張紘が帰って来ないことを伝えると、孫策は寂しそうに、そうか、と言った。
 私は彼の書く手紙が好きだから構わないよ、と微笑む彼に孫権は言葉を返すことができずに、曖昧に頷いて彼の前から辞去してしまった。


 ◇


 陳端が危篤に陥った。劉勲征伐以降、体調を崩し呉の邸宅に籠って安静にしていたが年明けに容態が急変し、治療に当たっていた医師によるともう長くはないだろう、ということだった。
 底冷えのする夜、孫権と谷利が陳端の邸宅を訪れたときはすでに邸内に家人以外の気配はなく、案内された彼の寝室に入ると、陳端の横たわる牀の脇に置かれた火鉢と燭台だけが弱弱しい光を放って、心もとなく、また寂しく思われた。
「こうなってくるとなんとなく自分で自分のことはわかるもので、もういいからとお医者様にはお帰りいただいたんです。手配してくださった討逆様には本当に、お気遣いいただきありがとうございました」
 陳端は微笑む。谷利が宣城で初めて彼と出会った時に見たような、苦笑交じりだった。まだ四十路を過ぎたばかりの彼の頬はすっかりこけて、落ちくぼんだ目元は宵闇に解け、青白い輪郭だけが浮かんでいる。
 彼はうわ言のように、傍に坐る孫権と谷利へ語りかけた。
 そこへ――そことは彼の部屋の隅の陰であるが――腰掛けている赤い着物の兵士が見えますか。少し前に私を訪ねて来たもので、泰山からの遣いです。昨日まではまだですか、まだですかと急かされておりましたが、今日は朝から平然と坐ってらっしゃるのでもうすぐなのでしょう。外に馬車を待機させているとのことです。私めなぞにそのような待遇は要らないと言ったのですが、彼は首を振って聞いてくれません。そういう取り決めなのでしょうが、恥ずかしい限りです。
 谷利には赤い着物の兵士の姿など見えないし、部屋の隅には黒々とした闇があるばかりで、もちろん陳端の邸宅に入る前に馬車の姿を見ているわけでもない。
「そのような者は私が追っ払います。子正どの、隅とはどちらの」
 やにわに立ち上がった孫権の言によれば彼にも兵士の姿は見えないらしい。陳端は枯れ枝のようにほっそりした指で孫権の着物の裾を引き、構いませんからどうぞお坐りください、と彼を制した。
「谷利」
「――はい」
 坐り直した孫権を見届けた陳端に不意に声をかけられて、谷利は肩を強張らせる。彼は、あなた方の屯では、とぽつりと言った。
「死者を弔う時はどうするのですか」
「……我々は土に埋めます。虎の骨で作った墓を建てて、その前で皆で酒を飲んで騒ぎます。そうすると神さまの遣いが来て死んだ者を連れて行ってくれます」
「連れて行くというのは、どこへ?」
「神さまの下へ。そこで五千日修行をして神さまに認められれば、もう一度新しく生まれることができるのです。我々は十四の歳に若者だけで神さまの化身である虎を殺すことでその力を得、一人前として屯に改めて迎えられますが、死んでしまえば無力ですから」
 ははあ、と嘆息しながら何度も頷いていた孫権が不思議そうな表情で首をかしげ、認められなければ? と問うた。
「まず神さまに頭を、それから残った体は五つに分けて神さまの子供たちにそれぞれ食われます」
「くわ……、…………」
 谷利の言に孫権は両手で顔を覆って伏せってしまった。陳端が小さな笑い声をあげる。
「それもいいですね」
「そうですかね……」
 顔を上げた孫権の苦い表情に、陳端は微笑みかける。
「がんばればどうにかお認めいただけるかも知れないじゃないですか。私はやり残したことが多いので、もう一度生まれ変わりたいですよ」
 その言葉にはっとなった孫権が陳端の手を握る。お元気になるのですからそういう言い方をしないで、と懇願するような声色の彼を、陳端は目を細めて見つめた。
「仲謀様の手は温かいですね。火鉢の火よりよほど……」
 すう、と息を吸い込んで、陳端は目を伏せた。少しすると寝息が聞こえてきて、孫権はあからさまにほっとした表情を見せる。そうっと掛布団の中に彼の手を仕舞うと、行こうか、と呟いて孫権は立ち上がった。
 室の外に出ると、扉の脇に人影が見えた。見ればどうやら長い時間その場に控えていたらしい陳端の子息が体を震わせながら頭を下げている。慌てて駆け寄る孫権に、大丈夫ですから、と彼は弱弱しく笑った。
「ありがとうございました。父の死ぬ前にいらしていただけて、本当に本当に喜ばしいことです」
 まだ齢十八だという彼は将軍府に勤める官吏の一人だが、陳端の容態が重篤なものとなってからは休暇をもらって家に引っ込んでいる。
「そのように仰らないでください。お父上は必ず元気になりますよ」
 孫権が言うと彼は首を振って、もういいのです、と言った。
「なんとなくわかるもので、父は本当にもう長くないのです。父は――」
 言葉が途切れて、彼は手で目元を覆う。孫権がそっと触れると、その手は冷たく、しかし寒気のためだけではなく震えていた。
「討逆様の、下で、働くことができて、本当に、幸せだったと……思い、ます」
 孫権は彼を抱きしめた。孫権もまた、涙を流している。
 ――よく泣く人だ、と谷利は思った。
 谷利は泣かなかったが、あの日、宣城の夜に泣いた己の頭を優しく撫ぜてくれた陳端の手の心地よさが思い出されて、胸が苦しくなった。

 その日の内に陳端は静かに息を引き取った。
 深夜にも関わらず馬車が遠くへ去る音が聞こえたのだと、喪明けに登庁した彼の息子は不思議そうな表情で語ったという。


 ◇


 建安五年、春の暮れ。孫策の元に一通の書簡が届けられた。広陵太守である陳登、字を元龍が江東地域に侵攻するための軍を編成しているとの報告を用間より受け、その対応のために軍議を開いた場でのことだった。
 始めは何のことはないように書簡を読み進めていた孫策の表情が、次第に眉間に深い皺が寄り、眼が大きく見開かれ、歯を食いしばり怒りを湛えたようなものに変わる。それを見た孫権が腰を上げようとしたとき、ガン、と大きな音を立てて孫策が書簡を床に投げつけた。
 評定の間がシンと静まり返る。
「と、討逆様!」
 一番に沈黙を破った孫権が焦って駆け寄ると、彼の顔をはっと見た孫策は、すまぬ、とぽつりと謝って素早く書簡を拾い上げ、元通りに巻き戻して孫権の視界に入らないよう隠すようにしてしまった。孫権はどうしてもそれが見たくて、縋りつくように彼の前に回り込むと膝をつく。
「討逆様、今しがたの文にはなんとあったのですか」
「いや――お前が気にするようなことじゃない。話を戻そう」
 ぱっと手を振って孫権を追い払おうとするような孫策の仕草に、孫権は不安が掻き立てられてその場に留まったまま頭を下げた。
「あのようにお怒りになるということは余程のことでありましょう。私どもがその鬱憤を晴らします、どうかお話しください」
「いいや、私事でお前たちの手を煩わせるわけにはいかない。下がれ」
「後回しにしてはなりません。討逆様の私事は引いては軍の私事に通じるかと」
「谷利!」
 食い下がる孫権から目を逸らし、孫策は谷利に声をかけた。
「下がらせろ」
「…………ですが」
「下がらせろ!」
 ほとんど怒号だった。谷利は立ち上がると足早に孫策の前に跪く孫権の傍へ寄り、小さな声で、ここはこらえてください、とその肩を叩く。眉をひそめて立ち上がり、出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした、と首を垂れる孫権の様子は、少しも本心から謝罪したいとは思っていない風だった。
 自身の席に戻った孫権を見届けた評定の間に集まった群臣たちは明らかに安堵した様子を見せた。気づかれないように一同を見回した谷利は、密かに溜め息をつく。
 劉勲、そして黄祖征討のために軍を西へ動かした後、孫権たち許都を訪問する一団が北へ向かう一方で、周瑜は巴丘、呂範は鄱陽、程普は石城へ駐屯して軍事に当たることとなった。黄蓋や韓当、或いは周泰や蒋欽といった武官の面々も、江南の趨勢定まらぬ地域や県の長として各々任地に留まり働いている。――折悪く、孫河は曲阿へ、朱治は丹楊へ、張昭は富春へ、それぞれ出かけていた矢先の出来事であった。

 軍議が散会した後、奥の政務室に足早に引っ込もうとする孫策を追って孫権と谷利は走った。
「討逆様! お待ちください、討逆様」
 政務室の前で立ち止まり振り返った孫策を見てほっと息を吐いた孫権は、改めてその前に片膝をついて拱手した。谷利もそれに倣い、膝をついて頭を下げる。
「先ほどの書簡、やはり放っておけません。もし大事になさりたくないと仰せであれば、私どもで内々に対処いたしますゆえ……」
 顔を伏せ、あくまで孫策にだけ届く声で言う孫権を見下ろしながら、孫策は苦虫を噛み潰したような表情をする。目線だけを上げてそれを見た谷利は唾を飲み込んだ。
「……要らないよ。権。本当にこれは、私だけのことなんだ」
 抑えたような声音だった。
 “これ以上はいけない”と谷利は思い口を開くが、しかし孫権の勇敢な心の方が早かった。
「ですが、あなた様があのようにお怒りになられたのを見たことがございません! それが私事だというなら尚のこと、よもや小事と侮り禍を看過するようなことがあっては――」
 ――孫策の手が勢いよく伸び、孫権の胸ぐらを掴んだかと思うと、ぐいと乱暴にその体を引き起こした彼が、禍だと、と叫んだ。
「お前まで私を禍と呼ぶか!!!」
「……っ!?」
 顔を真っ赤にした彼が、孫権を壁に押しつけた。背をしたたか打って息が詰まり、孫権は目を見開く。襟首を掴む孫策の手をどうにか引き離そうとしてもがくも、怒りに震える彼の力は強く、その腕はびくともしない。ちがいます、と小さな小さな声を出した彼はしかし、頭が真っ白になって何と言葉を続けるべきかが全くわからない。
「真勇と蛮勇の区別もつかぬ役人風情とお前が同じことを言うな! 己の分別も弁えず覇王などと嘯くような愚者と私は違う!!」
「あ……に、うえっ、なにを、仰って……」
 ケホ、と咳き込む孫権を見た谷利は弾かれたように立ち上がり、腰の剣に手をかけた。

「何をしている!!」

 鋭い声が場の空気を引き裂いた。回廊を振り返ると、どうやら曲阿から戻って来たらしい孫河が血相を変えて走って来る。その場に駆けつけた彼は提げていた剣を鞘から引き抜き、勢いそのままにその切っ先を谷利の首筋に突きつけた。その後ろを追って来た彼の二名の護衛もまた、剣の柄に手をかけながら戸惑った表情で谷利を見つめている。
「今何をしようとしていた、谷利!!」
 変事に気づいた孫策が孫権の襟元から手を放し、剣の柄に触れたままの谷利の手を見た。
「――そうか、私を斬ろうとしたのか。権を助けようと?」
 膝から崩れ落ち、激しく咳き込む孫権が谷利の視界に映る。目が合った彼は、弱弱しく首を振り、だめだ、と息も絶え絶えに言った。
「利、私は、なんともない」
「…………」
 おもむろに剣から手を放した谷利は俯き、申し訳ありませんでした、と言った。
「それで済むと思っているのか? ――伯符、これはどうしたことだ」
「……私が、怒りに任せて権に無体を働いたんだ。谷利はそれを諌めようとしただけだよ」
 その返事に眉をひそめる孫河は、俺の留守の間に何があったんだ、とぼやく。言いたくない、というように顔を逸らした孫策の態度に首をかしげた彼は、ひとつ溜め息をつくと谷利を制していた剣を鞘に納め、彼の剣を取り上げた。
「谷利、お前のしたことは例え未遂でも重大だ。どんなにお前が仲謀に仕えているからと言っても、仲謀は伯符の庇護下にあるのを忘れてはならない」
 一晩圜土に入って頭を冷やせ、と孫河は言うと、谷利の横をすり抜けて孫策の傍に寄った。
「伯符、仲謀、話せることがあったら聞こう。お前たち、そいつを獄へ連れて行け」
「承知」
 孫河は気まずい様子の二人を連れて政務室に入って行く。
 静まり返った回廊に残された谷利は護衛たちに連れられて、将軍府の離れに設えられている牢舎へと向かった。
「何をしてるんだよ、お前は」
 道中、呆れたように言って谷利の頭を軽く叩いたのは孫高、字を公崇。本当だよ、と谷利の肩を小突いたのは傅嬰、字を仲進。彼らもまた谷利とは顔馴染みで、年の近い兵士であった。
 当直の牢番に空いている牢の鍵を開けてもらい、素直に中に入って坐り込んだ谷利を見届けると、二人もまたその柵の前に胡座を掻く。
「なあ、本当になんであんなことになったんだ。お前、自分が何をしようとしたかわかってるのか?」
 傅嬰の言に、谷利は膝を抱えて首を振った。はあ、と冷たい牢舎に響くほどの溜め息をつき、孫高は肩を竦める。
「驚いたよなあ、伯海様についていってみれば討逆様の怒鳴り声が聞こえるんだから。久しぶりにあんな怒鳴ってたかもな」
「このところは叔弼様がずっと苛々するばかりだったからねえ」
 あはは、と事もなげに笑い合う二人は、普段は孫儼や徐元らとつるんでいる。彼らより年長なこともあって、大人ぶって振る舞う孫高や傅嬰を鬱陶しそうに見る孫儼や素直に懐く徐元の様子は、詰め所ではよく見られる光景のひとつだった。
「お二人は……覇王というのはご存知ですか」
「覇王? 西楚の覇王だろう?」
 傅嬰が小首を傾げる。セイソの覇王、と鸚鵡返しに言葉を紡ぐ谷利に、知らないのかよ、と孫高が笑う。
「高祖と争って敗れた英雄じゃないか」
「コウソと」
「ちょっと待て、それもわかんないのかよ」
 あのなあ、と身を乗り出して孫高が語ったのは、遥か古の英雄譚だった。神話でも物語でもない、かつて中国をその足で駆け抜けた天下人たちの生き様。
 谷利はしばしば息を呑み、しばしば心を震わせた。孫高の大袈裟な身振り手振り、傅嬰の合いの手や反論、時にいいや高祖は、違う項羽は、などとささやかに言い争ったりしながら、二人はまるで己も彼らの軍に連なり共に戦った兵士の一人であるかのように谷利に話して聞かせてくれた。
「それで、項羽は呂馬童にこう言うのさ。私の首にかかっている褒賞をすべてお前に与えよう! そして、ついに自刎して死ぬんだ。その首は漢将王翳が取り、体は五つに切り刻まれてそれぞれ五人の将が己の手柄としたのさ」
「え?」
 不意に疑問の声を上げた谷利を二人が見る。谷利は、なんでもありません、と口では言いながら、心臓が激しく脈打つのを感じた。
 宛陵の北二百里、長江のほとり烏江でその一生を終えた英雄のための挽歌は、まるで己の屯に伝わる神話に似ていた。ああ、谷利は何度も何度も頷く。
「ではなぜ、討逆様はああまでお怒りになったのでしょうか。愚者とまで呼ばわっておりました。お話を伺えば、私には江南の偉大な父祖の一人に思えます」
「さあ……まあそりゃ、好きな人もいれば気に食わない人もいるだろうさ。討逆様がそうなのは意外だったけれど」
 傅嬰が首をかしげながらそう言ったとき、牢舎の入り口がにわかにざわめいた。振り返る二人が驚いたように慌てて立ち上がり拱手するのを見て、谷利もそろりと柵に近寄る。仲謀様、とほとんど同時に叫んだ二人の声に、谷利は柵にしがみついてざわめきの方を見ようと躍起になった。
 面にうすく笑みを浮かべながら、孫権がひたひたと牢舎の廊下を歩いてくる。小脇にはなぜか、普段彼が将軍府で休眠を取る際に愛用している掛け布を数枚抱えていた。
「二人共、まだここにいたのか。何の話で盛り上がったんだ?」
「あ、いや……」
「お二人に項羽のお話を伺っておりました。西楚の覇王の」
 谷利の言葉に合点がいった孫権は、ああ、と頷いた。
「あの書簡には討逆様を項籍に喩え、詔勅を発して首都へ呼び寄せ、地方に野放しにしてはおかないようにと書かれてあった。許太守が出した上表文だそうだ。……必ず世に患いを作るであろうと」
 孫権の表情が苦々しく歪む。
「……討逆様の王室に対する忠心、高邁なご意志が疚しい者たちには理解できないのだ。徒に歳ばかり重ね、お若い天子様を己がものとして翻弄しようとするような奴らには」
 どすん、と孫権は苛立たしげに、孫高と傅嬰の横に胡坐を掻いた。孫高がまるで悲鳴のような声で、おやめください、と言う。恐々とする彼らに孫権は、お前たちは職務に戻れ、と笑いかけた。
「これよりは私がこやつの話し相手になろう。ご苦労だったな」
「いや、で、ですが仲謀様をこのようなところに残していくわけには……!」
「今日はここが私の政務室なのだ。いいから行きなさい」
 孫権の言葉に不可解そうな表情を浮かべる二人に手を振り、孫権は尻を浮かして坐り直した。では、と遠慮がちに去って行く孫高と傅嬰を目で見送った彼は、牢の中から己をねめつける谷利を見た。
「史記の話は面白かったか?」
「項羽の話ですか?」
 そうだ、と孫権が頷くと、谷利は彼と同じように牢の中で胡坐を掻いて大きく頷いた。
「とても面白かった。私の屯の神話に似ていました」
「きっとそうなのだろうな。そんなふうにいつか人も神になるのだ」
「皆様の王室や、例えば皆様の間にも神話があるのですか」
「私は知らないが、そういう話をする者も少なからずいる。機会があれば会ってみたいものだ」
 実は私もそういう話は好きなんだ、と楽しそうに孫権は笑った。
 その内にどこか遠くから夜の訪れを告げる鐘鼓の音が聞こえてくる。孫権はふと牢舎の入り口の方に目を遣り、それからぽつりと、暗いな、と呟いた。
「もう寝てしまおうか。利よ、寝物語に史記の他の英雄の話でもしてやろう」
「えっ?」
 膝に掛けていた掛け布を羽織り――谷利にも一枚差し出すと――牢の柵に背を預けてそう言う孫権に谷利は驚いた。
「な、何をしてるんですか?」
「今日の私の政務室はここだと言っただろう。まあ……雑談をしてばかりだったが」
 小さく肩を揺らす孫権には、谷利の困惑した表情は見えない。それよりも彼は、史記の英雄について考えていた。
「呉の伍子胥、楚の荘王、屈原もいいな……利よ、詩は好きか。屈原も武人とは違うがまた英傑だよ。世幽昧にして以て眩曜す、孰か云に余の善悪を察せん……」
 歌うような孫権の低い声は、牢舎にかすかに響いていく。
 ふとその歌が途切れたところで、谷利は口を開いた。
「あなた様のお父君のお話はありませんか」
「私の父の? …………」
 彼はしばらく黙り、それから、あまりないな、と呟いた。
「私はここよりもずっと北の下邳で生まれたんだ。その二年後に黄巾賊が蜂起し、父はその鎮圧のためにさらに北へ向かった。それからはもうずっと西へ行ったり南へ行ったり、各地で頻発する叛乱を抑えるために軍を走らせた。その頃には我々は舒に拠っていたが、たまに帰ってきてもすぐに出て行くような有り様で――父が戦死したのは私が十か十一の頃だったと思う。父とは……もう三年は会ってなかったはずだ。覚えていないだけかも知れないが」
 孫権は少しだけ背後の谷利を振り返るようなそぶりをした。
「私が知っている父のことは余人に伝え聞いたものばかりだ。父については私よりも程公や君理どの、義公どのや公覆どのの方が詳しいよ。彼らはずっと父に従って各地を転戦していたから」
「黄校尉もそう仰っていました。ずっと戦争だったと」
 谷利が言うと、そうだろう、と孫権は頷いた。
「……実を言うと、私は兄についてだってそんなに詳しくないんだ。江東の平定のためにどれほどの苦難に遭ったか……敵に攻囲されて死にかけたことだって、伯海どのが教えてくれなくちゃ私は知らないままだった」
 誰も皆、己の口からは己のことを語らない。それはまるで、お前には伝えても意義がないからだと言われているようで、本当は孫権は心の底でいつも居心地の悪さを感じている。
 もぞもぞと体を動かして坐り直した彼は、背中を少し丸めて息を吐いた。
「……だが、これだけはわかる。兄は天子様からそう賜らない限り、自分で自分のことを『王』だなんて嘯いたりしない。兄は……討逆様は、天子様のことを想ってらっしゃるのだからな」
「――はい」
 谷利の返事にひとつ頷いた孫権は、体ごと谷利に向き直ると柵に顔を寄せて、お前のお父君は? と首をかしげた。
「お母君の話は聞いたことがあるが、お父君はなかったように思う」
「ああ……はい。私の父は、頑固で、そうですね……人と話すのが好きでした。そんななので友人とぶつかることも多々あって……よく母に愚痴をこぼしたりしながら、でもその翌日にはまた彼らとつるんで笑っているような人でした」
「ふうん……お前はお父君にはあまり似なかったのか」
 からかうような物言いにも谷利は、そうですね、と静かに返す。何度も友人たちと喧嘩をしてはそのたびに母に半ば泣きついて不満をもらすような父の姿を見ていたから、谷利は口数を少なく何事も受け流すように努めてきた。父の生き方も楽しそうではあったが、谷利はそれよりも面倒ごとを引き受けることの手間を嫌った。
 谷利の友人たちは、彼のことをそういう男だと理解してくれた。そして父の友人たちは、父をそういう男だと理解してくれていたのだろう。それはとても幸運なことだった。
「……宣城での戦の前にも一度、衝突があったのを覚えていますか」
「うむ。程公が総大将となって率いた戦だな」
「その戦で死にました。――帰って来なかったので、恐らくそうだと思います」
 孫権は谷利の顔をまじまじと見た。暗闇の中でその碧い両目が、どこかから光を集めて反射している。
「それは……その」
「いえ、だからどうだと言うわけではなくて……」
 失言だったか、と谷利は頬を掻く。何か言いたげな表情の孫権はしかし、言葉を見つけられないのかただ谷利を見つめているだけだ。
「……その死に際し嘆いてくれる者があるのは幸せなことだと、そういうふうに思いました」
 そう言って、居たたまれなくて谷利は俯いた。その頭を柵の間から伸ばされた孫権の手がささやかに撫ぜる。
「私もお前が死んだらきっと泣くだろうから、あんまり泣かせないでくれ」
「…………」
 谷利は俯いたまま、首肯した。
 元より、生きるならこの人のために生きて、死ぬならこの人の傍以外にはないのだ。


 ◇


「何をなさっておるのですか仲謀様!!!!」
 牢舎に怒号が響き渡った。勢い跳び起きた谷利は、牢舎内の明るさに驚くよりも早く、同じように跳ね起きた孫権の眼前に仁王立ちする張昭を見て震えあがる。
「お姿が見えないと思って伯海どのに尋ねればよもやという話だったが……どうしてあなた様はそう不用意な真似ばかりなさるのだ!!」
「も、申し訳ありません張公、私は、その」
「己が過ちを謝罪する前になさらねばよいこと!!」
 仰る通りです、と正座をして体を縮こまらせた孫権は、張昭の咆哮を一身に浴びている。思わず彼を弁護しようと口を開いた谷利は今度、矛先を変えて柵越しにギロリと己を睨みつけた張昭の視線に固まってしまった。
「お前もお前だ、谷利! 聞けば討逆様に剣を向けようとしたらしいな? 討逆様と仲謀様の寛大なお心遣いがなければお前の命は今頃ない。それを骨身に刻んでおけ!!」
「はい! 申し訳ありません!」
 べたりと両手を床について平伏した谷利を見た張昭は鼻を鳴らし、ところで、と孫権に目を遣った。
「――いや、ところでも何もないでしょうな。そのご様子では」
「? いかがなさいましたか」
「討逆様がどちらに向かわれたかご存知ではありませぬかな」
 その問いに孫権は首をかしげる。何せ今が何の時刻かもわかっていないような身だ。案の定の孫権の様子に張昭は、とにかく府に戻りましょう、と言った。
「ほら、谷利、お前も出るのだ。すっかり頭も冷えたろうに」
 牢番から預かったらしい鍵で手ずから錠を開けた張昭は、二人を先導するようにさっさと先へ進んでいく。牢舎から出れば、東の空を陣取る太陽が外を強く照らし始めていた。
「いらっしゃらないのですか」
「兵を数名連れてお出かけになられたと小門の衛士が申しておりました。徒歩だったそうですから狩りではないようですが……全く何度諌めてもお聞きにならぬ」
 過日などは虞仲翔にまで諫言されたというに、とぶつぶつ言う張昭に孫権は苦笑する。
 三人が将軍府の小門前まで来たとき、向こうから三人の大柄の兵士を連れた孫策が歩いてくるのが見えた。小門の衛士に挨拶をした彼は張昭たち三人を見つけると表情を強張らせる。
 張昭が片眉を上げて、大股で孫策に歩み寄った。
「討逆様、張子布は今朝方戻りました。どちらへ行かれておったので?」
「私は……、…………」
 孫策は張昭の手をそっと取ると、俯いた。
「……許太守を殺しました」
「! …………そうですか」
 一瞬眉を寄せた張昭に孫策は歯噛みして、それだけですか、と詰め寄った。
「私を咎めたり、落胆したり、そういうことはありませんか。頭の良いあなたには何か思うところがあったはずだ」
「討逆様、私が考えたことはひとつきりです。例え何があってもあなた様が一切の憂いなくあなた様の理想を完遂できるよう、我々がその助勢とならねばと」
 いつもそれきりです、と張昭は無愛想な顔に似合わない笑みを浮かべた。その言葉に孫策の切羽詰まったような表情が変化する。
 彼はどこか泣き出しそうに見えた。
「さあ、政務室に戻りましょうぞ。皆あなた様のご帰還を待っております」
 張昭に誘われて、孫策と孫権、そして谷利は将軍府へ入って行く。途中、出迎えた孫河と話し込む孫策を横目に、張昭は小さな声で孫権と谷利に話し掛けた。
「討逆様の弟君であらせられるあなた様にこのようなことを申し上げるのも心苦しいですが」
「いいえ、なんなりと仰ってください。私は討逆様の弟である前に、討逆様を守る一人の臣です」
 張昭は孫権の顔をじっと見つめ、それからささやくような声で、討逆様から目を離してはなりません、と言った。
「あの方はお立場の割に危うすぎる。若すぎる、と言ったらいいのか……」
 言葉を選ぶように張昭は視線をあちらこちらへ彷徨わせる。
「お一人にしてはなりません」
「ええ……肝に銘じておきます」
 頷いた孫権はしかし、心に言い知れぬ不安を覚えていた。
 振り返り、己を見て少し微笑む孫策の面に、回廊に射す朝の光が影を作る。それがどこかおぼろげにも見えて、孫権は己の手をぐっと握りしめた。


 ◇


 孫策の軍にとって僥倖だったのは、軍を率いる孫策自身が武勇に優れ、まさに神勇とも言うべき力でもって豪然と兵士たちを先導してきたことにある。しかし不運にもそれはまた、彼の軍にとっての瑕疵でもあった。

 孫策の駆る馬は誰よりも速く、また勇敢だった。置き去りにされた護衛の兵士たちが彼の影を追って辿り着いた時には既に、彼は剣を握りしめたまま人事不省の重傷を負って林の中に倒れ伏していた。
 周囲には彼が自ら戦って斬り殺したのであろう下手人の遺体が転がっている。兵士たちは必死に彼を担ぎ上げ、猛然と将軍府へと取って返した。

「討逆様が、討逆様が、許貢の食客の手に掛かり、深傷を負われました!!」

 政務室でその報を受けた孫権は真っ青になり、谷利に腕を強く引かれるまで、膝から崩れ落ちたまま動くことができなかった。