将軍府内に勤める官医の元に運び込まれた孫策にはすぐさま治療が施された。
 一日目には昏睡状態に陥りぴくりとも動かなかったのが、二日目には傷もふさがり容態も小康を得たとして見舞いが許された。孫策が気が付いたのは三日目で、そのときには二日ぶりに目覚めたとは思えないほど快活に笑い、誰もが彼の容態は快方に向かうのだろうと思っていた。
 しかし、異変は四日目に起こった。
 思うように口を開くことができない、と彼は途切れ途切れに官医に訴えた。カタカタと小刻みに手が震え、噛み合わせを激しく鳴らし大量の汗を掻く彼に官医もただ事ではないと判断したのか、すぐに幕僚たちに連絡を取り有事を伝えた。股肱が駆け付けたとき、額に深い皺を刻み、苦しそうに呼吸をする孫策は“笑い”、彼らに一言一言噛みしめるように言葉を伝えた。

 陳端の言葉が谷利の脳裏に反響している。こうなってくると自分で自分のことはわかるもので、と微笑んだ彼は既にない。
 月が天頂に昇りかけている夜半。今、孫策は、邸宅の奥に臥している。彼の母親である呉夫人が昼夜寄り添っていたが、ついにその枕元に張昭や朱治、孫河といった主だった群臣たちを呼び寄せ、後事について託しているという。周瑜や呂範といった遠地で任務に当たっている将たちにも早馬を出したが、きっと間に合わないだろうとは――息も絶え絶えの――孫策自身の言だった。
 孫儼は邸内に入り正庁にじっと坐して黙っているが、孫権は少し前に戻って来て谷利と共に外にいることを選んだ。大事にはしたくないと孫策が望んだため、邸宅の守備は少人数の精兵で回されている。
「……中にお入りになられた方がよろしいのでは。夜気がお体に障ります。ここは私が見ておりますから」
「……嫌だ」
 孫策邸の玄関の脇に仁王立ちする谷利の隣で、彼はしゃがみ込んだまま俯いている。谷利はふっと嘆息した。
「嫌だ、とはなんですか」
「討逆様がいなくなった後についての話など聞きたくない」
 膝に顔を埋める彼の声はくぐもって聴き取りづらいが、谷利には彼の言うことがよくわかった。寄り添うように彼の傍に坐った谷利が、叔弼様は毅然としておられますよ、と言うと、孫権は、そうだろうさ、と投げやりに言った。
「……聞いてしまったんだ。張公が、兵馬の権は儼に託されるがよろしいと討逆様に訴えているのを」
 谷利は瞠目する。最も歳の近い孫権を差し置いてその下の弟である孫儼がその事業の後継となることはあり得るのだろうか。いや、それよりも――
「ご子息ではなく、ですか?」
 孫策には生まれたばかりの息子、孫紹がいる。谷利は彼らの世襲のことについては明るくないが、例えば孫堅の後継が孫策であったように、通例であれば孫策の嫡男がそれに当たるのではないだろうか、と踏んだ。
「まだ歩けもしないのにか?」
「……それは、そうでしょうが」
 そういうこともあり得るのかと思っただけです、と谷利は弁解する。その言葉に、孫権が小さく笑った。
「――私も、儼がいいと思う。趨勢定まらぬ江東や江南は、討逆様の武勇によって少しずつ平定されてきたのだ。今この勢いを削がれてしまうようなことがあってはならない……儼ほどの勇武なら、我々討逆様の下に集まった軍をその剛力で率いてくれるはずだ」
 眉根を寄せて、泣きそうになるのを堪えるようなそんな表情で、口元を歪ませながら孫権は言う。
 そんな顔をして言うことだろうか、と谷利は思う。きっと彼だって、あの美しい男から何かを託されたくて奮励努力を重ねてきたはずだ。それは確かに、こんな形ではなかったかもしれないが。
「……少しお休みになるべきです」
 ぽつりと言った谷利の言葉に、孫権は顔を上げて首をかしげる。
「皆様方も、江東、江南の地も。もちろん、騒がしくするような連中は黙らせたっていいでしょう。かつては私もその一味でしたが……」
 今となってはあなた様の平穏以上に大切なことはありませんから――谷利の言葉に目を丸くする孫権は、どういうことだろうか、とささやくように問いかける。
「がんばれば、それだけ疲れるじゃないですか。しばらく日向で昼寝するくらいの暇があったって、私はいいと思います」
 谷利が言い終えたとき、彼らの背後にある玄関の扉が勢いよく開けられた。驚きに振り返ると、険しい顔で孫権を睨みつけた孫儼が、来てください、と言う。孫権は立ち上がることを躊躇ったが、彼にもう一度兄上、と呼びかけられ、いよいよ観念したのかおもむろに立ち上がった。
 谷利を振り返ることもせず、二人は足早に邸内へと入っていく。それを少しだけ寂しいと思いながら、谷利はまた立ち上がり、彼に託された守衛の任を果たすことに努めた。

 孫策の室の前には、張昭、朱治、孫河の三人が静かに立っている。二人が向かうと、朱治がそっと扉を開け、中に入るように促した。
 恐る恐る真っ暗な室内に踏み入ると、牀に臥す孫策の傍についていた呉夫人が彼らを振り返り、小さく微笑んだ。扉の脇に控えていた官医がすり足で二人に近づき、どうか平静に努めてくださいますよう、と小声で言う。頷いた二人は、静かに牀の傍へ寄ると膝をついた。日中、光を避けるために吊るされた天蓋の隙間から、小刻みに震えながら孫策が腕を伸ばす。孫権がその手を取ると、ガシリ、と強い力で掴まれた。
「げ、儼、儼もこっちへ」
「は、はい……」
 天蓋から覗く彼の顔は笑っていた。
 ――笑ったように、引きつっていた。
「儼、お前は、とてもたくましい、から」
 もう一方の腕を伸ばし、孫策は体を寄せる孫儼の腕に触れる。
「お前の、勇気で、け、権、を、励まして、やってくれ。で、でもその勇気は、危ういから、きっ、きっと、身の回りに、気を付けるように、わか、ったか?」
 弟を撫ぜる兄の手が震えている。孫儼の目から涙がこぼれ、孫策の着物の裾を濡らしていく。その滴を指で拭うと、孫策は今度、枕もとに手を彷徨わせた。
「兄上……? 何かお探しでしょうか……」
「…………」
 孫権の問いに返答するように何か孫策は言ったようだったが、それは傍にいる二人にさえも聞こえないような小さな小さな、かすれた声だった。
 やがて、彷徨する手は牀の傍に設えられた小卓の上、目的のものに辿り着く。手の中にころりと納まった小さなそれは、孫策が肌身離さず佩びていた彼の――討逆将軍の印綬である。目を見開く二人に、彼は痙笑ではなく確かに微笑んで、か弱く震える手で自身の握りしめる孫権の手首へとその紐を通した。
「権、お前、お前の戦は、決して、勇敢ではない」
 両の手で力強く孫権の手を握る孫策は、まっすぐに弟を見つめる。
 暗い中にも、光を集めてちらちらと瞬く碧の瞳を。
「お前には、天下の群雄たちと、あ、争うことは、できまいよ。それは、本当なら私の、や、役目だったんだ。武勇でもって、天子様を、お守りして、そうしたら、今度はきっと……」
 つと孫策の目から一筋、涙が伝う。
「でも、でもな、お前には、頼もしい、百官がいる。彼らと、心を合わせて、この江東を安らかな地に、する、ことが、お前にはで、できる」
「……あ、あに、うえ」
 孫権の目からもまた、滂沱と涙がこぼれた。はは、と笑うような息を吐いた孫策はしかし、泣き続ける孫権と孫儼を見て、顔を歪ませた。
「こ、こんなこと、ああ……私だって、し、死にたくない」
 一層孫策の手が強く孫権の手を握る。真っ白になった肌には痛みさえ感じたが、孫権はそのことに気づかぬほど心に衝撃を受けていた。
「死にたく、ないよ、権、儼。紹だって、生まれたばっかりで、これからどんどん、お、大きくなる。お前たちや、匡だって、立派に成長、してい、いくんだ」
 私はずっと、どこへいてもそれを見てきたんだよ、権、儼。あの日、父上が戦場に出て行ってから、江の周りを、住処を変え、あちこちを彷徨って、ようやっとこの呉へ辿り着いたときも。
「死にません、兄上は、死にません」
 必死になって孫権は訴えるが、孫策は“笑ったまま”涙を流している。
「天子様を、ああ、夢見ていたんだ、私はずっと。どこにいたって。あ、あの父祖の地で、あの雄大な山河、あの穏やかな入り江で、ああ、み、皆と遊ぶのを――」
 ――突如、孫策の背筋が引きつった。続けざまに呼吸が止まり、官医が、なりません、と悲鳴を上げて駆け寄ってくる。呼吸はすぐに戻ったが、咳き込んだかと思えばけいれんを起こし、アア、と孫策は叫んだ。弟の手を握りしめていたままだった手がぱっと離され、は、は、は、と小刻みな呼吸が続いている。やがてヒュウ、と風の抜けるような音を立てて息を吸い込んだ彼は、震わせていた瞼を僅かに開けたまま、動きを止めた。
 離された手を握り返して、孫権は、兄上、と小さく問いかける。
 答えはない。
 官医はゆっくりと孫策の顔の上に手を掲げ、しばらくそうしていたがじきにその手を下ろして、

 なくなられました
 と、一言、皆に告げた。


 ◇


 孫策、字を伯符は、呉郡富春県に生まれた。浙江の河口に位置するこの邑は、西を見ればまろやかな稜線を帯びた山々が連綿と続き、東を見れば縹渺たる青い東海へと注ぐ滔々とした河の流れを望む明媚な地にある。
 幼い孫策はこの邑が好きだった。山は季節ごとにその姿を変えて色めき、目から孫策を楽しませてくれる。夏が来れば河に遊び、時には漁師に頼んで舟に乗せてもらい、入り江に出て逍遥することもあった。東の果ては遙かに霞んで彼の目には見えない。それでも海面がきらめく様から目を離すことはできなかった。
「孫家の若様、ご覧なさい。雲間から光が射して、まるで薄い布が掛けられているみたいですよ」
 気まぐれにあちらこちらへ視線を彷徨わせ、今度は北の山容に目を奪われていた孫策を、同乗する漁師の声が南へと向かせる。孫策が見上げた空からは、薄い光が幾筋も雲間から射して、ゆらゆらと海面を漂っているのだった。
「母上の牀に垂れる天蓋のようです」
「おや、そうですか。難しい言葉をご存知でいらっしゃいますね」
 おかしそうに笑う漁師に、小さな胸をいっぱいに膨らませて孫策は得意満面になる。
 しばしば邑に降る驟雨も、彼にとっては心地よい。雨にけぶる家並みのなんと儚げで、頼りなげなことだろう。孫策は誰もいなくなった道路の真ん中にひとりぼっちで佇んでいるのだって好きだった。まるで自分がこの邑で最も勇敢な男であるかのように振る舞えるからだ。それはまるで父のように――孫策の理想とはそこだった。

 孫策の父、孫堅、字を文台。しがない呉郡の役人の家に生まれた彼は、齢十七で奇策を用い浙江周辺を荒らしていた賊を追い払ったことで郡の仮尉に任ぜられることとなった。そうして、膂力だけが自慢だった肉体に自信と官職も付与され、恐れるものなど何もなかった若者はあるとき、富春の北東に位置する銭唐県に仮住まいしていた呉氏の一女の評判を伝え聞き、乗り込んでいって勢いそのままに一女を己が妻にと求めた。紆余曲折ありながらも婚姻を結んだその二年後に生まれるのが孫策である。
「結局、捨て鉢の判断も間違っていなかったということですよ」
 アハハ、と高らかに母は笑う。その軽やかな声の響きも孫策は好きだった。初めの頃は母の親族は皆、父との婚姻に難色を示していたらしい。しかし、そのことで父の――蛮勇を揮う武人の――恨みを買うことを恐れた母は一人、気丈に孫家へ嫁いできた。
「世に秀でる才媛とは斯様に気風の良いものなのだな。俺ですら気圧されてしまいそうだ」
 むっつりと口を引き結び、胸を張って背筋を伸ばし己の前に毅然と坐る妻。そう言って呵々と笑った父に、母は一目で惚れたと言う。
 孫堅は、熹平元年に起こった妖賊・許昌の叛乱を鎮圧した功績が数年後にようやく認められ、まず徐州は広陵郡塩瀆県の丞に任ぜられることとなった。家族を富春に残し、単身北へ旅立って行く父を武人のあいさつで見送った幼い息子の頭を、孫堅は思い切り掻き混ぜてやった。
 父のいなくなった後、孫策は武芸に励むようになる。たった一人の家族である母を守ることができるのは己の武勇だけだった。母はそんなに無理をしなくてもよいのだ、と孫策を諌めたが、彼は頑なに首を振って小さな手に木剣を握ることをやめなかった。
 その一年後、今度は同じく広陵郡は盱眙県の丞を勤めることになった旨を知らせる手紙が孫堅から届いた。孫策は書簡を抱えて一所懸命にそれを読んだが、困ったことにわからない言葉がたくさん出てくる。それどころか、今己の父がいるであろう広陵郡の盱眙県が果たしてどこなのかもわからない。北とは、己がいつも見ていた東の海よりももっと果てがないのだろうか。富春から望む山々の向こうは、孫策の想像を絶する風景が広がっている。孫策は今度、書を読むことを始めた。母が彼女の実家から届けさせた書物だけでは飽き足らず、近所の儒家の老人の家に上がり込んで様々な話を聞かせてもらった。そうすると、不思議とたくさんの疑問が己の中から湧いてくるのがわかる。国とは? 礼とは? 孝とは? 学問とは? 君子とは?
「孫家の若君。君子とは、徳を持ち、品位を身に付け、学識も豊かな立派な人物のことだよ。そういう人が、国を作っていくべきなのだ」
「それじゃあ、天子様は君子なのですね」
 儒家の老人は孫策の言葉に曖昧な笑みを返すだけだった。年端もいかない孫策にその表情の意図は読み取れない。
 またその一年後、今度は広陵郡よりもっと北の下邳県の丞を勤めることになった、との書簡が届いた。その内容には、普段の手紙にはつづられていない文言も混じっている。――曰く、お前たちも下邳に来ないか、と。
 富春を発つ前日の夜、孫策はこっそり城壁に登って高い場所から邑の四方を見回した。山は暗然たる夜を反射して一層深く沈んでいる。河は音もなく流れ、振り返りもしない。見上げれば、皓皓と照る月と曇りなく晴れ渡ったまっ黒い空。月の光は、東の海に一筋の道を作っているかのように、入り江全体を輝かせている。
 孫策は両腕を目いっぱい拡げて、惜別の意を表した。しばらく遠く離れた地に行く己が、どうかこの景色を忘れることがないようにと。

 下邳はとても遠かった。このとき孫策は江を“渡る”という経験を初めてした。距離にして二千里、日数にして一月に及ぶ長い旅。下邳の城門で出迎えてくれた孫堅は、満面の笑みで妻と息子を抱きしめた。
 驚いたことに、孫策の家族はいつの間にか増えていた。一人の妾と、二人の年子の妹たちである。孫堅は彼女に塩瀆県で出会ったのだという。戸惑う孫策に、彼女と二人の妹は笑顔で挨拶をした。ぎゅっと拳を握りしめて挨拶を返す――男児が恐れをなしてどうして女子に遅れを取るものかと――孫策の頭をそっと撫ぜた母は、同じように彼女らに笑みを返した。動揺する己とは違って、母は事もなげに彼女らと会話している。あとで聞いてみれば、孫堅から届く書簡に書かれてあったことの、孫策には理解できなかったもののひとつがこのことだったらしい。
 そうして久しぶりに揃った家族の姿に安堵したのか孫策は、長旅の疲れもあってその日はすぐに眠りに就いてしまった。
 翌日はちょうど孫堅が休沐だというので、下邳の街を散歩がてら案内してもらった。本当のところ孫策は、家から連れ出してもらえたことにほっとしている。見慣れない三人の家族と共に過ごすことは、彼にとって安寧であるはずの我が家の結界が破られてしまったかのような心細さを伴うものだった。母を一人家に残してきたことに罪悪感を覚えながら、孫策は己の手を引く父の大きな手を強く握り返した。
 街では、父の姿を見かけた道行く人々が気さくに話しかけてくる。その誰もが皆孫策の姿を見とめると、まるで旧知の知り合いであるかのように軽やかに挨拶をしてくれた。ある一人などは、きっとお父上のようにご立派な男子になるのでしょうね、と微笑みかけてくれたのだった。そのことが嬉しくて、孫策は大きな声で返事をした。どうやら孫堅は下邳の民に親しまれているらしい。孫策はそのことがとても誇らしかった。己の愛する父が誰にも愛されていることがたまらなく喜ばしい。
 孫堅の下にはまた、南方出身の者や気概にあふれた若者など、多くの人が出入りしていた。孫堅は誰一人も邪険にすることなく手厚い待遇で彼らをもてなした。そうすることで彼らはまた孫堅を慕い、時には贈り物などをする者もあった。彼らは次第に孫堅の私兵のような一団を形成し始める。その様子を見ながら、孫策は父の姿が己の記憶の中にあるひとつの人格と符合することに気づいた。――それはまるで、君子のようではないだろうか。
 気づいてしまった孫策には胸の高鳴りを抑えきれない。もしかしたら己の父は、国を作っていくべき人間なのかもしれないという考えが、このとき孫策の中に芽吹いた。

 光和五年、夏五月。孫策に弟が生まれた。名を権という。
 小さな権に、孫策はいつでも構った。もしかしたら母よりも孫策が権を抱いている時間の方が長いかもしれない。時が心の澱を優しくとかすようにすっかり仲良く打ち解けることができた第二夫人や妹たちが、私にもさわらせて、とねだるのも聞かず、孫策はまるで、小さな権が己一人の所有物であるかのように――権に乳をやる母は特別だが――振る舞った。まろい頬をつっつくと、くすぐったそうに表情をゆがめるのがかわいらしい。人差し指をさし出すと、小さな手がそれをきゅっと握りしめる仕草がとても愛おしい。孫策にはわからないことで大声を上げて泣いたり、急に叫んでじたばたしたりする権。かと思えば何がおかしいのか笑いだしてみたり、どこか中空を見つめてぼうっとしてみたり、孫策のめまぐるしい日々が、このおかしくて愛らしい子供のために一層明るく照らされているように彼には思われた。
「策は権にすっかりつきっきりだな。母の立場も形無しではないか?」
「私の事業をあの子が継いでいるのだと思えば、立派に育った息子を見守るのも母の務めでございますよ」
「姐様に似る策様は一体どれほど強くなるんでしょうね。きっと旦那様よりもたくましくなるかも」
 そんな軽口をたたきながら笑い合う家族の住まう下邳の街には、そのときはまだ温かく柔らかな空気が満ちていた。

 その二年後、光和七年三月。魏郡に於いて、太平道の教祖・張角が三十六方の彼の信徒たちと共に一斉蜂起した。漢の朝廷がこれを征伐するために派遣した将軍の一人、朱儁、字を公偉の上表により、孫堅も彼の軍に左軍司馬として従軍することとなった。孫堅は、各地で叛乱に呼応して発生した暴動が下邳の地にも飛び火してくることを恐れ、家族を南に移すことにした。
「盧江郡は舒県には高名な周家の方々が住まっており、かの地は彼らの徳により強く守られていると聞く。そこへ行けばお前たちも安全だろう。寓居を手配してもらえるように早馬は出してあるから、策、しっかりと皆を守って行くのだぞ」
「――はい、わかりました」
 とは言え孫堅はもちろん、彼の下に集まった私兵の中から数名を選抜して家族の乗り込む馬車の護衛につけている。それでも勇気と責任感に満ち満ちた孫策の表情は頼もしく思われて、彼は拳を息子に向けてぐっと突き出した。
「?」
「合わせろ、策」
 こつん、と孫堅のそれよりもよほど小さな孫策の拳が当てられる。
「頼んだぞ」
「はい!」
 そうして父と息子は、北と南へと別れた。互いの責務を背負って力強く踏み出す彼らは、確かに親子の姿であった。

 一行が舒に着いたのは十日後のことである。疲れ果て、馬車の中で母の膝枕に眠る孫策を咎める者は誰もない。
「周邸に到着いたしました」
 馬車の外から掛けられた声はささやかだったにも関わらず、孫策は飛び起きた。おや、と目を丸くする母の顔を見て自分が今までどうしていたのかに気づいた彼はさっと青ざめて頭を下げた。
「申し訳ありませんっ」
「策、いいのですよ。子供の足には大変な道のりでした。さあ、皆も行きましょう」
 三歳になったばかりの権の手を引いた呉氏は、これだけは譲らないとばかりに我先にと馬車を降りて女たちを先導するためにさし出された孫策の手を握り返す。馬車から降りた彼らは、周家の邸宅の前に立つ男とその傍らの少年を視界に入れた。
 孫策と少年の目がぱちりと合う。くっきりと凛々しい目元、形の良い鼻先、薄い唇の健康的な薄赤色が魅力的な美少年だ。
「下邳から遠路遥々、ご苦労様でございました。長旅の疲れもありましょうから、どうぞ中で休んでいってください」
 男は名を周尚、字を公志といい、洛陽太守を勤める家長の周異に代わり周家の家事を取り仕切っているという。彼に案内された六人は正庁で席に坐ると、ようやく一息ついたという心地になった。
「黄巾賊の叛乱については聞き及んでおります。なんでも善道の教えでもって天下を教化するなどと嘯いているとか。そのくせやることはその辺の賊と大差ないのですから、何をか言わんやですな」
「十年ほど前にも旦那様は、句章で陽明皇帝などと名乗り、乱を起こした賊の討伐に当たっております。北でも南でも……争乱は尽きませぬな」
 ふう、と互いに嘆息する大人たちの横顔から目を逸らすと、孫策はまた周尚の傍に坐する少年と目が合う。小首をかしげると彼は唇にうっすらと笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げた。それに気づいた周尚が、ああ、と彼の背を押した。
「紹介が遅れました、こちらは兄の息子……私の甥ですな、名を瑜と申します。熹平四年の生まれで今年で十になるのですが」
「あら、うちの策と一緒です」
 呉氏は同じように孫策の背を押した。初めまして、と恐る恐る挨拶をすると、少年――周瑜も同じように、初めまして、と返してくれる。少年らしく、だが澄み渡るような冴えた声だった。
「そうだ、仮住まいについてなのですが」
 話を切り出した周尚に、申し訳なさそうに呉氏が頭を下げる。
「お手数をお掛けして本当に申し訳ありません。どんなに小さくとも構いませんので」
「いいえ、これだけ人数も多くては何かと大変でしょうから、うちの屋敷のひとつをお譲りいたします。こちらへどうぞ」
 え? と呆気にとられた一行に構わず、周尚と周瑜はさっさと立ち上がって正庁を出て行ってしまう。慌てて一行がその後を追うと、彼らは周邸の玄関を出、その脇を通る路を挟んで南の向かいにある屋敷の前で足を止めた。見上げれば、周邸ほどではないにしても大きな二階建て。玄関を見ても、左右で三十間はあるように見える。呉氏は、たまらず息を吐いた。
「こ、こんなに大きなお屋敷は困ります……」
「そう仰らず、どうぞ気楽に過ごしてください。ご入用の際には遠慮なく仰ってくださいね」
「で、ですが……あの、富春でも、下邳でも、こんな大きな家には暮らしていませんでしたので」
 ねえ、と顔を見合わせて女たちは困り果てる。頬に手を当ててため息ばかりこぼす呉氏と、その様子を見ながら苦笑する周尚を横目に、周瑜は孫策に話しかけた。
「ねえ、えっと……策と呼んでも?」
「う、うん。私は、ええと、瑜と」
 それを聞いて嬉しそうに笑う周瑜に、孫策は照れて頬を赤らめる。
「同い年の友人ができるなんて、初めてだから嬉しい。あのさ、いっぱい遊びに来てもいいかな」
「わ、私は構わないけど」
「本当? ありがとう」
 周瑜は孫策の手を取ると、ぎゅっと握りしめた。
「これからよろしくね、策」
「こ、こちらこそよろしく、瑜」
 覚束なく答えたとき、腰に小さな手が巻きつくのがわかって孫策はふとその辺りを見下ろした。権が丸い目で二人を見上げている。それを見た周瑜はしゃがみ込むと、権に目線の高さを合わせて首をかしげた。
「君のお名前は?」
「そんけん、です」
「そうか、じゃあ権。私は周瑜。君のお兄さんの友達だ。君もよろしくね」
 さし出された手を握り返して、権は恐る恐る頷く。それを見た周瑜は思わず噴き出した。驚いた権が孫策の腰元に隠れてしまって、ああ、と笑い交じりに嘆息して周瑜は立ち上がる。目が合った二人は、お互いに笑った。その様子を見ていた大人たちも、目を合わせて頷き合う。
 こうして、孫策は周瑜に出会った。

 周瑜は毎日のように孫策たちの屋敷に遊びに来た。家の中で本を読んで過ごす日もあれば、屋敷の庭でお互いに木剣を握って模擬戦をしてみたり、あるときは舒の街を走り回ったり、またあるときは周尚に頼んで舒の北東にある巣湖の遊覧に連れて行ってもらったりした。
 孫策は周瑜に故郷の富春の話をした。丸い稜線の美しい山々、雄大な川の流れとその終着地に広がる、日の光を浴びてきらきらと輝く海。舒には川はなく、山もそれほど近くなく、海などはもってのほかである。孫策の話を周瑜はとても楽しそうに聞いてくれ、いつかそこへ行ってみたいとまで言ってくれた。もちろん、と孫策は頷き、喜びで胸がいっぱいになった。大好きな故郷の風景を共に見たい人がもう一人増えたのだ。
 その年の秋の終わり、孫策にもう一人弟が生まれた。名を儼という。今度は孫策は、決して弟を自分だけのものにしようとは振る舞わなかった。彼には母や第二夫人、しっかり者の姉たち、少し大きくなったもう一人の兄の権がいる。そして孫策の傍には――いつだって周瑜がいた。

「伯符! 伯符!」
 大きな声で己の字を呼んで、勝手知ったるとばかりに周瑜が屋敷に上がり込んで来る。出迎えて挨拶をする権と儼に軽く挨拶を返し、彼は孫策の自室へ足音を立てて踏み込んできた。
「どうした? 公瑾。やけに騒がしいな」
「騒がしくもなるさ」
 書物を広げて坐り込んでいる孫策の隣にすとんと腰を下ろすと、彼はぐっと顔を近づけて小さな声で言った。
「――董卓が洛陽の邑を焼き払って、長安に天子様を無理やり連れて行ったそうだ」
「なんだと!?」
 董卓、字を仲頴。光熹元年の政変を鎮圧し、都の軍事権を掌握した彼の度を越した専横に、人々は恐怖に震え上がった。時の天子であった少帝を廃した後にその皇后と共に彼を殺害した董卓は、先帝・霊帝の末子である献帝を次なる天子として擁立すると、自身は相国として政の実権をも掌中に収めた。残忍非情な彼の悪行は筆舌に尽くしがたい。
 時に初平元年、この頃になると若者たちは、己も天下に出て一旗揚げてやりたい気持ちを抑えることが難しくなっていた。ましてや軍事の合間を縫ってしばしば舒の家族の下に帰って来る父の顔は会うたびに凛々しく精悍になり、体には傷跡も増えていく。孫策はそんな父を羨ましく、そしてほんの少し妬ましく思うようになっていた。未だに屋敷の中に坐して書物の中の戦争を読み耽る、息子の中にある羞恥を透かして見るくせに、素知らぬ振りをして父はいつだって微笑んでいるのだ。
「公瑾、お前のお父上は無事なのか?」
「無事だから、連絡をいただいたのだ。だが宮殿はすっかり焼け落ち、洛邑も瓦礫の街になってしまったそうだ――あろうことか奴めは、歴代皇帝の陵墓を荒らして宝物まで奪い去ってしまったらしい」
 孫策は握りしめた拳を己の太ももに叩きつけた。涙がこぼれそうなほど目頭が熱い。卑劣漢め、と歯を食いしばる孫策の拳にそっと手を乗せると、周瑜は彼に己の方を向くように言った。
「続きがあるんだよ、伯符。その焼け落ちた洛陽に一番に乗り込み、皇帝たちの陵墓を修復し、邑の民心を慰撫し支えとなってくれた勇将がいるんだ――誰だと思う?」
「朱公偉か? 袁本初か? それとも袁公路か? あるいは曹孟徳か? わからないよ、公瑾。答えを教えてくれ」
 訝る孫策に、周瑜は笑みを返す。
「その誰でもない。彼の名はね」

 ――孫文台。お前のお父上だよ

 孫策は目を見開いて、拳を解いた。
 父は一体どこまで、どこまで馳せていくのだろう。

 しばらく呆気に取られていた孫策だったが、やがて周瑜の手を握り返すと、そうか、と言った。
「――なあ、公瑾。いつか私も、天子様のために戦う一人の将になる。そのとき……」
「……うん、伯符」
「そのときお前も、傍にいてくれるか」
 周瑜はとても美しく微笑んで、もちろんだとも、と高らかに言った。


 ◇


 初平三年、孫堅が死んだ。劉表の支配する襄陽を攻囲中、不注意にも単騎でいたところを黄祖の麾下兵の矢に射られたのだという。
 孫堅の遺骸は、かつて孫堅より推挙されたという長沙の桓階、字を伯緒という男と、孫堅の元麾下兵たちの手によって家族の下に届けられた。話を聞くと、彼ら――つまり孫堅の率いていた軍――はこれから孫堅の甥である孫賁に率いられ、宗主である寿春の袁術の下でその軍閥に組み込まれるという。孫堅の――父の軍が、跡形もなく瓦解する。そのことに孫策は呆然と立ち尽くしていた。
 元麾下兵の内、傷だらけの顔を持つ壮年の兵士が一人、孫策の前に歩み出で、彼の足元に跪いて叩頭した。
「お父上をお守りできず、申し訳ありませんでした……」
「お、おやめください。あなたのせいではない、父は……」
 滂沱と涙を流す兵士に“つられて”――孫策の目からもついに涙がこぼれた。それはやがて幾筋も頬を伝い、跪く兵士の手の甲の上にぽたぽたと滴を垂らしていく。
「父は、父の戦いぶりは、どうでしたか」
「はい、お父上は常に我々兵士の先頭に立ち、常に我々の誰よりも敵を多く討ち、そして誰よりも大きな声で高らかに勝ち鬨を上げられました。平時に於いては我々のような一兵卒にも心を配り、怪我した者を優しく労わり、まるで身内の者のように振る舞ってくださいました。我々は、我々は皆、あなた様のお父上のことが好きでした」
 涙声で訴える兵士の傍にかがみ込んだ孫策はそっとその肩に触れ、よかった、とぽつりと言った。顔を上げた兵士が見たものは、涙を流しながらそれでも懸命に微笑む、彼らの主君の息子の姿だった。
「よかった、それでこそ、私の父です」

 ほどなく、孫堅の遺族は舒を離れた。孫策は周瑜との再会を誓い合い、惜しみながらも別れた。
 彼らは一旦曲阿に拠って孫堅の葬儀を執り行い、彼をその地に葬ると、次いで広陵郡は江都に拠った。この地で孫策は母親の喪に服していた張紘、字を子綱と出会う。一回り以上も年下の孫策に対しても丁寧に接してくれる張紘に孫策はなついた。
 張紘は、かつて洛陽の太学に通い学問を学んだ博識の人である。孫策は張紘と時勢について話し合う内に、知れず涙を流していた。困ったように微笑んでその滴を拭う張紘に何度も、申し訳ありません、と詫びながら、しばらくその指先の温もりに甘えた。
 みじめな自分が嫌いだ。己はすでに、かつて亡父が初めて武功を立てた齢を過ぎてしまった。それだのにどうしてもここにいて、己の矮小さを恥ずかしく思って涙は出る。張紘は、いいじゃないですか、と笑った。
「いいものですか。こんなにめそめそと泣いて」
「ここでいっぱい泣いたら、後はもう笑って歩き出すしかないじゃないですか。誰でも皆、そうでしたよ。あなた一人が恥ずかしく思うことじゃありません」
 張紘の邸宅を辞去し、とぼとぼと家族の住まう寓居に戻って来た孫策の耳に、何やら気合の入った掛け声が聞こえてくる。玄関に入って小さな中庭に回ると、木剣でがむしゃらに素振りをする弟――権がいた。権は孫策の姿に気づくと、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
「兄上、お帰りなさいませ! 本日はどんなお話を聞かれてきたのですか?」
 目を輝かせて己の腕にまとわりついてくる、齢十一を過ぎたばかりの弟。もうすぐ加冠を迎える彼は、まるで幼い頃の孫策のように、小さな体をいっぱいに使って木剣を振り回していたかと思えば、読んだ本の内容を得意げに母に教えて聞かせたりするようになった。近頃はどこで覚えてきたのか――きっと孫策の知らぬ間に周瑜が吹き込んでいたのやもしれないが――私も天子様の兵士の一人です、などと嘯いて空想の強敵を倒す遊びに耽っている。

 天子。
 権とそう歳の変わらない、まだいとけない小さな小さな皇帝。
 近頃は暗愚で暴虐な将たちに振り回されて、そのご苦労は察するに余りある。

 不意に孫策に抱きしめられて、権は、兄上、と問いかけた。孫策は首を振って、なんでもないよ、とささやくように言った。
「兄は今日、先生とこれからの話をしてきたんだよ。権、お前ももう大きいから、ちゃんと聴き分けてくれるか?」
 尋ねれば不思議そうな表情で、それでもしっかりと頷く権の肩を孫策は力強く叩く。
 その日の内に孫策は母と第二夫人に家を出て行く旨を伝えると、手早く荷物をまとめ、明日に備えてさっさと寝てしまった。

 翌日は雲ひとつない晴天だった。きっとこんな日には、故郷の入り江は一層きらめいて清々しいことだろう。
 玄関を振り返れば、大きくなった二人の妹たち、そして権と儼、それに、四つになったばかりの一番小さな弟の匡ともう一人の妹。母と第二夫人とは揃って、きっと無事で帰ってくるようにと孫策の腕を優しく撫ぜた。
 一歩、孫策の方へ足を踏み出す権。彼は小さな己の右手の拳を左手のひらで包むと、ぐっと突き出した。
「兄上、ご武運をお祈りしております」
 泣き出しそうに震えた声で権が言うから、孫策は少しだけ笑ってしまった。権の隣で儼もまた手を組んで、ご武運を、と覚えたての言葉を使って孫策を言祝いでくれる。
 孫策は、二人に向かって拳を突き出した。首をかしげる二人に、合わせるんだ、と言うと、孫策のそれよりも小さな二人の拳がこつん、とぶつかってくる。
「きっと、頼んだぞ」
 兄の言葉に、弟たちは目いっぱい大きな声で、はい、と返事した。
 よし、と頷き返した孫策は、踵を返して大股で歩き始める。胸を張って、肩で風を切って、どこまでもまっすぐ――

 いつか、あの故郷の美しい風景の中、安寧の入り江で皆と笑い合える日を、心に思い描きながら。