので、私一人でも」
「いや、儼。討逆様、私も許に赴いてみたいです」
 孫策も孫儼も、似たような驚いた表情をして孫権を見た。
「許の城市を見てみたいです。そして天子様がおわすという宮殿を。曹司空もそこにいるのですよね?」
「ああ、遠征していない限りはいると思うよ」
 ではぜひ、と孫権は頷いた。
「きっとこの呉とはまるで違う風情なのでしょうね」
「……そうだな、きっと」
 孫策は頷き、胡坐を掻いていた膝をパシンと叩くと、相わかった、と高らかに言った。
「では曹司空にはそのように返書をしたためよう。ただし、……そうだな、劉勲を征伐してからだ」
「劉勲を?」
「何の手土産もなしじゃ天子様に申し訳が立たないからな。少し先にはなるが、曹司空にはお待ちいただこう」
 口元に手を当てて、ふふ、と孫策は小さく笑う。その様子に首をかしげる二人の弟に彼は言った。
「大きくなったな、二人とも。私も嬉しいよ」


 ◇


 孫権と孫儼、そして孫策から上表文を預かる張紘を囲むように、護衛に呂蒙と朱然、それぞれの隊から五名ずつの精鋭たち、そして谷利と徐元が連なる。二十名に満たない訪問団が編成され、一行は一路許へと向かった。
 孫策軍が布陣する夏口から許へは、まっすぐ北へ八百里ほどの道のりである。夏口から溳水を北へ遡り江夏郡へ出て安陸県へ、さらに山を越えて交易路沿いに鄳県、安城県を経て、汝水に沿って上蔡県を過ぎれば、二本の川が流れる平野に巨大な城市が見えてくる。頴川郡許。建安元年に洛陽より遷都された、後漢の首都である。
「うわあー! 大きいですね、叔弼様!」
 真っ先に声を上げたのは徐元だった。孫儼の護衛として同行した彼は、一行の中でも特に己が最も年若いせいか初めの頃は緊張のあまり挙動不審になっていたものの、旅も二日を過ぎれば持ち前の人懐っこさで他の面々に気安く打ち解けていった。
「そうだな。天子様のおわす邑はこうでなくては」
「ああ、そっか。そうですよね」
 天子様ってのはすごいんだなあ、と徐元は素直に口にする。それを横目にした孫儼は、少し不機嫌そうな面構えになった。
 その二人の前を行く孫権と谷利も、徐元とほとんど同じような感慨を覚えていた。
「これが、皆様方の奉戴する王室の都ですか」
 小さな声で谷利が問うと、そうだ、と孫権は頷いた。
「元はここより北西、あすこに見えるのが嵩山だと思うが、その向こうの洛陽を都としていたが数年前の戦乱で時の逆臣董卓が焼き払ってしまったそうだ」
「都を焼いたのですか」
 頷く孫権は、我が父はその都へ入り、董卓が荒らした街や暴いた陵墓を丁寧に直されたのだ、と胸を張って言った。さらにその二人の前を行く張紘が、美しい都でした、としみじみ呟いた。
「ああ、子綱どのは洛陽の太学に通われたのでしたね」
「若い頃のことですからもうずいぶんと前になりますので、もしかしたら多少は変容していたやも知れませぬが」
 あの都から見る空は格別に思われたものです、と張紘は言う。
「それでも生きるには息苦しいところでしたよ。呉の方がよっぽどよっぽど、心地よいものです」
 その言葉を最後に、一行の中に沈黙が落ちる。その隙を見計らったのか、先頭を行く呂蒙が強張った声色で、さあ入城いたしましょう、と全体に号令をかけた。

 馬を降りて宮殿に参内した一行は、迎えた老年の官吏に連れられ客人用の一室へと通された。こちらでお待ちください、と言い置いて官吏が去ってから、半刻が経とうとしている。
「曹司空はお忙しいのでしょうか。訪問の由は先にお伝えしてあったはずですが」
 少し苛立ったような口調で朱然が言う。呂蒙は頷き、彼は鄴の袁本初と刃を交えているのだ、と言った。
「討逆様からそう伺っている。ですよね張校尉?」
「ええ。先達てからは黄河の北に主戦場を移しています。まだ主力同士の衝突には至っていないようですが、もう間もなくでしょうね」
「曹孟徳と、袁本初か……」
 腕を組んだ孫権が呟く。
 袁紹、字を本初とは袁術の従兄にして、高祖父・袁安から四代続けて三公の位にのぼる人物を輩出する名家の出であり、また孫堅の挙兵の切っ掛けともなる反董卓の旗印を掲げる連合軍を召集した本人である。易京に於いて公孫瓉を打ち破りその軍勢と青州・冀州・幽州・并州の四州を併合した彼は、献帝を奉戴し自身の膝元である許に迎え入れた曹操とついに敵対することとなった。このとき、袁紹の率いる軍勢は兵士が十万余り、騎兵が一万、そのどれもが精鋭であったと言われる。
「凄まじい戦いになるのでしょうね。我々が南でやっている小競り合いなどとは比べ物にならないほどの」
 吐き捨てるように言った孫儼の肩口を、孫権は強い力で突いた。
「滅多なことを申すな、儼! 我々のしていることは天子様のご神威を蛮地へ轟かせるための聖なる戦、こやつらのしていることはみっともない足の引っ張り合いに過ぎぬ!」
「ですが必ず史書に載りまする!」
 勢い立ち上がった孫儼の言葉に、孫権は目を見開いた。
「大戦になれば貴族も平民も文人も世捨て人も皆注目いたします! たくさんの兵が死に、その横でたくさんの将たちが己の名を上げ、名誉のために奮励するのでしょう! 武人がどうしてそれを指をくわえて遠方から見ているだけなど甘受できましょうか!」
「し、叔弼様、どうかお心を安らかに」
 激昂する孫儼の袖口を引きながら徐元が諌めようとする。それを振り払い、なおも何か言い募ろうとした孫儼の言葉を遮るように、室外から声がした。
「皆様、曹司空様がお呼びでございます」
 全員が口を閉ざし、扉を見遣る。室外からもう一度、孫仲謀様、孫叔弼様、と声がした。孫権と孫儼は立ち上がり、室の入り口に向かう。
「申し訳ない、今伺います」
「それから、張子綱様も」
 はい、と書簡を抱えた張紘も二人の後ろに従った。それに続いて立ち上がろうとした谷利は、迎えに来た官吏の両脇に控えていた守衛によって制されてしまう。眉をひそめる彼に守衛は、呼ばれているのはこちらの方々だけですので、と事務的な言葉を発した。
「谷利」
 室内から朱然に呼びかけられて振り返る。彼は顎をしゃくって谷利に下がるよう促した。
「……私は仲謀様の」
「わかってるけど、ここではそうもいかないんだよ。――お前」
 朱然はぐっと谷利の方に腕を回すと、内緒話をするように顔を近づけごくごく小さな声で言った。
「ここは呉よりもよっぽどお前らの屯とは違うんだ」
「…………、……わかりました」
 不承不承頷いた谷利の胸元を拳で小突き、朱然は離れる。
「まあ、心配するなよ。ここで三人にもし何かがあって、その報復のために討逆様が攻めて来てみろ。曹司空が北を向いている今、まんまと背後を突かれることになるだろう?」
 その通りだ、と朱然の言を接いで呂蒙が言う。
「そして、そうならないために曹司空は仲謀様と叔弼様を直々に招聘して官職を授けようと言うのだ」
「……難しいんだな」
 徐元が、ぽつりと呟いた。
「上に立つ人ってあっちこっちに目を遣って気を配らなくちゃいけないんですね。大変そうだ」
 首をかしげた呂蒙が、どうかしたか、と尋ねると徐元は首を振り、なんでもありません、と言った。

 謁見の間に通された三人は、本来であれば天子が坐しているのであろう空の玉座と、その脇に設えられた高官の席に坐する男を見た。輪郭は小柄ながら、傍らに立つ虎士の巨躯すら凌駕するほど大きく見える。
 彼は名を曹操、字を孟徳という。
「孫仲謀どの、孫叔弼どの、江東より遥々よくぞ参られた」
「いいえ、此度、臣権は奉義校尉代行、臣儼は奉業校尉代行を賜り、幸甚の至りにございます」
「うむ。江東、江南の地に於ける孫討逆将軍の武功は目覚ましく、この許、そして天子様のお耳にも届いておる。そなたらにも討逆将軍の如き、いやそれ以上の働きを期待するものである」
 ありがたく、と伏せた頭の中で、抜け抜けと、と孫儼は吐き捨てた。
 曹操は二人の横に並ぶ張紘に視線を遣り、その方は、と問うた。
「はい。臣紘は主、孫討逆様より天子様へ奉る文を預かってございます」
 張紘は脇に立った守衛に書簡を差し出すと、改めて顔を伏せた。守衛からそれを預かった曹操はひとつ頷き、そなたの名はよく聞き及んでおる、と言った。
「孫討逆よりいただく上表文は私も目を通しているが、あれはそなたの代筆で相違ないかな」
「はい」
「聞けば往時の大将軍何進、太尉朱儁、そして司空荀爽から招聘を受けたこともあるとか」
「ああ……そうでしたね」
 事もなげに返答する張紘の横顔を、孫権と孫儼は驚きを以て見つめた。
「私も特に荀家の者には世話になっているので縁がある。しかし、彼らではなく孫討逆へ仕官したはどういったご意向があったのでしょうかな」
「それは討逆様が彼らに劣ると、そう仰せですか?」
「いやいや、そうではない。数ある選択肢の中のひとつを選んだ、その心を問うたまで」
 曹操はにこりと微笑むと首をかしげる。伏せていた顔を上げた張紘は目を細め、とても良い顔をしていらっしゃいましたので、と言った。
「まだ彼が袁術の下に向かう前、私が広陵で母の喪に服していた頃、討逆様が私めをわざわざお訪ねになって、その先途について私めなぞの助言を求められたことがありました」
「え? そうだったのですか」
「そうなのですよ。それで、非才の私めに申し上げられることは何もないと申しましたら涙を流して、それでも顔はまっすぐ私を見るものですから、この方は良い方だなあと、そう思いまして」
 それで、と懐かしむような眼をして張紘は笑った。なるほどなるほど、と曹操は頷き、それは良いことですな、と言った。
「しかし我々としても、斯様に文事に秀でる者は中央でそれ相応の役職に任じ、陛下のためにその力を揮ってもらいたいと常々考えておった。ついてはそなた、張子綱どのには侍御史の任を与え、ここ許に於いてその勤めを果たしてもらうことを望むものであるが、いかがであろうか」
 孫権と孫儼も思わず顔を上げた。にんまりと笑う曹操の表情が目に飛び込んでくる。それは、と孫権が口を開こうとするのを張紘は制し、呉を離れてということですか、と曹操に問いかけた。
「無論。そう聞こえなかったか?」
 曹操は首をかしげ、続ける。
「到底及ばぬと申すのであれば、そちら、孫仲謀どのか孫叔弼どのに残ってもらっても構わない。お二人の才もそなたに次ぐものであろうと私も目している」
 不意に話を振られた二人の表情が強張る。その反応を見た曹操はおかしそうに肩を揺らし、なだめすかすように右手を掲げた。
「実を言えば、江東江南地域の現状について詳しい者がこの政庁にもう少しほしいのだ。もちろん南部出身者がいないわけではないが、彼らは北に来て久しい。現状について明らかとは言えない」
「ちょうど今来た我々はお誂え向きと、そういうことですね」
 張紘の物言いに、そういうことになるな、と曹操は我が意を得たりと言うように何度も頷いた。
「上表や仄聞では真にその者を知るには限りがある。さてはて、孫討逆の行動の本意はどこか? と」
 欺瞞と悪意に満ちた宮殿から睥睨すれば、江東に於ける孫策の苛烈な攻勢は目に余る。北の戦乱を逃れて南に下って来た才智を自分の下に集め、陥落させた地域で多くの兵馬を併合し、他方、年ごとに天子へ献上物を奉ることも怠らない。美辞麗句で飾り立てられた書簡の上で見る彼は、得体が知れないの一言に尽きた。
「――ああ、でしたら、承ります」
 唐突に深々と頭を下げた張紘に、兄弟のみならず曹操を目を丸くして驚いた。なぜです、と思わず声を上げた孫権だったが、曹操の大笑に肩を竦ませて押し黙ってしまう。
「そうか、それはよかった。いや、話がすぐにまとまって何より。私もこれから疾く北へ向かわねばならなかったのだ」
「袁本初どのと戦争ですか」
「うむ。私が陛下を奉戴したのが気に食わんで、恐ろしい数の兵馬を揃えてきおった。あれの意固地にも猜疑心にも困ったものです。立ち向かわねばならぬ私の身にもなってほしい」
「一軍を統べる者の労苦は我々には察し得ませぬ。ご武運をお祈り申し上げております」
 張紘に目配せされて、孫権と孫儼も慌てて頭を下げる。ありがとう、と言って立ち上がった曹操が、張紘の傍に膝をついた。
「では、これより府へ案内させていただこうと思うがいかがかな」
「いえ、一度彼らと共に下がります。討逆様への書簡も用意せねばなりませんので」
 そうか、と残念がるでもなく笑みを浮かべた曹操は、今度は孫権と孫儼の前に膝をつくと、すまぬな、と言った。
「孫討逆によろしく頼む」

 客室に戻った三人が事の次第を告げると、一番慌てふためいたのは呂蒙だった。朱然も同様に驚いてはいたが、呂蒙の度を越した狼狽ぶりに些か冷静になったらしかった。
「な、なりません、困ります。私は皆様の無事のご帰還を討逆様に言いつけられているのです」
「『なりません』ではありませんよ、呂別部司馬。あなたは司空より偉い立場ですか?」
 張紘に返され、眉間にぐっと皺を寄せた呂蒙はなおも食い下がる。
「ですが、ですが、このようなことのために我々はこの許に足を運んだのではありません」
「では仲謀様か叔弼様、どちらかをこの許に残して我々は江東へ帰りますか?」
「そういうことではありません!」
 呂蒙の大声に肩を震わせたのは徐元だった。彼は、室に戻って来たきり扉の横で歯噛みして俯いている孫儼の傍に寄ると、嫌です、と言った。
「俺は……皆で呉に帰りたいです」
「……子綱どのが決めたことだ」
 そんな、とこぼして俯く徐元を見ていた孫権は、室の隅で木片に孫策への文をしたためている張紘の傍に立った。
「子綱どの、……その」
「仲謀様」
 言い淀む空気を察したのか、ぱっと顔を上げた張紘は笑みを浮かべて孫権を見た。
「私が広陵から江東に移って来ましたのは初平四年の暮れです。その年の秋から興平元年の初めにかけて、曹孟徳は徐州に陶謙を攻めました。その大義とは、彼の父親を陶謙に殺害されたゆえです。父の讎は共に天を戴かず、これはあなたたちご兄弟にも理解できるところでありましょう」
 突然の話に狼狽えるも、孫権は首肯した。
「しかし曹孟徳は陶謙とその足下の兵のみを攻むるに足らず、徐州を兵馬で踏み荒らし、無辜の民をも虐殺しました」
「なんだと!?」
 室内を憂虞が支配する。彼ら一人ひとりを見回し、張紘は続けた。
「中平六年、当代の天子霊帝が急逝すると、袁本初は兵を率いて洛陽に乗り込み、その当時宮中を支配していた宦官たちを皆殺しにしました。無論、権力を傘に神聖なる宮中を跳梁跋扈する者たちが相応の報いを受けるのは当然の成り行きとも言えましょう。ですが彼らが殺戮した二千人に上る犠牲者の中には、髭が薄かったために宦官と間違われて殺された者、何の罪もない誠実な者も混じっていたといいます」
 孫権は絶句した。小首をかしげた張紘が、よろしいですか、とよく通る声で言った。
「彼らは、そういう戦ができる者たちです。“そうさせないために”私が許に勤めることを、お許しいただきたい」
 張紘は席から離れて孫権の前に跪くと、その両手を取って孫権の顔を見上げた。
「文事で必ず皆様をお守りいたします。帰途、どうぞご無事で」
 そっと彼の額につけられた孫権の指先に熱が集まる。彼は頬を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな目をしていた。

 一晩許の宿舎に泊まった一行は、翌朝、執金吾の巡回が終わる刻限を見計らって足早に都を発ち、呉への帰途についた。帰り際、孫権が大通りから宮殿を振り仰ぐと、最上部の開かれた窓に人影が見えたような気がしてまばたきをする。
「仲謀様、前を見ないと危ないです」
「あ、ああ、すまん」
 谷利に言われ慌てて前を向いた孫権だが、やはり少し気になってもう一度そろりと宮殿を振り返った。もう既に窓は閉じられていて、宮殿はその荘厳な佇まいを守ったまま、浅紫色の空を背に言葉もなく威圧感だけを放っている。
「仲謀様」
「す、すまん!」
 再度谷利に急かされて、孫権は急いで居住まいを正す。二人のやり取りに前を行く朱然がチラリと目を寄越したが、すぐに元に戻った。
 重々しい足取りで城門を抜け、眼前に広がる平原へ騎馬隊は進んでいく。ただ一頭の鞍の上に騎手の姿はなく、僅かな荷物だけが付けられていた。
 十二月の風が吹きすさぶ豫州は、北の空に雷雲を湛えている。一行はひたすらに南を目指した。
 建安四年はその向こうに動乱の気配を隠しながら、言葉少なに暮れていった。