建安五年の暮れ、討虜将軍府に急報が飛び込んだ。以前、劉勲征討後に孫策が任命した盧江太守、李術、字を文径が、揚州刺史である厳象、字を文則を殺害したのである。厳象とはかつて曹操の腹心である荀彧、字を文若が彼に推挙した博学の人であり、また曹操が孫権、孫翊の兄弟に官職を与えた際に、併せて孫権を茂才に推挙した人物でもあった。
 孫権は討虜将軍としての事業を始めてから、呉郡を離れ亡命した者たちを李術が積極的に受け入れているという報を受けてより、その身柄の返還を公文書で以て要求していた。しかし李術からの返答は、徳のある者を人は頼り、徳のない者は人から見放されるだけのことである、といったものであった。
 その返信を握りしめる孫権の力んだ白い拳は――いつかの孫策に似ている、と谷利は思った。
「討虜様。……お出になられますか」
「――無論です。厳刺史は言わば中央から直々にこの揚州に派遣された方。この無法を看過することはできませぬ」
 周瑜の言葉に孫権が頷く。
 厳象殺害の報を受けて、すぐさま孫権は曹操に出すための上表文を胡綜にしたためさせた。これより己は皖城に李術を攻囲し速やかに誅滅せしめる、これは朝廷に対し弓引かんとする逆賊の征討であり、また恩人の敵討ちでもある、もし彼の者が何事か言い訳を並べ立てて助勢を乞うても、どうぞその言葉には耳を傾けられませぬよう。
 孫権は、副将に孫河、そして監軍として張昭を伴い、呉郡の守りを周瑜、呂範に預けると、凌操、董襲、潘璋、呂蒙、徐盛――孫権が討虜将軍になってより新たに別部司馬として府に迎えた武の人で、字を文嚮――の軍を従え、またその途上で鄱陽に遠征していた宋謙の軍勢とも合流し、呉郡の西九百里のところにある盧江郡の郡治皖県に向けて進軍した。
 ちょうど一年前、孫策もそうしたように、兵たちには軽装でもって行軍させた。劉勲征伐の折には寡兵のために容易に陥落せしめられた城は、今回の攻囲に於いては堅固な守りの城となる。孫権進軍の報は既に李術にも届いているだろう。今、皖城には李術の配下、皖の民のみならず、呉郡から亡命した多くの者たちがいる。見立てに拠れば三万は超すだろうとのことである。
 皖城、四方はそれぞれ五里にも及ぼうかというその城の三方を孫権の軍勢が覆った。ただ北面のみは敢えて包囲を手薄にし、城内へ向けて、先の李術による理不尽な刺史殺害への罪を問い、また抵抗せず降伏し我が軍に従うのであれば、一人からでも呉郡に於いてその生活を約束すると呼びかけさせた。
「我が君、ですが、北から城を離脱して助勢を乞う者もあるのではありませんか。それらを逃がしてしまうと――」
「好きなだけ呼べばいいさ」
 朱桓の問い掛けに、孫権は口元に自嘲気味な笑みを浮かべた。
「どうせ一兵も来やしないのだから」

 攻囲開始から一月半余りを過ぎ、年が明け、建安六年になった。孫権の言うとおり、北からの来援の気配は見えない。
 新年の祝いのために呉郡へ帰還することは叶わなかったが、丹楊太守であり孫権の叔父でもある呉景より酒肴の差し入れがあって、それを全軍で分けてささやかな祝賀とした。凌操の陣営で、父親の隣でまずそうに酒をちびちび飲む凌統、字を公績を見ておかしそうに笑い、その頭を撫ぜてやる孫権の顔には僅かばかり疲労の色が見える。
 敵方には、始めの内は籠城を決め込むと言っても、城門から打って出ることはないものの城壁の上から矢を射掛けて牽制する動きも見られたが、数日前からはいよいよ鳴りを潜め、皖城内で炊事の煙が上がることはほとんどなくなった。考えていたより早かったな、と呟いたのは孫河である。
 過日、皖より北へ三百里のところにある合肥県に、曹操より新たに揚州刺史として任命された劉馥、字を元頴が入城し、李術の叛乱に呼応してその周辺を荒らし回っていた賊を懐柔したとの報があった。そのときは事態が沈静化すれば皖城への助勢もあろうかと思われたが、大方の予想に反して北はそれ以来動いていない。
「助勢がないというのは……先んじて曹司空に出しておりました上表のためでしょうか」
 夜陰に浮かび上がる皖城をぼんやりと眺めている孫権に向かって控えめに谷利が尋ねると、彼は首を振った。
「彼はあんなもので軍の動静を決めたりはしないさ。もしかしたら今は袁本初で手いっぱいで目を通してさえおらぬやも知れぬ――たかが揚州の内輪もめに彼が割いている時などないよ」
 その言葉に谷利は、昨年許で同じようなことを口にした孫翊に対して激昂した孫権の姿を思い出す。孫策が率いていた軍の一員であることを誇り、“聖なる戦”とまで呼ばわった孫権は、どうして今こんなにも昏い顔をしているのだろう。
「曹司空が南を気にすることがあるとしたら、それは北の脅威をすっかり排除し果せてからだ。……討逆様はかつて、志が同じであるなら、彼と己の戦は決して相反せぬはずだと仰った」
 ――私の戦とは、どうであろうな。口元を手で覆いながら、孫権は小さな声でそんなことを言った。
「……それは、魯子敬様が仰っていたようなことで、ですか」
「帝王というやつか? 違う違う。いや、魯子敬どのの金言には目を覚まさせられた。江東ですらままならない私が、桓公や文公のようになどとは口が裂けても言ってはならなかったのだ。それであんな大きなことを仰って私を諌めてくださったのだろう」
 孫権はくすくすと笑う。しかし、谷利は眉をひそめて首をひねった。己や朱桓には、彼がどうも本気でそう口にしたように見えていたから。
「だから、これよりはとにかく江東を平らげる戦だ。どの時点で曹司空の目が南を向くかはわからぬが……以後はまず襄陽、劉景升の出方次第であろうな」
 笑っていた孫権は、そう言って急に真面目な顔つきをする。そしてぽつりと、腹を括らねばならぬ、と言った。
「多くの者を殺さねばならぬ。――だが、できれば少ない方がいいと思う。……少なくとも私の目の届く範囲は」
「…………、……どんどん弱気になっておりますよ」
 谷利の言葉に、うるさい、と彼は頬を赤らめて噛みついた。
「くれぐれもそのことを承知しておいてくれ。殺されるべきは私や李術のような者であって、兵士や民に罪はない」
「――我が君は関係ありません」
「ものの例えだ」
 谷利がぐっと眉をひそめた表情を見たのだろう、孫権が小さく微笑んだとき、その肩の向こうから朱桓が走ってくるのが見えた。
「我が君ーっ」
「ああ、休穆どの、お疲れ様です。輜重の方はどうでしょうか?」
「はい、恙なく。もう二月分も残っておりますし、宛陵県からの兵站も機能しております。それでですね、陣の外に我が君に目通りしたいという者が来ているのです」
 後ろを指さす朱桓に、孫権は訝しげな顔つきになる。
「この夜更けに、こんな陣中でか?」
「なんでも新年の言祝ぎに呉郡に向かおうと思ったら、一度寄った宛陵で討虜様の軍勢が西へ向かったと聞いて追いかけて来たと」
 あはは、と笑いながら言う朱桓につられて、二人も思わず笑みをこぼす。しかし、その者の名は、と問いかけた孫権に対する朱桓の返答に、すぐに二人はその笑みを引っ込めることとなった。

 朱桓に導かれ、急いで陣営に戻った討虜将軍とその衛士に気づいた二人の客人が笑顔になる。
「……卓、荊さん」
「久しぶりだな、利。なんだ? 黒い着物が様になってるじゃないか」
 小首をかしげて潘卓は笑う。彼はすぐに孫権に目を向け、右手の拳を胸の前に持ってきた。荊尹も同じように拱手して頭を下げる。
「隻腕ゆえ、きちんとした礼もできず申し訳ありません」
「いや、気にすることはない。久しぶりだな、潘卓、荊尹――もう、三年も前になるか」
 覚えてくださっていたのですか、と二人は驚く。頷く孫権は、二人を本陣の幕舎に入るよう促した。中には既に張昭、孫河の二人、そして各部隊の将軍が揃っている。
 床几に腰かけた孫権が席に着くように示すと二人は跪いて改めて手を組み、荊尹が、お目通りが叶って幸いです、と言った。
「夜分に申し訳ありませんでした。本来であれば呉の都城へ新年の言祝ぎのために足を運んだはずだったのですが」
「ああ、休穆どのから聞きました。ご足労を掛けて申し訳ない」
 いいえ、と潘卓は首を振り、まっすぐに孫権を見る。
「孫討虜様。こたび我ら、荊尹、潘卓の二名は、阜屯屯長彭節の名代として参りました」
「我ら阜屯の虎の民、五千余、すべて孫討虜様に恭順の意を表します。どうぞお心のままに我々の武勇をお使いください」
 その言葉に、幕舎が動揺に包まれる。
 孫権も少しだけ目を見開き、それからすっと細めて、まことか、と口にした。頷く阜屯の二人は、深々と首を垂れた。
「三年前の宣城での衝突、弁解のしようもございません。罪を得て虜囚となるも已む無しと思っております」
「……だが、私がそうする積もりなどないことも知っているだろう?」
 小首をかしげて微笑む孫権に二人は答えない。そのとき、彼らの様子を渋面で見つめていた張昭が声を張り上げて、殿、と孫権を呼んだ。
「御兄君、孫討逆様が江東に拠ってからというもの、我々は山越どもに散々苦しめられてまいりました。彼らは江東に跋扈する怪しからぬ賊でございます。今このように殊勝な態度で恭順を表したからと言って、明日の顔もまたこのようであるとは限りませぬ。言うなれば我々にとっては自然災害のようなもの、彼らの力を恃みにするのはあまりにも無謀です」
 孫権はほんの少しだけ迷惑そうに眉をひそめた。
「張公、彼らは誠実です。いえ、他の山越どももまたそうであるとは申しませぬ。しかし阜屯の者らは違います。現に彼らはあの宣城での衝突以来、一度も我々と干戈を交えてはおりませぬ。それに――」
「いいえ、“我が君”、孫討虜様」
 客人に肩入れするような孫権の物言いに今度は張昭がひどく腹を立てたような表情をしたが、そこに潘卓の声が仲裁するように飛び込んだ。幕舎にいる将たちの目線が一斉に彼を向く。
 潘卓は笑って、張昭にチラリと目線をやった。
「そちらの御仁の仰られるのも無理からぬこと。むしろ我々から申し上げさせてもらえば、我が君の方がいささか迂闊というものですよ?」
「うぐ……潘卓、お前、そんなことを言う奴だったのか?」
 孫権は助けを乞うような目で谷利を見たが、谷利は頷くのみに留めた。友人はしばらく会わない内に、その精悍な顔つきに僅かに剣呑さを帯びたように見える。それは少なからず孫権にも言えたことであったが、己の顔は己自身には見えない。
 潘卓は幕舎内の諸将を見回し、最後に孫権を見た。
「攻囲開始より開城交渉に成果はありましたか?」
「見ての通りだ。もう一月以上も篭られている」
「それでは我々が中へ行き、直接勧告を行ってまいります。加えて李術の首級をあげますれば、皆様方の疑念も晴れましょうか?」
 幕舎がどよめいた。潘卓と荊尹の確信的な表情にはさすがに谷利も目を見張る。
 そこでようやく孫河が口を開いた。
「お前たちのやりたいことはわかったが、それは可能なことなのか? 我が軍は城内からの離脱は看過するが、城外から内部に進入する者を許しはしない」
「では進入のご許可をいただけますか? 城内へは我々で呼びかけますゆえ」
 荊尹の言い方に片眉を上げた孫河は、どういうことだ、と詰める。ニヤリ、と口の端を上げる荊尹の笑みは、この場には全く適さなかった。
 彼の言うには、李術は盧江、鄱陽、豫章、そして丹楊の多くの山越にも寛大な措置を条件として恭順を呼びかけていたらしい。その東端は恐らく阜屯であろうということだった。しかし、呼応した屯はさほど多くはなく、また今回の戦闘に於いても静観の構えを崩してはいないという。
「そこで交渉役として我々山越の民を推していただければ、李術の側にも交渉の余地が生まれ、少なからず皖城も軟化しようかと思われます」
「それはいささか浅慮ではないか? 呉軍の息のかかった者と思われ目論見が外れれば、そなたらの命も危うい」
 声を発した董襲に潘卓は頷く。
「息のかかったふりをするのは容易きこと。それに、我々程度の命の軽さであれば皆様方には痛くも痒くもありますまい。我々は皆様方の信頼を得るために、自ら死地に身を置く所存です」
 そう言われてしまえば誰にも異存はない。戦の早期終結は誰の内心にもあるひとつの望みであった。
 ただ、張昭が一言だけ言った。
「この機を見計らって我々に取り入り油断させるという謀りでないことを保証できるか?」
 その問いに答えたのは、山越ではなく、彼の将軍であった。
「そのときはこの者らの命が、この者らの言う通りに軽くなるだけだ」
 誰もが彼に目を向ける。
「……だが、今はとてつもなく重い」
「……討虜様」
「重いよ。潘卓、荊尹。お前たちに委細任せる。監軍としてうちの利を付ける。そやつの命も殊更に恐ろしく重い、お前たちが考えている以上にな。死なせたら承知しない」
 不意に話を振られた谷利はぱっと孫権を見、それから同胞に視線を向けた。二人も目を丸くして谷利を見ていたが、やがて、無論でございます、と大きく頷いた。
「――利」
「っ、はい!」
 すぐさま跪き拱手する谷利に、孫権は笑いかける。
「頼まれてくれるか。李術の首以外は何も要らないから、その他の小事には目もくれぬように」
「……はい、謹んで拝命いたします」
 ぐっと身を低くした谷利の側に孫権は膝をつき、その肩にそっと手を置くと、よろしくな、とささやくような声で言った。

 翌朝、皖城の南門半径二里に及んで攻囲を解いた孫権軍は、ただ谷利と荊尹、潘卓のみをその場に残し、城壁の前から遠退いた。
 李術への面会要請を記した竹簡を括り付けた矢は無事に城壁の上に届き、それを確認した衛士が李術からの許可を得るために一度城内に戻っている。彼らの見立てでは少し手間取るかと思われたが、城壁の上の兵士たちは誰も彼らを疑う様子を見せなかった。
「利、あのさ」
 衛士が戻って来るのを待つ間、潘卓が谷利を呼んだ。首を傾げた谷利が彼を見ると、彼は城門を見つめたまま、昨日さ、と話し始める。
「あの顰めっ面のおっさんが」
「……張子布様、張公だ」
「通じたじゃないか。その張公が言ってた、俺たちは機を見計らって帰順してきたというやつ。あれは半分合ってる」
 こんなこと、今のお前に言ったらきっと嫌な気持ちになるだろうけど。
「俺たちは孫策がいなくなるのを待ってた」
 谷利は目を見開いて潘卓と荊尹を見た。彼らは谷利の方を向かない。
「正しくは、孫策がいなくなって、孫討虜様がその後釜に付かれるのを。他の誰でもだめだったから、今になってようやっと来たんだ」
 潘卓の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。谷利はぎゅっと唇を引き結んで、彼らから目を逸らした。
 ごめんな、と潘卓が謝るのに、谷利はただ首を振るだけだった。
「だからもし、彼らが戴くのが孫討虜様じゃなくなったらそのときはさっさと手を切るつもりだ。お前にだけは言っておきたくて」
「……俺には関係ない。俺は我が君の傍にいるだけだから」
「うん。だよな、ごめん」
 やはり首を振るだけの谷利に、荊尹もまた苦笑を浮かべる。
 しばらくの沈黙の後に、彼らの視界の中央で大きな音を立てて城門が開かれた。中から一人の老年の官吏が現れて三人に拱手する。それに次いで三人も礼を返すと、彼はひどく疲弊しきったような表情で、太守様がお会いになられるとのことです、と言った。
「ありがとうございます」
「それでその……そちらの方は」
 チラリと官吏が谷利に目を向ける。ああ、と潘卓は努めて明るい声を上げた。
「彼は孫討虜様が未だ官職を得ていない時分よりの彼の側近で、こたびの交渉の席にて目付を勤めます――我々の同胞にございます」
 最後は声を潜めた彼に、官吏もひとつ頷いて、ではどうぞ、と城内へと彼らを促す。
 入城すると同時に閉じられた門を背に皖城の道路を進めば、内部はほとんど人の声が聞こえず、時々どこかから赤子が悲痛な声で泣くのだけがかすかに聞こえるのみだ。包囲戦に参加するのは初めての谷利にしてみれば、まさかこれほどまでとは、という思いである。分厚い城壁は内部の事情をほとんど伝えない。
 城内を半分ほど過ぎたところで、側道から兵士の叱責するような怒鳴り声に続いて、お許しください、と女の悲鳴が聞こえてきた。谷利がそちらに目を向けると、泥まみれの手を地面に突いて泣き喚きながら叩頭する若い女と、それを必死の形相で諌める兵士がいる。
「あれは?」
 谷利が歩み出ようとしたところに、官吏が、お構いなく、といささか乱暴に言う。
「糧食が尽きてより、泥団子を食う者もあります」
「…………」
 荊尹が谷利の腕を引く。兵士が女の肩に手を置き、俺だってつらいのだ、と泣きそうな声で言うのを聞きながら、谷利は官吏を追って足早にその場を後にした。

「丹楊から遥々よくいらした、阜屯の諸兄ら」
 入り口で衛士に剣を預け政庁に通された三人は、上座に坐する壮年の盧江太守に跪き、手を組んで礼をした。得物を携えた衛士を両脇に置いた李術は目の下に濃い隈を作り、歓迎するような口振りながらその表情は険しい。
「いえ、このたびは交渉の席に着いていただきありがたく存じます。先にいただきました呼びかけに応えようとこちらに足を運びましたらばまさに攻囲の最中、我々も囚われの身となり、こうして交渉役として遣わされましたのです」
 荊尹の口上を頭を伏せて聞きながら、谷利は内心でため息を吐く。口から出まかせとはいえあまりいい気分はしなかった。李術は、ご苦労であったな、と労いの言葉をかけ、目を細めた。
「それは、その者の前で申してよい言葉なのかな?」
 谷利を示しているのだろう疑念の言葉に潘卓が、城門前で老官吏に伝えたことと同じ言葉を繰り返す。そうか、と納得した李術は己のあごに雑に生えた髭を撫でながら、してどうする、と彼らに問いかけた。
「城内を通ってきたであろう、もはや軍内の戦意は失墜しかけておる」
「ええ……泥団子が腹の足しになるとは思えませぬな」
 そう言う荊尹に、李術は深く息を吐いた。
「あの青臭い若造が、憎らしいものだ。一時の怒りに身を任せて無茶な行軍をしたのだろう……出立の報を受けてより三日を待たずに攻囲を完成させるとはな」
 苛立たしげに胡坐を掻いた膝の上で人差し指を打つ彼は、北に援軍の要請はしてあるが、と疲れたような声で言う。
「来てはおらぬようですな」
「うむ……途中で殺されたか、或いは遅れておるのか」
「――もしくは、送る気がないか」
 潘卓が言うことに、李術は眉を上げた。
「ご安心ください。我が阜屯より輜重隊が出ております。無事に届けられれば城内の兵士、民衆に十分に行き渡るだけの量はございます」
「なんと、ありがたいことだな。それ程の糧食をどこから?」
 瞠目して首をかしげる李術に、しばらく鳴りを潜めておりましたから、と荊尹は笑う。そうか、と李術は嬉しそうに膝を叩いたが、すぐにまた沈痛な面持ちになった。
「しかし、運び入れる手立てがない」
「そうですな……」
 交渉の席に坐る四人も、その周りの衛士たちもざわめきをなくし、その場にふと沈黙が下りたとき、右隣にいる潘卓がそっと彼の失われた左腕に触れたのに谷利は気づいた。
「いいえ、太守どの。ひとつだけございます」
 彼が、朗々と述べる。李術が顔を上げるのと、その肩の向こうにいる一人の衛士が彼の戟の柄を握り直すのはほとんど同時だった。
「――あなた様に死んでいただくことにございます!」
「!? 貴様――っ……」

 そのとき、ふおん、と戟が空を切った。

 傍らに置いていた剣を手に立ち上がりかけた李術の背中に、それは勢いよく振り下ろされる。どごん、と肉を切る音が鳴り、激しい音を立てて李術は床に倒れ伏した。何が起こったのか把握できなかった彼がなおも動こうとするのに、再び戟が叩きつけられる。そして握り直されたそれは、槍を投げるような動作で真っ赤に染まった彼の背に突き立てられた。

 誰もが絶句する中、下手人である一人の衛士が姿勢を正して立った。
「た……隊長……」
 呆然とする別の一人が彼の姿を見止めて呟くように言う。立ち上がり掛けた姿勢のまま目を見開いた潘卓が、あんた、なぜ、と戦慄く口で彼に問うた。
 彼は昏い瞳を交渉役であった三人に向けた。
「昨日――」
 低い、低い声で彼は言う。
「――私の、二つになったばかりの息子が死にましたので。……すっかりやせ細り、あんなにふっくらとしていた頬はこけ……最期は泣きもしませんでした」
 今度は動かなくなった李術の体から生えているような戟をチラリと横目で見遣った彼は、ふと口元に笑みを浮かべた。
「こんな戟よりも、よほど、軽うございました……」


 ◇


 南門の城壁の上に李術の首が掲げられるのと、四方の城門が開かれるのはほとんど同時だった。開かれた城門から皖に入城した孫権の軍勢は速やかに各地を制圧し、投降した李術麾下兵と民衆、併せて三万人を城内四ヶ所に分けて集めると、軍の携行していた糧食を彼らに配給した。既に孫権が全軍に通達していたように虐殺、略奪などの行為は一切行われず、一晩休んだ後に投降兵らは順次呉郡へ移送され、残された皖城の民はひとまず新たな盧江太守として充てられた孫河の下で復興のために力を尽くしていくこととなった。

 帰途、宛陵付近まで軍に随行していた潘卓と荊尹が別れて阜屯に戻った後、入城してからの事の次第を谷利に尋ねた孫権は、彼の報告にひとつ頷いて深く考え込むような表情をした。
「……いや、わかった。ご苦労だったな、利よ」
「いいえ」
「ところで、聞いているとその近衛兵長は潘卓らの意思とは関係のないところで動いたように思うが、彼の働きがなければあやつらはどうするつもりだったのだ?」
 それなのですが、と谷利は呆れたようにため息を吐く。
 同じことを問いかけた谷利に、潘卓は笑って己の左腕を示した。遺ったその上腕部分に、触ってごらん、と言われ、訝しげに谷利がそっと触れると、何やら固い感触がある。種明かしをするように捲られた着物の影に、太い撚糸で上腕に巻きつけられた小剣が見えた。
「まあこれで隙を見てざくーっと、などと申しておりました」
「あっはは、行き当たりばったりではないか。事なきを得たからいいようなものの」
 手を叩いて笑う孫権と肩を落とす谷利を交互に見ていた朱桓が、なあ、と寂しそうに声を上げた。
「谷利、お前、山越だったの?」
 ぱちりと瞬いた谷利は、口を尖らせる朱桓に恐る恐る頷く。言ってくれてもよかったのに、と拗ねた口調の彼に、谷利はすっかりそれが周知のものだとばかり思っていたからぎこちなく頷いた。
「すみません、わざと黙っていたわけでは……」
「……ん、そんならいいけど。どうせもうそんなこと考えてなかったんだろ?」
 彼にそう言われて、谷利は頷く。孫策や、張昭を始めとする群臣たちが谷利の存在を黙認していたこともそうだが、むしろ谷利は始めから、己と孫権の間に境目があるなどと考えてすらいなかったかも知れない。それは、君臣の境目ということではない。最初の邂逅のためもあるだろう。孫権が彼自身の周りに境界を定めなかったから、谷利は側仕えとしてその傍らにいるのだ。
 ふふ、と微笑んだ孫権が、言う。
「討逆様の愛したものを害する者が敵であり、討逆様の愛したものを守る者が味方なのだ。――その方が、わかりやすくていい」
 行軍の先頭を騎行する孫権は、そっと後ろを振り返り、彼の後に続く軍勢を愛おしげに眺めた。
「……私もそのために戦うと決めたのだから」
 彼の言葉に、谷利と朱桓は同時に頷いた。
 やがて一行はその視界に、春のやわらかな光を湛えたいくつもの湖沼を映す。約二月ぶりの呉郡の風景であった。


 ◇


 ちょうどその頃、将軍府を離れ地方で政務に当たっている将や官吏には、次々と北方――曹操より招聘の便りが届いていた。
 虞翻、字を仲翔などはその書簡を見るや顔を歪め、苛立たしげに舌打ちをすると、乱暴に“否”の返信をしたためたその足で討虜将軍府を訪れ、その意気に気圧された形の孫権により騎都尉に任ぜられることとなった。また太史慈にはその下に当帰という薬草が曹操より送られてきたというが、来呉がてらの宴席で、あれはさっぱりよくわかりませんでしたよ、と快活に笑う彼に孫権は心底安堵させられた。

 曹操の目は思いのほか早く南を向いた。
 建安五年から六年にかけての戦役で袁紹の軍勢を潰走させた曹操は転進し、彼の別動隊として汝南を攻撃していた劉備を征討する。劉備は恃みにしていた同姓の劉表の下に身を寄せ、新野に駐屯した。
 劉備、字を玄徳とは、孫権の亡父孫堅と同様にその活躍は黄巾党の乱に端を発する、漢朝第六代皇帝・景帝の子、中山靖王劉勝の末裔だという人物である。以来各地を転々としながら戦を重ね、彼の衛士、或いは義兄弟でもあるとする関羽、字を雲長、そして張飛、字を益徳という二人の猛将と共に天下に名を知られることとなった。
 建安七年夏五月。かつての盟友であり曹操の最大の敵であった袁紹の病死の報が伝えられると、曹操は、その懐に劉備を抱く劉表を注意深く視野に入れながら亡友の残滓を残らず取り除かなければならなくなった。采配に悩む彼は、江東の地で押し黙って中華を静観していた若い将に目を止めた。かつて自身が官職を与え、そして近くはその者を将軍職に就けるようにと王室に対して推挙までした、孫権である。

 曹操から届いた書簡に、孫権は頭を抱えた。曰く、その方の王室に対する信義の証として、その方の子息、或いは兄弟を保質童子として都に出すように、とのことである。
 孫権には、会稽郡山陰県の謝家の子女である謝夫人、そして呉郡富春県の徐家の子女である徐夫人という二人の妻がいたが、子供はまだなかった。そのため曹操の要求に応えるとすれば必然的に彼の兄弟を保質として出さなければならなくなるが、孫権はそれも決め兼ねた。
「私は構いませぬ。匡を出すまでもないでしょう」
 評定の間で群臣に並んで坐する孫翊は身じろぎもせず背筋を伸ばしたままそう言ったが、孫権は首を振る。今、孫家は江東の地に置いて地方の豪族、名士、そして勇将たちと共に一致団結して事に当たるべきで、各々が離散していてはそれもままなるまい、というのが彼の言い分である。
「うむ……また造反する者があってもなりませぬし」
 秦松のその言葉に委縮するように肩を竦めたのは、孫瑜、字を仲異だった。彼の兄であり、孫堅の末弟、孫静の息子である孫暠は、孫策の死に際して彼の麾下にあった軍勢を動かし、会稽郡を占領しようとした。それを諌め、弁舌で以て彼に兵を引き上げさせたのが当時富春県の長になっていた虞翻である。その後、孫暠は軍を退き故郷に戻ったが、孫瑜は孫権の要望もあって軍に留まり、恭義校尉として兵を預かった。
 あなたが気にするようなことではありません、と孫権は孫瑜を宥めるように言う。
「……だが、ここで人質を送らねば、曹司空は今度我々を敵と認める。そうだろう?」
「……その可能性もなきにしもあらず、というだけのことで……」
「いいえ、万が一にもお家が北の脅威に晒されるようなことがあれば――」
 評定の間はもはや乱雑を極めた。誰も彼も、孫権と同じように決め兼ねていた。
 孫権は一旦その場を散会させると、谷利と朱桓を伴い政務室に引っ込もうと立ち上がった。
「――殿」
 人のいなくなった室内に一人、跪き拱手する者があった。周瑜である。
「公瑾どの、そういうのはおやめくださいと何度も」
「いいえ、殿。今我々の上に立ち、我々を率いているのは孫討虜様、あなた様です。そのことをないがしろにどうして江東の地が一致団結などできましょう」
 周瑜の言に歯噛みする孫権とは裏腹に、彼の後ろに控える朱桓は誰に言うでもなく、ですよねえ、と大きく頷いている。
「……そ、それで、どうかされましたか。何か問題でも」
「ええ、今しがたまで評定の間を席巻しておりました問題について」
 その言葉に孫権の表情がしかめられる。何か妙案がございますか、と孫権が問うと、周瑜は首を振った。
「妙案というほどのものではございませぬ。ただ私から申し上げられるのは、人質を送ってはならぬということだけ」
「送ってはならぬ……ですか。私はただわがままに、送りたくないとしか考えられなかったのに」
 孫権は苦笑すると、周瑜を立たせ、連れ立って自身の私邸に戻った。母親である呉氏と共に、この問題について話し合う場を設けたかったがためである。
 孫権邸に入り、邸宅の奥に位置する正房の西耳房に入れば、賑やかに談笑する孫堅の二人の未亡人がいた。彼女らは孫権と並んで入って来た周瑜に気づくと、あら、と嬉しそうな笑みを浮かべた。
「周君! 久しぶりですね。策の葬儀のときはお会いできませんでしたから」
「はい。長らくお目にかかれず申し訳ありませんでした」
「姐様、私は茶の用意をしてまいりますわ」
「ごめんなさいね、よろしく」
 孫権と周瑜は呉夫人に促されて彼女らの坐っていた席の前に設えられたもうひとつの席に並んで着いた。その内、第二夫人が淹れたての茶を持ってきて彼らの目の前に置く。それを飲んで一息ついた二人を見た呉夫人は、どうかしたかしら、と首をかしげて問うた。
 孫権が事の次第を伝えると彼女は、それは困りましたね、と言った。
「ですが、私も保質は送らぬがよろしかろうと思います。送ってしまえばあなたや江東の皆様はもう、曹司空の一声であちらこちらへ動かされるだけの傀儡です」
 彼女の言葉に、周瑜も頷く。
「それは、我々江東の軍勢の本意ではない。あくまで我々が奉じるのは曹司空ではなく、“天子様”です」
 彼は、その面は孫権の方へ向けながらも、横目では呉夫人を見遣り、
「そして、討虜様。あなた様についているのは猛く勇敢なる毅魄を持った将士たちです。あなた様は彼らを従え、天地の趨勢をじっくりと見定められませ」
「こ、公瑾どの?」
「――どうぞ、我々を信じ、何も恐れないでください。あなた様の一声で、我ら一同烈火となりて、あなた様に仇成す敵を灰燼に帰すことさえ訳ありません」
 孫権は、開いた口が塞がらない。周瑜の言葉はまるで――
「権」
 意識の外から掛けられた言葉に、孫権は大げさに肩を震わせてそちらに顔を向けた。彼の母親がその秀麗な面につややかな笑みを浮かべて、もう一度、権、と息子の名を呼ぶ。
「周君と策とは、ずうっと仲が良くてご近所でも人気があって、誰もがその姿に胸を焦がすと言われたときは、私もとても誇らしゅうございました。すっかり私はあなた方の他にもう一人息子ができたような心地でいたものです」
 それは、孫権の脳裏に美しい二人の少年の姿を想起させ、周瑜の体内に在りし日の情熱を呼び起こした。
「周君の言うことならきっと大丈夫ですよ。この人は、あなたを導いてくださるもう一人の兄です」
 ――はい、と、孫権は頭が理解する前に返事をしていた。尊ぶべき二人の“家族”の言うことなら、きっと間違いはないと彼には思えたから。
 こうして結局、孫家から許へと保質が送られることはなかった。

 孫権邸の玄関前で臨時に邸宅の警護の任に就いていた谷利と朱桓は、夕刻になって中から出て来たのが周瑜一人だったことに首をかしげた。彼は笑って、君たちの今日の任務はこれで仕舞いだよ、と孫権の代わりに二人に伝える。
「わかりました。……あの、中護軍様」
 朱桓に恐る恐る声をかけられ、周瑜は気安い笑みのまま何かと問い返す。
「その……人質はどうなるんですか。送りませんよね?」
「ああ、そのことか。もちろん送らないよ」
 その返答を受けて、朱桓は、よかった、と安堵の表情を浮かべた。谷利の口許もささやかに笑む。二人の様子を見ていた周瑜は目を細め、君たちは、とぽつりと言った。
「きっと、ずっと討虜様のお傍にいるのだろうね」
「? ……はい」
 訝しげに頷く谷利と同意する朱桓に、ならばよいのだ、と周瑜は満足そうに頷いて二人に背を向ける。別れの挨拶の後に、彼はもう一度にっこりと笑って、
「頼りにしているからね」
と言い残して、足早に立ち去って行ってしまった。
 後に残され顔を見合わせるばかりの二人にその真意を悟られぬよう、努めて速く。