盛憲、字を孝章。かつて許貢に呉郡太守の任を追われ会稽で隠居していた彼が、密かに兵を集めているとの報が会稽郡の役所に入った。盛憲は、以前孫策と敵対し殺害された高岱、字を孔文とも旧知の中であり、また先に李術の叛乱があったことや、周辺の不服従民がこれに呼応して各地で蜂起する危険性を鑑み、孫権は早急に会稽郡役所に武装を整えさせると、盛憲の身柄を拘束して尋問するよう太守代行である顧雍に命じた。
 しかし、出頭した盛憲はほどなく心労が祟って獄死する。このとき、盛憲の食客であった嬀覧、戴員の二名が逃亡し山中に行方をくらましてしまった。孫権は彼らを捜索させたが、ついにその足取りを掴むことは叶わなかった。


 ◇


 建安八年、孫権の叔父である揚武将軍・呉景が丹楊太守在職のまま病を得て死去すると、ほどなく孫権の母であり呉景の姉でもある呉夫人も病気がちになり、床に臥せっている日が多くなった。
 孫権は目に見えて焦燥していた。亡父孫堅を殺し、亡兄孫策がついに討ち果たすことが叶わなかった黄祖はまだのうのうと生きているというのに、己の慈しむべき身内はかくも魂の光を弱々しくして今まさに死にに行こうとしている。
 孫権は黄祖討伐のための軍を編成することを周瑜に打診し、彼もそれに同意を返した。周瑜とても、復讐に燃える孫策の横顔をずっと見てきた。そして何よりも、彼ら自身の目的がその向こうにあった――これほどまで忌々しく、これほどまで愛おしい荊州。
「――しかし依然、揚州に潜む山越どもへの警戒も解いてはなりませぬ。幸い南部では賀公苗が建安郡まで進出し敵を牽制しております。会稽郡の各県も彼への支援を怠ってはおりませぬが……努々ご油断はなさりませぬよう」
「はい。公瑾どの……呉の守りを任せてもよろしいでしょうか。あなたがいれば呉の民は皆安寧の内に暮らせます」
 すがるような瞳の孫権に、周瑜はじっとその目を見返したが、やがてふっとため息をつくと苦笑交じりに頷いた。
「なるべく早くお戻りくださいませ。あなた様がいらっしゃらないと、呉の民が皆寂しがります」

 江夏遠征の軍隊を編成した孫権は出立前に呉夫人に引見すると、必ず黄祖の首を持って帰ります、とはっきりと口にした。呉夫人は悲痛な面持ちで、息子の手を握りしめて首を振る。
「そのような小さき者はもうどうでもよろしいのです。放っておけばどうせそのうち死ぬような老人に執着しないで、あなたはあなたの民を安んじてください」
「それなら大丈夫、周公瑾どのが残ってくださいますので。それに呉には朱君理どのもいらっしゃいます。会稽には東部どのや顧元歎どの、我が聡明なる友人、朱義封もおります。母上、私は、私の父を殺した男が天寿を全うすることを看過することはできません」
 すっかり細り皺の寄った母の手を取り、孫権はそっと額につけた。
「息子の武運を、どうぞお祈りください」
 泣き顔の母をチラとも見ないで孫権は立ち上がり、邸宅を辞去する。そうして彼は、西へと軍を動かした。

 途上、孫権は軍勢を程普に任せて先行させ、手勢五百人を従えて一度宛陵に立ち寄った。丹楊郡の郡治が置かれているこの地には今、孫翊の軍勢がいる。呉景の死後、丹楊郡に於ける孫家の治績を上げる目的で偏将軍に昇進させた孫翊をそのまま丹楊太守の後任に就けたのである。
「討虜様、ご武運をお祈りしております」
「ありがとう。翊はどうだ? 大変ではないか?」
 その問いに孫翊は少し言い淀んだが、難しいです、と口にした。
「叔父上の残した書類を検分したり地元の名士たちから話を聞くことから始めています。近く重臣として士大夫を招く予定でおりますので、討虜様のお手を煩わせるまでもないかと」
 孫翊の言葉に頷く孫権の横顔が、谷利にはどこか寂しそうに見える。孫翊は努めて厳しい表情を作り、疾く戦線へ急がれませ、と言った。
「あなた様の仇敵は私の仇敵。早く黄祖の首級を曲阿の墓に捧げましょう」
 その言葉に背中を押されるように、孫権は宛陵を後にした。


 ◇


 海昏県から出兵した太史慈の軍勢と合流した孫権軍はまず、彭蠡沢から江水を六十里遡ったところにある尋陽で黄祖軍と対峙した。陸戦で黄祖軍を散々に打ち破った孫権軍は、水上に逃れる敵軍に追撃をかける。
「遅れを取るなよ! 逃げを打つ敵に情け容赦など要らぬ!」
 その先鋒を務めるのは凌操である。鼓吹が激しく鳴らす陣太鼓の音に、鬨の声を上げた兵士たちは威勢よく船を漕ぎ出した。黄祖軍の殿軍から放たれる矢を楯で何とか避けながら、父の軍に連なる凌統は息遣いを荒くして目を凝らす。
 空気が乾き、様々な音が鮮明に耳に届く。矢が楯を貫き、船の縁に刺さり、或いは人の皮を破る音。敵軍の船の起こす波の音。太鼓の向こうに聴こえる声。これが戦争。
 三年前の皖城攻囲では戦闘らしい戦闘はほとんど行われず、ただ戦場の重苦しさ、人々の悲憤ばかりが幼かった凌統の全身を苛んだ。今、十五歳になった凌統が目にしているのは、敵味方の別なく死にに往く者たちの姿である。敵の船から落ちた兵士の血が川面を染めていく。本を読むのが好きだった士盛が死んだ。槍遣いなら誰にも負けないと豪語していた張憂が死んだ。己はいつ死ぬことになるだろう。
「統! 気を抜くな」
「っ、はい!」
 ガツン、と凌統の楯が矢を受けて激しく揺れる。歯を食いしばって耐えた彼は、楯と楯の隙から前方の“甘”の旗が翻る敵殿軍を睨みつけた。
 実戦経験の少ない凌統はその分たくさんの書物を読み漁った。殿軍のすべきことはただひとつ。その身を犠牲に、味方を生かして戦線を離脱させることだ――文字通りの死に物狂いで。そういう敵を相手にすることが一番難しい、と凌操は言う。殿軍も決して静止して追撃を受けているわけではない。
 敵殿軍から降ってくる矢の雨は未だに止まない。逃走する味方軍から手持ちの矢をすべて預けられているのかもしれない、と凌統の隣で楯を構えた成章が苦々しく言う。矢の尽きる瞬間を狙って耐えることは恐ろしく難しい。
 ――突如、辛抱を続けていた凌操の船団の頭上に、甲高い鉦鼓の音が響き渡った。それとほとんど同時に旗艦に一艘の小型船が横付けしてくる。何事だ、と怒鳴る凌操に小型船に乗った伝令兵が、転進にございます、と叫ぶように言った。
「転進!? なぜだ!」
「豫章郡、鄱陽郡の山岳地帯に於いて山越が見られたとの報が入りました! 呉、丹楊からの出兵では間に合わないため、我々が取って返して征伐するとの……討虜様ご自身のご意向です!!」
 伝令兵も必死になって凌操に訴える。凌操は、チクショウめ、と常ならず乱暴な物言いで拳で楯を叩きつけたが、すぐに、わかった、と伝令兵に返した。
「全軍、後退せよ! 追撃は中止だ!」
「しょ、承知いたしました!!」
 船団は進軍をやめ、旋回して次々に前線を離れていく。旗艦である凌操の乗る船は、すべての船が転回して東進するのを見届け、ようやく自身らも前線を離脱しようと船を旋回させた。
 なおも楯は構えたまま視界を巡らせる凌統の目に、黄祖軍の殿を務めていた船団のうち数艘が高速で旗艦に迫ってくるのが見える。
「将軍! 敵が追ってまいります!」
「矢を射て! 近づけさせるな!」
 一斉に矢を構えた凌統たちだったが、敵将の行動が数瞬早かった。敵船から弧を描いて飛んできた矢が、彼らの上に降り注ぐ。
 楯を構え直し振り返った凌統の目に、流れ矢に貫かれる凌操の姿が飛び込んできた。
「父上えーーーーっ!!!!」
 彼の悲鳴で、兵士たちは己の将軍が危機に陥ったことを知る。漕ぎ手たちは懸命に旋回を終え東に向けて全力で漕ぎ出した。
 敵軍は逃げる凌操軍の追撃をやめ、悠然と戦線を離れていく。崩れ落ちる父に駆け寄り必死に彼を抱き上げた凌統は、その体から熱が奪われていくのを感じながら、何度も何度も父の名を叫んだ。

 凌操戦死の報を受けた孫権は色を失い、目の前に立つ凌統をただ見つめた。
「…………、……公績……すまなかった」
 孫権はそっと彼を抱きしめる。本当にすまなかった、と繰り返す孫権に、凌統は何の言葉を返すこともできずに首を振るばかりである。
 三年前には孫権の胸元程もなかった凌統の身長は、既に彼の肩を超すまでに伸びている。それでも、息子を遺して往くには早すぎる父の死だった。

 凌操の軍勢を呉に帰還させた孫権軍は取って返して豫章郡南昌に入り、豫章太守である従兄の孫賁の下に拠ると、そのまま呂範を鄱陽に、程普を楽安に派遣し、太史慈を海昏に戻してそれぞれ山越の征伐に当たらせた。
 山越の抗戦は激しく、年が明けて建安九年になっても、豫章に駐屯している軍勢は呉に帰還することができずにいる。
 孫権は苛立っていた。南昌の邑内に設けた本陣で部将から前線の経過について報を受けるごとに、声を荒げて、努めて速やかに鎮圧されたし、と繰り返す。谷利と朱桓とは、彼が恙なく休眠をとり、また不必要な些事に振り回されることのないようにその周りを奔走した。
 孫権の心中は察するに余りある。しかし、その振る舞いには同時に彼の冷静さ――或いは冷徹さ――も垣間見ることができた。彼は迅速な鎮圧を望みながら、しかし山越に対しては“可能な限り捕虜とする”ことを部将たちに要求した。常に人口不足に悩まされている揚州にとって、南部山岳地帯の擁する民衆はのどから手が出るほどほしい人的資源である。

 ほどなく、海昏県周辺の山越は降伏したとの報が太史慈よりもたらされる。しかし、よかった、と安堵の息を吐いて小さく笑う孫権の元に、立て続けに伝令兵が飛び込んできた。その必死の形相に事の重大さを感じ取った孫権はすぐに笑みを引っ込め、どうした、と強張った声で尋ねた。
 兵士はひどく怯えたような表情をしながらも、どうにか絞り出したような声で言葉を発する。

「た、丹楊郡に於いて、弟君、孫将軍、そして盧江太守、孫威寇様が、さ、殺害されました……!」

 床几を蹴倒して孫権が立ち上がる。
 まことか、と問う声はか細く、震えていた。
 その場に同席した面々は二の句が継げなかった。あまりにも唐突な、あまりにも予測できない孫翊と孫河の死。

「……伯陽どの」
 孫権は、彼の隣で青ざめている孫賁の名を呼んだ。
「……なんだ」
「私は手勢千人を率いて丹楊郡へ戻ります。呂子衡どのには事が済み次第捕虜と共に呉郡にお帰りいただき、程公には太史子義どのと共に海昏の守備に当たるようお伝えください」
 その言葉に、孫賁は少しだけ間を置いて、わかった、と頷いた。
「決して、無理はすまいぞ」
「重々承知しております。――利、休穆どの」
 谷利と朱桓はすぐさま立ち上がる。大股で歩き出す孫権に従って、彼らは一路宛陵へと向かった。


 ◇


「――朔どの」
 名を呼ばれ、徐朔――徐氏はおもむろに振り返った。夫である孫翊が歩み寄って来、その傍に膝をつくのに小首をかしげて微笑み、いかがなさいましたか、と彼女は問う。
「どうしてもなりませんか」
「わたくしからは何とも……」
 徐氏は困ったように首を振る。
 建安八年、冬十二月も半ばを過ぎた頃、年末の挨拶と新しく丹楊郡太守に就任した孫翊への祝いも兼ねて、丹楊郡十六県の令や長たちが揃って宛陵県を訪れていた。彼らを迎える宴席を設ける際に、折角だからと卜占に通じている徐氏に事の成り行きを占わせたところ、彼女はどうしても凶事にしかならぬ、と孫翊に伝えた。
「ですが、もう来ていただいて暫く経ちます。あまり長く留めてもおれませぬし」
「それはそうなのですが……では、決して身を守るものを手放さないでくださいませ」
 不安げに己の腕にそっと触れた彼女に孫翊は笑いかける。
「いつもそうしているではありませんか。それに、頼もしいあなたの弟御もついているのですから」
 徐氏は、孫翊の友人、徐元の三つ年上の姉である。かつて孫策によって孫翊と徐元が引き合わされたとき、孫翊は姉である徐氏にも目通りしていた。以来、徐元を通して二人は仲を深め、ついに夫婦となったのである。
 二人の婚約を最も祝福したのは徐元であり、その彼の様子に心を喜ばせたのはほかでもない孫翊と徐氏であった。
 弟を心底から信頼してくれている夫に、徐氏は何度も頷き、しかし一抹の不安は拭えぬまま、どうぞお気をつけて、と言葉を重ねる。
「元はおれど、孫君や傅君はお出かけになられているのですから、努々お慎みくださいませね」
「ええ、もちろんです」
 孫翊は頷き、奥の室を後にした。

 翌日は朝から冷えていた。
 申の刻から始まった宴会は盛会裏に終了し、酒に酔った孫翊は気分よく客人たちを見送る。はあ、と吐いた息はこの季節にしては白く、そろりと闇に溶けていった。
「よかったですね、叔弼様!」
 彼の斜め後ろに控えていた徐元の明るい声に孫翊は彼を顧み、そうだな、と笑った。
「孫威寇様は明日のご到着でしたっけ」
「ああ。先んじて公崇から書簡が届いている」
 孫高と傅嬰の二人には、かつて彼らが孫河の麾下にいたよしみから彼を石城まで出迎える役に就いてもらった。早ければ明日の昼前には孫河が宛陵に到着し、会見も兼ねて郡太守の振る舞いなどについての指導をもらう予定でいる。
「戻ろう、令功」
「んふふ……はい!」
 少し足元がおぼつかない孫翊に徐元は肩を差し出す。ありがとう、と腕を回した孫翊に小さく声をかけられた徐元は首を振り、ふと目線を上げた。宴の始末をしているはずの政庁が妙にしんと静まり返り、その玄関に立っている二人の男の影がじっとこちらを見つめている。
 ――彼らは……

 どすん。

 重い音がして、急に肩にもたれていた孫翊が崩れ落ちた。思わず徐元もその動きに反応できずに膝を折る。

 どすん。

 もう一度音がした。あ、と隣に倒れ込んだ孫翊が小さな声を上げる。徐元が何とかその腕を掬って起き上がり、孫翊を抱えると、その背中から大量の血があふれて流れ落ちた。
 そうして、背中を支える徐元の手や膝までもが赤く染まっていく。
「え――」
 孫翊の見開かれたままの目が意思もなく中空を見つめている。叔弼様、とぽつりと声を落とした徐元の視界に、一人の男の足が映り込む。
 見上げると、孫翊の側近“だった”男が彼らを見下ろし――徐元に向かって、だめだよ、と口にした。
「元。そんな汚らしい男からは離れなさい」
 さあ、と伸ばされた彼の手のひらにべったりとこびりついた赤黒い色を見て、
 徐元は絶叫した。


 ◇


 辺鴻は字を文寛といい、元は涼州、隴西郡襄武県の出身である。まだ幼い頃に戦乱で父を失い、また故郷で大規模に発生した羌族の叛乱を避けて、母方の親戚を頼って遥々揚州は丹楊郡宛陵県まで居を移した。
 母は持ち前の度胸と明るさですぐに近隣に馴染んだが、息子の辺鴻は言葉もほとんど通じない恐ろしさと揚州人の粗野な気質に尻込みし、また引っ込み思案な性格も災いして友人を作ることもできずに、五年近くを孤独に過ごした。
 南部の山岳地帯には“山越”と揚州人たちが呼び恐れる異民族が暮らしていたが、辺鴻にとってはさほど恐ろしくはなかった。羌族や氐族のような遊牧民、また鮮卑族や胡族のような騎馬民族、さらには砂漠を越えて西からやってくる異国の民のような多種多様な人に出会う機会の多い土地で育った辺鴻には、彼らもまた山野を馳せる中に人の営みを見出す隣人なのであろうと思えた。しかし、北の戦乱に対してはそうはいかなかった。

 初平四年当時、周昕、字を大明が太守を務めていた丹楊郡に、袁術の手先である軍勢が大挙して押し寄せてきた。周昕は博学で占いにも通じ、都で優秀な治績を残したことから丹楊太守に抜擢された英明な人であった。彼は兵士たちに宛陵の守備を固めさせ袁術の軍勢の攻撃によく耐えたが、なかなか落城せぬ状況を見て取った攻囲軍は、周昕に与した民衆はことごとく死刑に処する、との警告を発した。宛陵の住民の誰もが恐れおののくなか、周昕はついに軍を解散させて宛陵を明け渡し、自身は故郷である会稽へと去ってしまう。
 そうして、新たに丹楊太守についたのは“侵略者”である呉景だった。彼は攻囲時の苛烈さが嘘のように寛大な施しを丹楊郡に対して行ったが、同時に多くの戦火を丹楊郡に呼び込んだ。その最たるものが孫策の軍勢である。
 彼は引き連れて来た手勢の他に宛陵で数百人の兵士を募り、丹楊郡西部の涇県に於いて当地の首長であった祖郎の征伐に向かったが、返り討ちに遭いそのほとんどの兵を失った。結局そのときは孫策は一度北へと立ち戻るのであるが、再び丹楊を訪れたとき、彼はひとつの家族を伴っていた。
 家族は辺鴻の家の隣家に入った。好奇心旺盛でおせっかい焼きの母がきょろきょろと家族の様子を伺うのを辺鴻は恥ずかしく思っていたが、いよいよ彼女が家を飛び出して行ったのを追いかけて隣家に向かい、そこで彼は――彼にとって――運命的な出会いを果たす。
「お騒がせしてごめんなさい。至らない面もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
 徐と申します、と頭を下げる夫人に倣い、子供たちもぺこりと辺鴻と母にお辞儀をする。辺鴻より少し歳が下くらいの一女と、その彼女よりももう少し幼く、未だ齢十ばかりになった頃かという一男である。姉弟はそれぞれ名を、朔、そして元と言った。
「いいえ、お気になさらないで。あたしも騒がしいから、ご迷惑だったら仰ってね。先だっていらしてたのはお若い将軍に見えたけれど、彼が旦那様?」
 辺鴻は母のこういうところが嫌いだった。
 しかし徐夫人は気にした風でもなく、違います、と笑いながら応える。
「孫将軍は亡き主人のご主君です。少し前に将軍を守った傷のために死んでしまったのですが、遺された私たちを将軍が憐れんでくださって、こちらの居宅をいただきましたのです」
「そうだったの……」
 辺鴻の母は、徐夫人の腕にそっと触れる。
「聞いてしまってごめんなさいね。あたしたちも……という言い方も変だけれど、主人は亡くしてしまってるの。でも大丈夫よ、宛陵の人たちは優しいから。助け合っていきましょ」
「……ありがとうございます」
 徐夫人は目元に涙を浮かべて、それでも微笑みながら謝意を口にした。

 そうして辺鴻の母と徐夫人とは互いに家を行き来し合う仲になった。どうやら徐朔も彼女らに混じって茶飲み話をしているらしく、自宅に引きこもる辺鴻のところには徐元がよく顔を見せた。年端もいかない子供とはいえ、女所帯に混じっているのが気恥ずかしかったのだろう。
 徐元は人懐っこく、本を読む辺鴻の傍に寄って来てはぴたりとくっついて覗き込んできたりした。最初の頃はすげなく対応していた辺鴻もやがて、随分歳の離れた彼と打ち解けていく。膝に乗せてやり本の内容を読み上げてやると、徐元はとても喜んでくれた。時々外に遊びに行きたがる彼につられて共に近所を散歩したり、話を聞いてやったりするのが辺鴻には楽しく感じられるようになっていた。
 そうしていつしか辺鴻の心には、彼をかわいらしい、愛おしいと思う気持ちが芽生えていた。繋ぐ手のふくよかさや、膝に抱き上げたときに触れる髪の毛のすべらかさ、香ってくるにおいに、気分が高揚するのがわかる。声変わり前の高い声に己の名を呼ばれると、たまらない気持ちになった。
 一度だけ魔がさして、昼寝する彼の素足にそっと触れてみたことがある。さらりとした感触とやわらかさに得も言われぬ心地がした。くすぐったそうに身をよじる彼にかかる影が子供の稚い色気を助長しているように辺鴻には感じられた。

 十九歳になった辺鴻は、丹楊郡での募兵に応じて孫策の牛渚攻めの行軍に連なった。気をつけてくださいね、と辺鴻に言う徐元の身長は伸び、すっかり声も低くなっていたが、変わらず辺鴻には彼が愛おしいままだ。
 牛渚攻めでは辺鴻も一人斬り殺した。彼はそのまま丹楊郡の政庁の衛士として配属になる。休沐で帰省するたび、徐元は兵営でのことや戦争の話を聞きたがった。辺鴻の話に耳をかたむけ、時に大げさに驚いてみたり、時に悲痛に顔をゆがめたりする表情豊かな彼は見ていて飽きない。
「早く俺も軍に入りたいなあ」
 最後にはいつも羨ましそうにそう言う徐元に、辺鴻は曖昧に笑いながら、内心では、絶対に嫌だ、と思っていた。
 こうして己の話ばかりで形作られた彼をこそ、己は守ってやらねばならないのだと考えていたから。

 辺鴻の望みも空しく、十五歳になった徐元は孫策の軍に連なるために単身呉郡に出て行った。宛陵県に残っている辺鴻とは離れ離れになってしまう。
 きっと強くなってきます、と彼は笑って手を振った。

 次に宛陵の実家に彼が戻ってきたとき、その隣には見知らぬ少年がいた。どことなく、かつて見た若かりし孫策の風情をその面影に残す――孫翊、字を叔弼。当時はまだ彼の名は孫儼と言った。
 徐元と孫儼とはとても仲が良さそうに、また辺鴻の目には距離も近く感じられた。それは昔からの徐元のくせであったかも知れないが、何か小さな声で顔を寄せて笑い合う二人の姿を見たときには、辺鴻は思わず握り拳を作ってしまったほどである。
 孫儼はまた、徐元の姉である徐朔と親しい間柄となっていた。姉弟の母親である徐夫人、またいささか軽薄なところのある辺鴻の母も孫儼に対して好意的に接していることが、辺鴻には苛立たしく思われた。何より、徐元はすっかり彼の傍について離れなくなってしまっていた。一度休沐の日が重なって彼らと――休沐のたびに彼らは連れ立って丹楊の徐家を訪れているらしかった――見えたときは、軽い挨拶を交わす程度で旧交を温めることもなかった。
 己が、己の愛おしく思う者にとって取るに足らない人物だと思い知らされたときの絶望は、言葉には代えがたい。辺鴻は、孫儼を恨めしく思い始めていた。

 それからも丹楊郡太守はたびたび代わったが、袁術が皇帝を僭称するようになると孫策は長江の津を封鎖して袁術との交流を断ち、袁術によって独自に広陵太守に任じられていた呉景も丹楊郡に帰還した。その後、漢室の議郎である王誧の上表により彼は揚武将軍の官職を賜り、また正式に丹楊太守としての任務を遂行していくことになった。
 その頃にはもう徐元は孫策軍の麾下兵として組み入れられ、宛陵に帰省することも滅多にしなくなっていたため、辺鴻には彼の近況など知りようはずもなく、自然と思い返すことも少なくなっていた。
 ――いつまでも仄暗い恋情を引きずっているわけにもいかない。幸い、顔の広い母が彼女の知り合いの家の娘との婚姻を繕ってくれることとなった。内気なお前に似合いの明るい子だよ、と笑いながら告げられ、しかし辺鴻の脳裏をよぎる影は一人しかいない。そういう汚らしいもの――自然と彼は己の恋情をそう形容していた――もすべて捨てて、新しい景色を見よう、と彼が心に決めた矢先のことである。
 丹楊太守・呉景が病没し、孫翊と名を変えた青年が、彼の親友を伴い宛陵県の政庁に赴任してきたのは。

 孫翊は、徐元の隣人でもあり彼としても知り合いであった辺鴻を側近の一人として任命した。また、かつて孝廉にも推挙され呉郡太守の下で治績があったという評判を伝え聞いた二人の士大夫を招き寄せ、兵士の指揮権を持つ大都督、そして太守補佐である郡丞に任じた。彼らはそれぞれ名を、嬀覧、そして戴員と言った。
 己はまだ未熟だからどうかよく補佐をしてほしい、と言う孫翊に、嬀覧と戴員とは頼もしく頷いた。その通り、嬀覧は太守麾下の軍勢をよく統率し、彼ら一人ひとりに丁寧に接し、積極的に褒めることで、兵士たちの心を掴むのにさほど時を要さなかった。戴員は郡治に於いて決済されるほとんどの政務に目を通し、彼に聞けば知らぬことは何もないと郡官吏たちが頼るほど働いた。そんな彼らに対し孫翊は心からありがたく思っているようだった。
 辺鴻は徐元と共に孫翊の側仕えとしての役務を全うした。しばしば徐元はわからないことがあると昔のように辺鴻を頼ってくれるようになったものの、その相変わらずの距離の近さに、忘れようとしたはずの恋慕が心底にくすぶるのを辺鴻は感じていた。
 孫策の麾下で鍛えられたのだろう、その体には傷も増えたというのに、徐元はずっときれいなままだ。
 辺鴻は喜びに胸がいっぱいになる。もう一度、やり直せるかもしれない。今度は違うやり方で――“新しい”形で。

 だがあるとき、離れにある書庫で一人、書簡を整理していた辺鴻の傍に郡丞の戴員が歩み寄って来た。首をかしげる彼に、戴員はそっと耳打ちをする。
「なあ、お前は、気づいていたか?」
「はあ……何をでしょうか」
 眉をひそめる戴員は、孫将軍と徐令功だよ、と言う。辺鴻は体を引いた。今更彼らが何だと言うのだろう。
「お前、徐令功のことをずっと見てるだろう、あんまり言いたくないんだが、お前は“いい奴”だから、傷ついても敵わんと思って」
「な、なぜ、それを」
 動揺して書簡を取り落とす辺鴻に戴員は、見てればわかるよ、と笑った。
「き、気のせいです。それで彼らが、どうしたと言うのです」
「――こないだ、見ちまったんだよ。あいつらが、誰もいない政務室で目合ってるのを」
 は、と辺鴻の口から息が漏れた。ぽかんとする彼に、戴員は首を振って続ける。
「若いからかね、怖いものなしは恐ろしいもんだ。徐令功のことは忘れた方が身のためだぜ。それよりあいつらにそれとなく注意してくれんかね」
「い、いい加減なことを仰らないでください!」
 心臓が早鐘を打ち、息を乱しながら辺鴻は怒鳴るように言った。戴員が口の端をニヤリと上げるのを彼はどう見て取ったのか、もう一度、いい加減なことを言うな、と繰り返す。
「元は、そんな、汚らしいものではない。いつまでも美しく純白のものだ。なぜそんな嘘をつくのです」
「嘘かどうか、確かめてみたらいいじゃないか」
「私は信じません!」
 御免、と辺鴻は足音を立てて書庫を後にした。
 頭に血がのぼっているのが自分でもわかる。なぜ彼がそのようなことをしたのかは判然としないが、戴員の発した淫らな“嘘”は、例え虚実だとしても辺鴻の中に波を立たせた。
 大股で政庁に戻った辺鴻の目に、回廊の向こうを並んで横切る孫翊と徐元の姿が飛び込んでくる。徐元が孫翊の袖を引いて中庭の方を指さし、それに対して孫翊が何かを言い、笑い合う二人。彼らはそのまま政務室に入って行き、ぱたりと扉が閉ざされる。
 いつも通りの風景のはずだった。

 夢の中で、辺鴻は見慣れた政務室にいる。そこには書簡の散らかった文机の上にしどけなく肌を露出して横たわる徐元も共にいる。彼は手を伸ばし、辺鴻の腕を引いた。導かれるがまま彼の上に覆い被さると、徐元はいつもの人懐っこい笑みを浮かべて辺鴻の名を呼んだ。
 着物の裾から伸びている素足は、あの日、昼下がりの微睡みで触れたときの感触のままだった。やわらかく、すべらかで、その肌の白さが政務室の窓から射すおぼろげな光を湛えて輝いている。
 もっと触ってください、と彼は言う。それに応えるために辺鴻は徐元の体を掻き抱いた。ああ、と彼の熱い息が耳元にかかる。首に筋肉質な彼の腕を回されて、辺鴻は心臓をばくばくと高鳴らせた。
 望むままに、お前の望むままに。辺鴻は何度もそう叫んだ。あの子供の、あの少年の、あの青年の望むままに。嬉しい、と微笑む徐元の口許に吸い寄せられるように己の唇を近づける。
 ――彼は、悲鳴を上げて飛び起きた。

 建安八年、冬十二月も半ばを過ぎた頃、年末の挨拶と新しく丹楊郡太守に就任した孫翊への祝いも兼ねて、丹楊郡十六県の令や長たちが揃って宛陵県を訪れていた。
 宴会は恙なく散会となり、孫翊はしたたか酒に酔いながらも、夜気が体に障る中をずっと立って客人たちを見送っていた。明日には盧江太守であり彼の縁者でもある孫河がこの宛陵を訪れ、二人は会見を持つ予定である。
 今、孫翊の兄である討虜将軍、孫権が彼らの父の仇である黄祖を討つために西へと出兵している。黄祖の首は、彼ら兄弟の悲願であった。そうして宿願が果たされれば、いよいよもって孫家は一致団結して亡兄孫策の事業を継いで江南一帯を平定する戦へと乗り出すことができるのだと――

 ――言っていたのは、誰だっただろう。
 もはや己には何もわからない。

 立ち止まったままの辺鴻には気づかないまま、足取りの覚束ない孫翊に肩を差し出す徐元。その肩に気安く腕を回し、何事か孫翊が彼に声をかける。顔を寄せて二人は笑い合った。
 彼らの吐いた白い息がふと中空に立ち上り、混じり合って闇に溶ける。

 その光景を見たときには辺鴻はもう、剣を振り上げていた。