過日、張昭が王室に奉った上表により、孫策の事業の後継は正式に孫権に決定した。併せて曹操が天子に上表し、孫権は王室によって討虜将軍に任じられるとともに、会稽太守も兼任することとなった――このとき、北の許から書簡を携えて使者として呉に“戻って”来たのが、張紘である。孫権は、自身は孫策の開いた将軍府の建物を引き続き己の将軍府として呉郡に留まると共に、上虞県の長であった顧雍、字を元歎を会稽郡の丞に任じ、彼を太守代行として山陰県に向かわせた。
 張昭は引き続き長史として幕府の事務一切を取り仕切ることとなり、また孫権の師傅として常にその傍らに付いた。さらに朱治が文事の補佐についた。張紘は曹操より会稽東部都尉の役職に任ぜられてはいたが、呉夫人より直々に委嘱されて孫権の補佐も併せて勤めることとなった。周瑜は中護軍として、将軍府に詰める中央軍の長官として軍事に当たり、孫河、呂範、そして程普がほぼ同位の軍司令官として任じられた。また太史慈は建昌都尉として海昏県に留まり、江東西部の慰撫に当たった。
 軍内部に於いては、陳武を城邑の警備を司る五部隊の目付け役として任命したほか、董襲や黄蓋、韓当、凌操といった孫策時代からの部将を昇進させて引き続き重用すると共に、各地の不服従民や山越に対する備えを万全にさせた。加えて、朱然や胡綜らの若い将を抜擢したり新たに官職に就けたりして後進の育成を図り、政庁内部に於いては、江東、江南の各地から優秀な人材や名士たちを将軍府に呼び寄せ、まずは討虜将軍としての地盤の安定を図るところから始めることとなった。


 ◇


 朱桓、字を休穆。彼は、孫策が討逆将軍としてこの呉郡に将軍府を開いた際に一度召し出されたことがあったが、当時は病気を理由に辞退したのだという。そのことについて、ああそんなこともあったような、と適当に頷く孫権と、その朱休穆がなぜ今になって、と訝る張昭では、彼に対する認識に隔たりがある。
 孫権に目通りすることが叶った朱桓はきらきらと顔を輝かせて、昨日の行軍は素晴らしかった、と語った。人だかりの中から呉郡の邑を練り歩く軍勢を見た彼は、その先頭を騎行する孫権に目を留め、朝日に反射する彼の姿に――彼曰く、一目惚れしたのだと熱弁する。
「彼は少しおかしい……よな」
 孫権は、言いにくそうにもったいぶりながらも、しかしはっきりとそう口にした。さすがに眉をひそめて、その言い方はどうかと、と咎める谷利に詫びを入れつつ孫権は、知らぬ間に自身が疑り深くなっているのかも知れないと危惧する。
 名刺を持って来ることもせずいきなり小門に現れ首長に会わせろとのたまい、あまつさえ「側仕えにしてほしい」などと荒唐無稽な話を将軍本人に対して持ち出した朱桓も朱桓だが、勢いに押されて容易く頷いてしまった孫権も孫権である。案の定張昭からはお小言を食らい、周瑜からは苦笑をもらってしまった。
「私はそうは思いません。彼もまたあなた様のお力になりたいというだけのことです」
「…………、……そんなに私は頼りないのか……」
 渋面に手を当てて唸る孫権だって少しは自覚している。しかしこうも面と向かって言われてしまうのはなんとも情けないではないか。
 谷利が、そういうことでは、と言い募ろうとしたとき、執務室の扉の向こうから声がかかった。
「我が君! 朱休穆、ただいま戻りました」
 入室を許可すれば、真新しい着物に身を包んだ朱桓が足取りも軽やかに入ってくる。本来であれば谷利のために用意されていた予備だが、孫権の側近の人員を増やすにあたり残りの一着を朱桓の分に充てることになった。このためしばらくはお互い一張羅を着回すことになる。
「ああ、お疲れ様です、休穆どの。二人の体格が似ていてよかったですよ。利も、すぐに予備を作らせるからな」
「私は構いません。着物をいただくまではずっと一着だけでしたし」
 谷利が返せば、それはそうだが、と孫権も笑みを返す。その話に割って入るように、朱桓がひとつの書簡を孫権に差し出した。帰りがけに文官が抱えていたものを預かってきたと言う。
「また推挙の話かな。このところ一気に人が増えたものだ。知見の広い者が多いのは嬉しい限りだが、よくよく話を伺う暇もないではないか」
「そういえば、下で張公たちがお集まりでしたね。お堅そうな連中ばっかり……文人ってのは皆ああなんです? 高飛車っていうか」
 我が君にまでおざなりな礼をするじゃないですか、と肩を竦めて朱桓は言う。孫権は首を振った。元々孫策が開いた将軍府に仕えていた官吏たちとは、孫権がまだ一人の校尉でしかなかった頃からの付き合いである。その中には現状に不満を抱えている者も少なくなく、むしろ張昭や周瑜に対して鄭重な礼は返せど、孫権に対しては簡略な礼で済ませられることも珍しくなかった。
「いいのですよ。彼らの人脈を通じて優れた知見を持つ方たちにお会いできるのは私も嬉しいし……いや、本当なら私だって張公や公瑾どのに跪いて仕えたいくらいなんです」
「ふうん……もし彼らが首長だったなら、私は今も呉でのんべんだらりと過ごしていたでしょうね」
 けろりと朱桓は返す。その言葉を受けて孫権は口を引き結んで困ったような表情をする。他方、谷利はおかしそうに笑った。
「休穆どのは面白いですね」
「そうか? お前も面白いぜ、谷利」
 小首をかしげる彼に谷利も一層笑い返す。そのまま頷き合って雑務に戻る二人に、私を差し置いて勝手にわかり合わないでくれ、と孫権の嘆く声が室内に響いた。


 ◇


 さて、魯粛、字を子敬は苛立っていた。
 友人である劉曄、字を子揚より、彼が許の曹操の下へ身を寄せるつもりであるとの連絡を受け、貴公も急がれませ、と一文が添えられてあったことから、それに賛同した彼はいよいよ北の故郷、さらにまたその北へと向かう腹積もりで曲阿に預けていた家族を迎えに来た。
 ――はずだった。もぬけの殻の寓居を目にするまでは。
「ああ、魯家の皆様かい? つい先日迎えの方が来られてね、そちらのお宅は引き払われたのさ」
「迎え、ねえ……」
 名乗りもせず隣人の行方を尋ねて首をひねる男を、逆に寓居の隣家の家宰は訝るように見つめる。その様子を見止めた彼はひとつ咳をして、ちなみにその者の名は? と問うた。
「ええと、なんとかいう人の名代の……周公……」
「……旦?」
 魯粛の相槌に隣家の家宰は笑う。
「あっはは、それは大昔の偉い人だ。そう、確か瑾だよ、周公瑾どの」

 そうだろうとも、と魯粛は内心で嘆息する。目の前の周瑜はにこにことその眉目秀麗な面に穏やかな笑みを浮かべているばかりだ。魯粛の隣で席に着いている母親は、周様には本当にお世話になりまして、とすっかりくつろいだ様子でいる。
「近頃は孫討逆様の逝去に加えて北方でも戦乱があり、各地の情勢が不安定でしたから、曲阿の寓居は心許なかろうとこの呉へお招きしましたのです。この地は孫討虜様のご威光に守られておりますから」
 魯粛が坐する正庁からは、扉が開け放たれた廊下越しに周邸の庭先が見えた。穏やかな春の風に吹かれて木々がざわめいている。無造作に苔が生えた岩のひとつひとつ、名も無き花たちが揺れる地面では、雀が数羽、機嫌良さそうに遊んでいる様子も見られる。
 母上、と魯粛は母親に声を掛けた。周瑜と二人きりで話したい旨を伝えれば、彼女は、はいはい、と笑って周瑜に暇を告げ、周邸から辞去した。その姿を玄関先で見届けた魯粛は、後ろから掛けられた声に眉根を寄せて振り返る。
「それにしても、いらしていただけてよかった」
「いらした? 俺の認識とは違うな。俺はここに来させられたんだよ、あんたに家族を人質に取られてね」
 魯粛の眼光を真正面に受けながらも、周瑜は変わらず微笑んでいる。むしろ、人聞きが悪いな、と楽しそうにのたまう彼はいささかも悪びれている様子はない。そればかりか彼は踵を返してさっさと邸内に戻ってしまおうとする。魯粛もその後を大股で追いかけながら、おい、とその背中に声を投げつけた。
「俺は北に行くつもりでいるんだ。友人から誘いがあってね、わざわざ家族を預かってもらっておいてすまないが」
「へえ。北に何があるんです?」
「何って」
 袁本初と曹孟徳だろうが、と魯粛は言う。それだけでこの男には十分に通じるはずだ。案の定、正庁の扉の前に立ち止まった彼は振り返り、ふうん、と気のない返事をした。彼はそのまま正庁の前を通り過ぎ、奥へと向かう。困惑して歩みが遅くなる魯粛を見た周瑜は小首をかしげ、こちらへどうぞ、と彼を促した。奥には、周瑜の自室がある。
「あなたっておかしな人ですね。天下や民衆のためにできる何かのことならためらわず即断するのに、自分自身の身の振り方はまるで迷い児のように余人の言葉に拠らないと決められない」
 からかうような周瑜の言葉に、魯粛は眉をひそめた。確かに以前に友誼を結んだとは言え彼らの親交は、さながら彼と孫討逆のようには深くない。しかも、二年ぶりに会った友人に対する言葉にしては失礼が過ぎるのではないか――大体、周瑜とは大らかで寛容な人間だと魯粛は思っていた。かつて袁術に見切りをつけた己が、年寄りや子供を含めた東城の民や、血の気の多い若い連中を連れてその下に身を寄せたときも、拒むことなく受け入れてくれた。その直前に見ていた人物が人物だから、ああこういう人の下にこそ衆人は集い、心を寄せるのだと感心したものである。彼に連れられて出会った江東の盟主、孫策を見てもまたその気持ちが一層強まった。彼ら二人さえいれば、もしかしたら人は安寧の内に過ごせるのかも知れない、と。
 それは、今目の前にいる彼のどことない狭量さとはかけ離れたものだ。
 室に入った魯粛に、周瑜は席に坐するよう促す。渋々腰を下ろした魯粛の前に自身も胡坐を掻くと周瑜は、あのにっこりとした笑みを浮かべた。
「子敬どの。袁本初と曹孟徳はそんなに面白そうですか?」
 問われ、魯粛は顎に手を当てる。錦旗を掲げて袁紹を征伐せしめんとする曹操と、その彼こそがまさに漢王室を衰退させる佞臣だとして檄文を発し迎え撃つ袁紹。恐らくこの戦いの後、どちらかが必ず滅び、そして生き残ったどちらかが必ず隆盛となるのであろう。それは南や西に点在する群雄の意志の介在を許さぬほどの大いなる衝突であり、天下を有り様を形作る決戦に他ならない。
 雄大な流れは、ただそれを見ているだけの者には見向きもしない。不意に気まぐれに氾濫を起こして、逃げを打つ間も与えぬほどの速さで飲み込んでしまうだけだ。
 魯粛は、ただそれを黙って甘受しているような者にはなりたくない。
「――面白そうだよ。何せ、史書の本流になるのだろうからね」
「そうですか。もっと面白いことがこの江東にあってもですか?」
 周瑜の言に、魯粛は目を丸くして彼の顔を見返す。
「江東って……孫討虜様か? ……彼に何かができるのか?」
 彼は亡き孫策の後を継いで、それこそ曹操の上表を受けて討虜将軍になったばかりの若者である。周瑜がその将軍府に於いて、中護軍として軍事の中枢に関わっているとは聞いていたが、多くの者は孫討虜のことを軽んじ、まだ地盤は不安定であるとの話も耳にしていた。孫討虜に期待を見出せず、呉を離れて他の地方に亡命する者が後を絶たないという不名誉な噂すらある。
「言っちゃなんだが、孫討逆様が亡くなられて――すっかり意気消沈しているという話じゃないか。お若い身にその重責は耐えられまいよ」
 訝る魯粛に気を悪くするでもなく、周瑜は昂然と頷いて見せた。
「私も伯符もそう思っていましたがね。その昔、馬援が光武帝と公孫述の間を行き来して結局光武帝に仕えることを決めたように、まさに今の世もまた君が臣を選ぶのみにあらず、臣も君を選ぶのですから、どうです、遠い北に発たれる前に討虜様にお会いになっては? 今、討虜様は実に多くの賢人と親しみ彼らを尊重して、文武を問わず優れた人物たちを任用しておいでです」
「優れた人物ねえ。例えば?」
「琅邪郡陽都県の諸葛子瑜どの。彭城国の厳曼才どの。臨淮郡淮陰県の歩子山どの。ご存知ですか?」
「一応ね。ずいぶんおしとやかな連中ばかり集めるじゃないか」
「あなたに比べれば私だっておしとやかですよ」
 その軽口に魯粛は軽く眉を上げる。よくもまあペラペラと動く口だ。彼ほど頭のいい男が勝算なしに孫討虜にかしずいているとは思えないが、しかしその勝算が未だに魯粛の中に見えてこないことも事実である。
 確かに、会うのは初めてになる。二年前に一度来呉したときは、互いの事情が重なってついに呉を離れるまで見えることは叶わなかった。祖母の喪が明けた折にはもう一度孫策の下であれば戻りたいと思っていたものが、彼の死でその気が失せ、友人からの魅力的な誘いに乗ろうとしていたところに、この“招聘”である。
 ――彼には俺を北へ行かせたくない“事情”がある。
 魯粛はじっと周瑜を見つめた。周瑜は首をかしげ、何か、と問う。
「んー、そうだね。あんたの言う、江東の面白いこと。それについて教えてくれよ」
「おや、これはご存知ない。偉大な先達たちの遺したひとつの議論ですよ。曰く、劉氏に代わる者は東南に興る――その天運が今この江東に巡ってきているのだと」
 その言葉に、魯粛は思わず腰を上げた。ちょっと待て、と彼が声を荒げるのにも周瑜は意に介さず、ちょうどあなたがかつて仰ったように、と続けた。
「『国の中枢はその統治の機能を失し、賊徒が蔓延り、淮泗の地も子孫を残して留まるほどの土地でもない』、そうしてあなたは江東へ来られたじゃないですか」
「俺は、それが……孫討逆だと思っていたんだ。彼はまさに神勇だった。その強力が天下を改め、新たに治めるのだと」
 言葉の途中で周瑜はおかしそうに笑った。
「武事で天下をすっかり治めきれたためしなど、これまでの歴史のどこを探してもありませんよ。伯符もそれをわかっていた。だから我々は天子を必要としました。曹孟徳の脅威の下にある天子をお救いしてこの江東にお連れし、安寧の内に中華を治めていただこうと」
 ところが、と周瑜は続ける。
「実はもうすでにこの江東に天子がいたとしたらどうします。それはとても弱弱しく、そして同時に力強く我々を支えてくれる。とても愛らしい姿で、そして同時に我々を愛してくれる。ただそこにあり、我々を優しく照らしてくれる――まだ彼自身にその自覚はないようですがね」
「それが……孫討虜だって?」
「私も俄かには信じがたいよ。これからどうなるかもわからない。けれど……」
 孫策が――心腹の友が、彼に印綬を託した。周瑜にはそれだけで必要十分に足る。
 後は己が、持てる限りの術策と武威で、彼をこの世の最も高いところまで押し上げる。ただそれだけだ。
「……ああ、クソッ」
 魯粛は頭を抱えて体を折った。その様子に周瑜は初めて当惑の色を示す。どうかしたか、と問う彼に、魯粛は笑い返した。
「――面白そうなんだよ、今、俺の頭の中に考えがいっぱい浮かんでくる。それはあんたの思惑通りのことじゃないかもな。でも事実だ」
 彼は少しだけ面を上げ、覗き込むように周瑜の顔を上目遣いで見た。
「俺はもしかしたら、あんたの思い通りにはならないかもな、公瑾どの。それでもいいなら、もう一声くれないか」
 もしそれで周瑜が迷うのなら、魯粛はこの“面白い考え”をすっかり捨ててしまっても構わないと思った。彼が己に――己の才に活路を見出し、その身柄を孫討虜の下に留めようとしたことも、それを成し得なかったがためゆくゆくは周瑜の身に降りかかるであろう多くの艱難辛苦も、或いは道半ばで果てることへの絶望も、すべて見ないふりをすることだって魯粛にはできる。しかしここでまたかつてのように魯粛を受け入れたとして、当時とは状況が大きく変わってしまった現在、周瑜の描いた道と魯粛の描いた道とは大きく異なる可能性がある。それはいずれ齟齬をきたし、彼の愛した孫策の後継たちの一団が瓦解する可能性にさえなり得る――その危険性を孕む考えを擁する魯粛を、孫討虜に目通りさせることが本当に正しいやり方であるのか、躊躇うようなら魯粛だって容易く身を引く。己の道の到達点は少なからず“ここ”だけではないと魯粛はまだ信じている。
 しかし周瑜は、小首をかしげて不思議そうな表情で、魯粛に声をかけた。
「それじゃあそうですね……我々と共に、歴史を変えてみませんか?」
「――乗った。最高だぜ、その話」
 魯粛は手のひらを周瑜に向けてさし出した。はは、と周瑜は小さく笑って、その手をパシンと叩き、ぎゅっと握りしめた。

 魯粛は若い頃から、故郷の大人たちに“おかしな男だ”と散々言われてきた。魯粛の方だって、心の感じ取るがまま生きる己の有様を、誰に理解してもらわなくても構わないと思っていた。実際、それでもついてきてくれる者はあった。
 今、この地に、絶望の淵にあってそれでもなお立ち上がろうとする、自分以上におかしな男たちがいる。想像以上に御先真っ暗なその中を、つまづきながら転げながらそれでも進んでいこうとする男たち。見えるかもわからない太陽の光を探して、暗い夜をどうにか抜け出そうとする者たち。
 その最中にいれば、まるで自分が“まとも”なように思えてくるのだ――こんなにも心が満たされて、昂揚している。
 早く、早く、と魯粛は望む。
 この腹の内に溜まるすべての考えに翼を与えて、中華の閉塞した空を破る一条の光の下に、遊ばせる日を。


 ◇


 その数日後、新しく江東の討虜将軍府に賓客として招かれた人たちを集めた宴が催された。彼らは大いに語らい、孫権はそのひとつひとつに耳を傾け、何度も頷き、疑問が起これば素直にそれを口にした。集まった人々を称賛し、私はあなた方一人ひとりに仕えたいと思う、と声高に言う彼の表情には嘘偽りは全くなく、しかし同時に貪欲な一人の若者の知識欲をも表している。
 彼はその場で初めて魯粛と出会った。ああ、あの日耳にした魁偉なる人物そのままの容貌である。魯粛の目はきらきらと輝き、まっすぐに孫権を見つめている。本当であれば二年前にお会いしたかったのです、と孫権が言えば、魯粛は頷き、わたくしもですよ、と笑い返した。
 酉の正刻に宴は散会し、孫権は谷利、朱桓を従えて賓客たちを見送ったが、回廊の先に彼らの姿が見えなくなると、慌てて谷利の腕を叩いた。
「利! 利利利!」
「いたた、な、なんですか!」
「魯子敬どのを呼び戻してくれ、早く早く!」
 こっそりな、と急かす孫権に、谷利は訝るように首をかしげる。
「だって、二年ぶりなんだぞ。もう少しお話を伺いたいんだ……あんな風に、わくわくする人だって、私は知っているんだよ」
 浮足立つ孫権に背中を押されて、無理でも怒らないでくださいよ、とちゃんと言い置いてから谷利は走り出す。もし他の賓客たちと連れ立って歩いていたなら、そこへ孫権の側仕えが来て魯粛一人に声をかけたとき、彼らは何と思うだろう。今、孫権にとっては多くの士大夫の信用を得ることが重要な時期にあって、不必要な疑念を持たせることは避けたいと谷利ですら思っている。孫権も少なからずそう思っているのであろうが、どうやら魯粛に対する興味の方が勝ってしまったらしい。
 はあ、とため息をついて回廊を曲がれば、少し先の手摺の縁に手をかけて寄りかかり、ぼんやりと宵の空を見上げる一人の影があった。谷利は思わず立ち止まり、月の光が縁取るその影の持ち主の名を呼んだ。
「魯、子敬様」
 呼ばれた男はゆっくりと振り返った。まるで、その名を呼ばれるのを知っていたかのように。
「おや、これはこれは。孫討虜様の衛士の」
「はい。我が君より魯子敬様をお呼びする旨を仰せつかりました」
「我が君、かい」
 朱桓が孫権をそう呼び表してからというもの、谷利も好んで孫権をそう呼ぶようになった。初めの頃は困ったように、気恥ずかしいからやめてくれないか、と咎めていた孫権も、言うことを聞かない二人に諦めたのか今では好きなようにさせている。
 おかしそうに口元に手を持っていった魯粛は、いいねえそれ、と楽しそうに言った。
「それじゃあ、呼ばれたならば俺も我が君の下へ向かいましょうかね」
「……あの……他の賓客の皆様は」
 谷利が疑問を口にすると魯粛は目を細めて、もう帰ったよ、と返した。
「俺はここから見る月がきれいだったんでね、ちょっと見ていただけさ」
 そう言って颯爽を来た道を戻る魯粛の背を見つめながら、谷利は眉を寄せてしまっている自分に気がついた。

 戻ってきた魯粛を見て孫権は大いに喜んだ。すでに朱桓が用意していたらしい二つの向かい合った榻のひとつに彼を促し、己ももうひとつに坐する。谷利と朱桓はその後ろに跪いて控えた。互いに酌をして杯を交わし、一息に一杯を飲み干した二人は、顔を見合わせるとほとんど同時に笑い合った。
「お久しぶりです……というのもおかしな話ですね。以前、周公瑾どのとご一緒に来呉された折には、ついに会えず仕舞いでしたので。こうしてお話できて本当に嬉しいです」
「そうでしたね。当時は孫討逆様も壮健なご様子でしたが……」
 尻すぼみになる魯粛の言に、孫権は小さく頷く。
 孫策の死は江東に大きな影と問題を落とした。それは孫権自身の上にも覆い被さり、彼は右往左往し多くの者の助けを借りながら事態の打開を図っている。
 魯粛は目を細めて彼を見る。そうすると彼自身の像はぼやけ、一人の“孫策の後継者”の姿しか見えなくなる。
「――ところで、わたくしを呼び戻していただいたのにはどんな理由があったんでしょう?」
「あ、ああ! そうでした!」
 ぱっと顔を上げた孫権は、努めて表情を明るくし、しかし声を潜めて魯粛の方へ身を乗り出した。
「私はこのように若輩者ながら、討逆様の事業を受け継ぐこととなりました。ついては亡兄のみならず亡父、孫破虜様もそうしたように、漢王室に凝る暗雲を廃し、桓公、あるいは文公のような功績を上げたいと願っているのです。ぜひその方策を魯子敬どのにも伺いたいと思いまして」
 その言葉に魯粛は目を丸くした。そして同時に、あなたっておかしな人ですね、と笑う周瑜の姿が脳裏に思い起こされる。
 目の前に坐して魯粛の言葉を待つ孫権には、確かに迷い児の肖像を垣間見る。しかも彼に至っては、“正しい里親の下に導かずとも世話してくれる誰かの下でさえあればいい”という暴挙がまかり通っている――いや、まかり通ろうとしているのだ。それだのに彼は、誰が寄せているとも知れない期待を背負って、偉大な先達に続こうと立ち上がった。
 恐らく彼にも彼自身の考えがあるはずだ。だが今はそれがぼやけて見えない。それでも、その姿かたちがかすかながら光を放っていることくらいは魯粛にもわかる。
 こういう純粋さは、所有が許されるものではないのだ。まるで美しい玉や布のように、整然と紡がれた紋様のように、己の権威や功績を飾り立てるだけの品にしてはならない。
「あの……魯子敬どの?」
「ああ、失礼」
 返答がないことに焦れて口を開いた孫権に笑みを返し、魯粛はコホンと咳をした。
「桓公、文公と申しますが、今の漢王室を牛耳る司空曹孟徳は、さながら高祖に対する項羽のようなもの」
 項羽、のところで側仕えの一人がぱっと魯粛の顔を見たのが視界に映る。内心で首をひねりながら、魯粛は続けた。
「そして彼の影響力は漢王室に於いてあまりに強大です。王室はすでに彼によって骨抜きにされてしまった。僭越ながら、一地方の一将軍がその存在を取り払おうとすることも、漢王室の再興を図ることも、あまりに無謀かつ到底不可能かと」
 今度はもう一人の側仕えが少し腰を浮かした。魯粛もいよいよ後ろに控える、この場に唯一同席している二人にじっくりと目線を据える。彼らは一様に己に対する苛立ちや不信感を露わにしているが、肩を竦めた魯粛はただ笑みだけを返した。何よりこれから己が発する言葉は、孫権は元より、彼らの中にも響くであろうから。
 魯粛は、口を引き結んでひどく堪えたような表情をする孫権を見た。
「我が君、孫討虜様。わたくしがあなた様に申し上げられる方策はひとつです。まずはじっくりとこの江東の地に腰を据え、天下の動静を注意深く見守り、そのほころびを見極めてください。曹孟徳の根拠地である北には問題が山積している。今彼が対峙している袁本初もそうです。さらにその北には多種多様の異民族が、さらには漢王室の内部ですらそうです。これらの諸問題に対して曹孟徳が掛かりきりになっている内に、あなた様はまず黄祖を取り除き、劉景升を討ち、江東江南の地をすっかり併呑してしまってください。そうして長江の流域をすべてあなた様の庇護下に置いて――」
 パチン、と魯粛は指を鳴らした。
「――しかる後に帝王を名乗り、天下へと歩を進められませ。高祖がそうしたように、ね」
「て……っ!?」
 孫権は榻を鳴らして立ち上がりかけた。すぐに坐り直したが、その表情は驚きを隠せないばかりか、どこか青ざめてすらいるように見える。彼の後ろに控える側仕えたちも魯粛の言に戸惑い、眉をひそめて注視している。
「ち、違います、私はそんな……」
「“そんなことを聞きたかったのではない”ですか?」
「い、いや! その……」
 ――恐らく孫権は、魯粛が己に対して述べて“くれた”言葉を否定したくはないのだろう。きょろきょろと視線をそこら中に彷徨わせ、手の中で杯をもてあそびながら、返す言葉を探している。魯粛はその様をじっと見つめている。目を細めたりはしない――彼の姿がぼやけてしまうから。
「さ……先ほど申し上げましたように私は未だ若輩者です。まだ討虜将軍としての事業も先行きが見えぬままで……その、あなたはきっとご存知でしょう、皆にもなかなか認めていただけておらぬのが現状です」
 そのように言う孫権は、どこか恥ずかしそうであった。己の未熟さが心底恨めしいというような、それでいてどうにもならぬというような、遣り切れなさを滲ませている。
「あなたが仰ったようなことは、私の手には負えません。私はこの、討逆様の平定されました江東の地域を保つのに精いっぱいで……漢王室のために尽力できればと願うばかりなのです」
 申し訳ありません、と彼は言った。
 何を謝ることがあるのだ、と魯粛は思う。初めから、未だ確固たる己のものを何ひとつ持ちあわせていない彼に何かできようなど、魯粛は“期待”してはいない。
 いや――そこで魯粛はチラリと側仕えの青年たちを見た。もし彼が持っているとすれば、こういうものだ。何も持たぬ彼を慕い、そのために奮励しようとするもの。彼らは先ほどのような戸惑いの表情ではなく、何か思うところがあるような顔で、さり気なく魯粛と孫権とを見遣っている。思うところというのは、魯粛の願望も含まれていたかも知れないが。
 さながら穏やかな川面に一石を投じるが如く。魯粛は微笑んで、いいえ、と口にした。
「この魯子敬、少々せっかちなきらいがありまして、あなた様の相に優れたるものを見ましたものですから、いや困らせようと思って申し上げたのではない。どうかご理解ください」
「いや、いや、そのようなことは! お応えできぬ非才の身が情けのうございます。あなたさえよろしければ、どうかこの浅慮な私をこれからも支えていただけたら嬉しい限りです」
「もちろんですとも、我が君」
 魯粛は榻から立ち上がり、孫権の傍らに跪き拱手した。
「ですが、努々お忘れくださいますな。あなた様のために戦う者は、決してあなた様を甘言で以て導いたりなどいたしませぬ。なぜなら、あなた様自身の光がその手にあることを知っているからです。先行きが見えぬ道のりも、その光さえあれば――」
 あなた様の戦士は、どこまでも、馳せてゆけるのです。


 ◇


「……なあ」
 朱桓がひっそりと掛けた声に、谷利は片眉を上げて答えた。
「……なんでしょう」
「さっきの話、どう思う」
 孫権を彼の邸宅まで送り届け、夜警を当直の兵士に任せて自身らは兵舎に戻る道すがら。孫権はいつになく憔悴したような様子で、夜の挨拶もほどほどにさっと邸内に帰って行ってしまった。無理もない。先に会った魯粛という男は、張昭や他の者から推挙されたような人物の中にはない、強烈さを持ち合わせていた。
 漢王室の再興など不可能なのだから、あなた様が帝王を名乗ってしまいなさい、などと――
「……彼が仰るようなことは、可能なのでしょうか?」
「名乗ろうと思えば誰だってできるさ。王莽だって、袁術だってそうだったろう」
 袁術は知っているが、王莽というのは谷利の記憶にはない。前例はあるのだとわかった谷利が、そうですか、と頷くと、朱桓は腕を組んで首をひねった。
「我が君のために戦う戦士、ねえ……」
「私はもともとそうですから」
「あ、ずるいぞお前」
 出し抜けに言う谷利に、俺だって、と朱桓は声を荒げる。
「ただ、今の将軍府にそれだけの奴が何人いるのかってことだよ。俺はここに来て日が浅いけど……正直、我が君をなめてかかってる連中が多いことくらいはもうわかる」
 はっきり物事を口にするたちの朱桓の言葉は時に辛辣だ。実は孫権や谷利よりも年嵩の彼は、任期としては一番若いにも関わらず、どこか二人の世話役のような風情さえかもし出すこともある。
 谷利は朱桓の言葉に頷いた。孫権が出仕せずにいた一月の間に――それは致し方なかったのかも知れないが、これほどまでに彼を取り巻く環境は恐ろしい変貌を遂げてしまったのである。
「……けど、あの人の言うことは何か違う、と俺は思ってる」
「魯子敬様ですか?」
 朱桓は首肯し、そう信じたいだけかもな、と付け加えた。
「だって、俺は……見てみたいんだ、我が君が真に高みに登られるのを」
「……そうですね」
 同意を示した谷利に、朱桓は嬉しそうに、お前もそう思う? と返す。谷利は、素直に頷いた。
「ただ、出会ったときから私の最上は我が君でしたので、今更何か変わることでもないかも知れません」
「お前、さっきからずるいぞ」
 俺だって、と朱桓は歯を見せてにやっと笑った。

 きっと今は様々なことが心許なく、寂しく思われて、不安な夜ばかりかも知れない。
 それでも今日、魯粛が彼に放った言葉が、さながら火に焚べられた薪のように彼の中に残って、またその炎を大きく巻き上げることを願ってやまない。
 初めから彼は輝いていたのだ。谷利も朱桓も、それを知っている。