建安十年、山越の叛乱は留まるところを知らない。会稽郡南部の山岳地帯に跋扈する不服従民を討伐し、その周辺の県の行政を再編し、まんまと自隊の兵数も増やして揚々と会稽に帰還した賀斉、字を公苗は、僅かの休息の後、またしても会稽郡より遥か千里も南にある上饒県へ出兵することとなってしまった。先の戦役よりは百里も呉に近いからいいですよ、と無茶な笑いを取りながらも嫌な顔ひとつせず出かけていく彼に、孫権は頭が上がらない。
「彼は本当にいい将ですね」
 しみじみと言うのは陸議、字を伯言である。建安八年に孫権の下に出仕した彼は、まず西曹令史として討虜将軍府の事務一般の仕事を担った後、今年に入ってからは東曹令史として軍事に携わっている。
 不思議と孫権と陸議とは気が合うようで、時々彼らの話は谷利には理解できない方向へ進んで止める者が誰もいなくなることもある。何がおかしいのか不思議なところで二人して大笑いしては張昭に――或いは陸議と同族である陸績に――きつく注意されることもしばしばだ。
 朱桓がいれば、止めたか、或いは己もひょいと乗ったか――彼は、この春から会稽郡余姚県の長として当地に赴いている。その頃、当地には疫病とそれに伴う飢餓が蔓延しており、前の県長もついに病に倒れ職務が遂行できなくなったとの報があった折、後任に誰をつけるか悩んでいた孫権に朱桓が自ら名乗り出たのである。県長なら俺もなれませんか、などとうそぶいて。
 もちろん孫権は雇主として彼の働きを側近くで見てきて、呉郡朱家の出身者として彼をこのまま側仕えにしてはおけないとは思っていたから二つ返事で了承したのだが、朱桓はそれに対してひとつ注文をつけた。
「俺はきっとこれからどんどん治績を上げて立派な将になります。将ですよ、官吏じゃない。そしてそれは家のためとか名誉のためとかじゃない。ただ我が君、あなた様のためだけです。それをどうか肝にお銘じいただいて、俺のことを評するときは俺のしたことだけを第一に見てください」
 よろしいですね、と主公に向かってなんとも不遜な物言いである。案の定張昭はその態度を咎め、他の多くの者たちも彼に冷たい目線を向けたが、当の孫権は、もちろんです、と笑ってそれを約束した。
 現在、会稽郡の諸県には賀斉への援助を言いつけている。余姚県の疫病と飢餓とはようやく小康状態となり、復興に向けて対策を始めたとの連絡が入っているが、余裕が出れば賀斉への助勢にも努める、との文が添えられてあった。
 朱桓はこれからどんどん治績を重ねて昇進していくのだろう、と谷利は思う。それは彼なりのやり方で孫権を、孫権の国を守るために。
 朱桓は谷利に、あとはよろしくな、と言った。谷利は頷き返した。
 谷利にも、たくさんの人から託されたものがある。

 丹楊郡の西、鄱陽郡でも賊徒の彭虎が蜂起し、その規模が数万人に上るであろうという報告を受け、こちらには董襲、凌統、蒋欽、そして監軍として歩騭が出陣している。しかし、なかでも董襲の勇名は江南地域にまで広く轟いており、また賊軍を構成するほとんどが寄せ集めの兵であったこともあり、十日ほどで賊は降伏したとの連絡が入った。その捕虜は兵として呉県で改めて練兵しその経過を見て各軍に振り分けたいとは、新たに呉県の丞となった呂岱、字を定公の上奏である。もちろん孫権は了承した。このところ彼は呂岱の見識が堂に入っているのや、風貌が立派であるのが気に入りのようで、彼を幕府に招聘したいと呉郡太守である朱治に願い出たばかりである。

 うらやましいなあ、とぽつりと陸議が呟いた。人手が足りなくて自ら呉郡太守府への書簡を届ける道すがら、その手伝いとして同行した谷利だけがそれを聞いた。
「何がですか?」
「兵を率いて戦える人たちがさ。利君は自分も兵を率いて戦いたいとは思わない?」
 谷利と己がほとんど歳が同じであると知った陸議は、以来気安い口調で谷利に接するようになった。
 首をかしげる谷利に陸議は、うーんそっかー、と相槌のような言葉を発する。
「利君はそっか。そうだよな。俺はね、ちょっと違うんだよね」
「どんなふうに?」
「我が君の兵を一等格好良く使いこなしたい」
 ぐっと握りこぶしを作って眉をきりっとさせる彼に、谷利は思わず噴き出した。それを見た陸議も、あはは、と笑い声をあげる。
「いやー、ちょっと様子見しようと思ってたら結構出遅れてちゃってるもんな。凌公績なんか俺よりずっと歳下なのに、もう一人前の将だろう」
「彼は十一、二歳の頃より亡きお父君の軍に兵として参加しておりましたから。彼のほうが特別なのだと思いますよ」
 谷利が言うのに、そんならいいんだけど、と陸議は大きく首をひねる。
 出仕してくるまで何をしていたのか、と雑談の合間に孫権に問われたとき陸議は、本を読んでいた、と答えた。主に兵法書である、と。孫子や呉子、六韜や司馬法、尉繚子。せっかくなので淮南子や国語、礼記や左伝、詩経や論語なども。塩鉄論の四巻も手に入れたので読んでみたが他の巻も早く読みたい、とも。谷利には陸議が何を言っているのかほとんど理解できなかったが、お前はすごいなあ、と感心する孫権に陸議も気をよくしたのか、それから二人はよく軍事や政について語り合うようになった。その対話を横で聞いているおかげで、谷利も少しばかりは兵事について詳しくなったように思う。
 あとは己に動かせる兵があれば、と陸議はこっそり谷利に語った。
「今のまんまじゃ頭でっかちだからさ。そんなんやだよ、俺」
 陸議は、頭の中に拡げた壮大な地図と、対する己の身のままならなさに、煩悶している。

 ――秋になって少しした頃、上饒県に出ていた賀斉から会稽郡の役所を通じて、無事平定できる目途が立った旨の報告が届いた。
 それを聞いた陸議はいよいよ己も何事か成さねばならぬと孫権に申し出、呉郡の南東、海沿いにある海昌県で屯田を務める傍ら統治にも当たることとなる。


 ◇


 それからひと月ほど経ったとき、劉表麾下にあった一人の将が手勢数百人余りを連れて呉郡の討虜将軍府に出頭してきた。そのとき孫権は張昭を伴って会稽に賀斉を労いに出ていたから、彼に応対したのは残っていた中護軍の周瑜、そしてちょうど周瑜に兵事について相談に来ていた平北都尉の呂蒙の二人である。武官である彼らが名代として対応に当たったことは、出頭してきた将にとっても、或いは孫権にとっても僥倖であったと言えるかもしれない。
 将は名を甘寧、字を興覇といった。

「――まずはわかりました。興覇どのを殿に推挙いたしましょう」
 子明もいいね、と周瑜に尋ねられ、呂蒙はひとつ頷いた。文事を重んじる劉表の下にあって、武将甘寧の名は江東の地にも聞こえていた。近くは、凌統の父、凌操を射殺し黄祖を易々と帰還させた殿軍の将として。
「ですが、殿がご承服なさるかは別の話です。それを重々ご承知くださいませ」
「ああ、もちろん。ありがとうよ、これで俺も俺の愛しい兵たちも報われそうだ」
 皺が寄り始めた目じりをきゅっと細めて甘寧は笑う。彼の言葉に、呂蒙は首をかしげた。
「あなたほどの部将、重用せずにはおれぬでしょう」
 甘寧はにんまりと笑う。
「お前さんは根っから武人だな。劉景升はそうじゃない。卓の上にはかりごとを巡らして、指先で人を動かし、言葉で人を操る。荊州は良いところだ。北は漢水、南は長江に囲まれた山に近い土地は戦火がさほど及ばない。そこにただ坐して政をしていれば戦嫌いの人民や名士のほうから懐に飛び込んでくる寸法さ。笑みを浮かべ香を焚いて楽を奏で、まったき儒者のふりをしていられる」
 呂蒙は脳裏に、己の見知った政治家たちを思い浮かべる。例えば、彼に向かって蛮勇だなどと罵倒した魯粛など。
 しかし、甘寧の次の言葉に彼は目を丸くした。
「俺もまあちょっとは本も読んだがな。こういうのはどちらかひとつってわけにはいかんのだろうとは思うよ。俺は結局武事を選んだが」
「…………」
「同意しますよ、興覇どの。殿があなた様をお認めくださるよう、我々も言葉を尽くしましょう」
 にっこりと微笑んだ周瑜が言い、頼むよ、と甘寧が頷いて、その場は散会となった。

 五日後、呉郡に帰ってきた孫権はまず、周瑜・呂蒙連名の推挙文を受け取り、口を引き結びながらそれを読んだ。
「……なるほど、わかりました」
「お目通りをお許しくださいますか?」
 周瑜が尋ねるのに、孫権は首肯する。むしろ、周瑜が自ら推挙する者に対して否やを唱えることはあり得なかった。
 政堂の正庁へ甘寧を招き入れた孫権と、推挙した当人である周瑜、呂蒙と、張昭、そして呂範も共に坐して甘寧を引見した。
「甘興覇どの。よくぞこの呉郡においでくださいました」
「こちらこそ、敵軍の将をよくぞお迎えくださいました。やはり懐の大きいお方だ」
 感慨深げに言う甘寧に、孫権は過日の呂蒙と同じように首をかしげる。
「甘興覇どのの武名は私も聞き知っております。劉景升どのには判断を誤られたと言うよりないでしょう。あなたの兵営と邸宅をすぐに用意させます。討虜将軍府はあなたを歓迎いたします」
 ありがとうございます、と甘寧は床に手をついて深く礼をする。お顔を上げてください、と言った孫権は、申し訳なさそうな表情を作った。
「ひとつご承知いただきたいことがあります」
「なんなりと」
「私の麾下に、あなたの軍に身内を殺された者が少なからずいます」
 その言葉に、甘寧はぱちりと瞬く。
「どうかそれだけは、お忘れのなきよう。私も目を光らせてはおりますが、行き届かぬのが現状です」
 同席した面々も一様に口を噤み、ただ周瑜だけは静かに甘寧を見つめた。孫権の表情をじっと見ている彼は、やがてにこりと破顔する。
「相わかりました。昨日まで干戈を交えていたような間柄ですから、元より承知で参っております。ご心配なく、俺は強いですから、己が身は己で守ります。あなた様のお手を煩わせるまでもございませんよ」
 大きな身振りで甘寧は言う。
「では、俺からもひとつ。俺はあなた様の力になりますよ。必ずです。それを俺の矜持としてどうか覚えておいてください」
 甘寧は胸の前で力強く拱手し、拳をぐっと突き出すようにした。
「甘興覇、今より孫討虜様に忠誠を誓います。ご用向きの際はなんなりとお達しください」

 甘寧、そして周瑜を始めとした重臣たちが辞去した正庁で、孫権はじっと坐って何か考える素振りをしている。谷利は彼が動かなければ己も動けないから、どこか無防備な様子の彼の周りに注意を払うことしかできない。
「…………利よ」
「はい」
 不意に声をかけられ、谷利は僅かに強張って返答する。
「公瑾どのは何をお考えなのだろう」
 硬い声だった。
「私を何にするつもりなのだろう……」
「…………何、とは」
 答える谷利に、孫権は体ごと振り返って身を寄せ、ぐっと声をひそめる。
「甘興覇どのが“お持ちのもの”、今はそれが何かはわからないが、あれは私が預かっていいものだろうか」
「彼はあなた様に忠誠を誓われました。預かってよい、ではなく、もはや預かるべき、と言うよりないかと」
 谷利の言葉に孫権はふと口元に手を当てて眉根を寄せた。谷利は、彼が言葉を発するのを待つ。
 私は、と孫権はごくごく小さな声で言う。
「父の仇を討ち、兄から引き継いだ江東を安んじていられればと思っていたんだ、けれど……」
 公瑾どのが見ているものはずっと向こうにある気がする。何か恐ろしいものを見てしまったかのような、少し怯えを含ませて孫権は口にした。
「先頃私が黄祖の討伐に失敗してしまったとき、彼はなんと思っただろう。翊と伯海どのが殺されてしまったとき――だが、仲異どのや、伯海どのの甥御の公礼が頼もしく見えたとき、諸将が己のなすべきことをきちんと見据えているとき、彼は一体なんと思っていたのだ? ……なぜ、自ら興覇どのを推挙されたのだ?」
 谷利はそっと孫権の膝に手を置いた。彼は目を見開いて谷利を見返す。
 ご安心ください、と谷利は言った。努めてはっきりと、強い声で。孫権にきちんとその意味を伝えるために。
「そういえば、魯子敬様を連れていらしたのも中護軍様でしたね。彼も威風堂々として、その物言いであなた様を恐慌させました」
 その言葉に、孫権は小さく頷く。
「甘興覇様も、今は恐ろしく見えるかもしれません。ですがそれはあなた様が彼の去就に迷っているからです。まるで彼は触れれば傷を受けるやもしれぬ刃のような人です。けれども、将とは主君のために主君の兵を預かって身命を賭して戦う者のこと。武事であれ文事であれ、誰しもが主君のために戦い、自ら血を流すのです」
 孫権の手を取った谷利は、静かに続けた。
「それでも、もしも何も信じられなくなって、あらゆるすべてが敵に見えても、どうか恐れないでください。私がいます。いつ何時も私はあなた様の味方です」
 そう口にしたとき、谷利は己の頭の後ろに視線を感じた。それは今はここにいない、谷利に孫権のことを託した多くの者たちのもの。覚えず、谷利は笑ってしまう。まるで彼らを出し抜いて、己だけが孫権のものであるかのように振る舞ってしまったのだから。
「……利?」
 孫権が、急に笑った谷利を少し驚いたような表情で見た。谷利は首を振る。
「いえ、こんなこと、朱義封どのや休穆どの、幼平どのや公奕どの……たくさんの人に、咎められてしまうような気がして」
「? そのようなことは……なぜ彼らがお前を咎めるのだ?」
「私が不出来だからです」
 そんなことはない、と即答で谷利の言を否定する孫権に、谷利は腹の底から嬉しさがこみ上げてきてまた笑った。
 そして――周瑜のことを思い出した。彼だって、かつて宴席で己に孫権のことを託したのだ。谷利はあの言葉が嘘だとは思わない。
 確かに、周瑜の思惑は孫権の思索の及ばない遥か遠くにあるのだろう。周瑜には見えて、孫権には見えないものがある。谷利が見ているものが、同じように孫権には見えないように。
「利よ、お前はよくやっている。己をけなしめるな、誰もお前のことを咎めはしない」
「……僭越ながら、同じ言葉を返させていただいてもよろしいでしょうか」
 孫権は目を丸くした。そうして、ふふ、と口元をもごもごさせて笑いだす。
「…………ありがとう、利。どうしてお前はいつも、私のほしい言葉をくれるんだろう」
 その答えは先に既に谷利は言ってしまっていたから、もはや何を言うこともなくただ微笑んで頷いた。孫権はそうっと、谷利を抱き寄せる。もう一度彼はありがとうと言って、ゆっくりと離れるとぱしんと己の膝を叩いた。
「戻ろうか。いつまでも張公を待たせるわけにはゆかぬ」
 はい、と谷利は頷いて、孫権が立ち上がるのに続いて己も腰を上げた。

 政務室に戻る道すがら、彼らは回廊の向こうに二人の将の影を見つけた。先ほど正庁を出て行った呂蒙と、もう一人は蒋欽である。彼らのうち蒋欽が孫権と谷利に気づき、ぱっと明るい表情になった。それを見た呂蒙も振り返って、殿、と笑みを浮かべる。
「公奕どの、いらしていたんですね」
「はい。甘興覇どのが帰順してきたって聞いて、一度顔を見ておきたいと思って。……公績には悪いけど」
 入れ違いでしたけどね、と蒋欽は言う。彼の言葉に、孫権と谷利の脳裏に一人の青年将の姿が思い浮かんだ。
 まさに件の甘寧の軍に、父親を殺されたのが凌統である。公績の耳に入ったか、と孫権が不安そうに言うと、蒋欽は眉を寄せて首をかしげた。
「いいえ、多分まだだと思います。一応あいつの軍はまだ鄱陽に駐屯していますし……でも時間の問題ですよ」
「……そう、ですよね……興覇どのの兵営と公績の兵営とはなるべく離して設置させますが、……子明どの」
「はいっ?」
 急に話を振られて、呂蒙は声を裏返らせる。どうかされましたか、と笑いながら、孫権は彼を見た。
「子明どのからも、どうかお心配りをお願いします。何かあってはいけませんから」
「お、俺ですか」
 呂蒙の反応に孫権は不思議そうに首をかしげる。呂蒙は言いにくそうに目を逸らしながら、少し苦手なのです、とぽつりと言った。
「その……思った以上に弁の立つ方で、気後れしてしまって」
「えっ? そういう人なの?」
 予想外だったと言うように蒋欽は大げさに驚いた。呂蒙は消沈した様子で頷く。
「生来武の人だと思っていたものだから、本を読んでいると仰られていたので少しおののいてしまって」
「そのようなお話をされたのですか」
「ええ、劉景升が大体どういった人物かというのを。儒とか、楽とか、その、私はあんまり興味がないので」
「あはは、俺もおんなじだ、子明」
 呂蒙の言葉に笑って返す蒋欽。二人の様子を見て、孫権はふと口にした。
「お二方も学問をされてはいかがですか? 軍事に於いても参考になるものは多いですよ」
「え?」
 顔を見合わせる二人は明らかに戸惑っている様子だった。ね、と笑う孫権に呂蒙は、ですが、と言い募る。
「その軍事に携わって、幸い忙しない日々を送らせていただいております。本を読む暇も……その、あまり持ちようがないのでは」
「そのようなことはありませんよ。ふふ、どれほどお読みになるおつもりですか? お二人が儒学者になってしまわれては私の方が困ります」
 からからと気持ちよく孫権が笑うのに、拍子抜けしたように呂蒙はきょとんとした表情になる。
「忙しくたって私も時々本を読むのですから、暇がないことはありませんよ。そうですね、孫子、六韜、左伝、国語……ええとあとは、史記、漢書、戦国策の三史でしょうか。この辺が読むのによろしいかと。きっとお二方の軍略にも参考になりますよ」
 畳みかけるように孫権が重ね、二人はたじたじになった。まるで、かつて孫権と陸議の会話を聞いていた谷利のように、聞き覚えのない言葉を並べ立てられて混乱してしまいそうになっている。
 しかし、ついに蒋欽が唸りながらひとつ頷いた。
「やっ……てみよっか、子明」
「う…………」
 孫権は目を輝かせて二人を見る。呂蒙はそれを見返して、実に言いにくそうに、はい、と答えた。
「よかった! 府内の書庫は広く開かれております。ぜひご利用くださいね」
 嬉しそうな孫権に二人は無言で首肯した。
 どことなく肩を落とした彼らが自身の兵営に戻る後ろ姿を見届けながら、孫権はほっと嘆息した。どうしたのですか、と谷利が問うと、いや、と彼は首を振った。
「私は彼らのことが好きだから……書物には、生きる術が書かれてある。戦場で生き急ぐような采配だけはしてほしくないんだ」
 それは、必ずしも特定の誰かを指すような言葉ではなかったが、谷利の心中にはよぎるものがある。そうですね、と相槌を打つ己に、孫権はひとつ頷いて笑った。


 ◇


 翌年、再び黄祖を攻める軍勢を編成した孫権だったが、ほとんど同時に夏口から江水を南に遡る途中の曲流沿いにある麻屯、保屯の二つの砦を根城にする山越が叛乱を起こしたとの報が入った。江夏郡を縄張りにする黄祖攻撃に際しての障壁を忽せにしてはおけないと、孫権は軍の進路を山越の屯に変更し、軍勢はまず不服従民の討伐に当たることとなった。
 この行軍には、呉からは中護軍の周瑜、そして丹楊郡からは先日綏遠将軍に任官された孫瑜の軍勢が加わり、前年から鄱陽に駐屯していた凌統の軍が合流した。始めの内こそ早々に敵を打ち破って江夏へ軍を進めるつもりだった孫権だが、先んじて攻撃した保屯の山越たちの抵抗が激しく、予定していた以上の時を割くことになってしまう。
 江東の山越の動向も気にかかる彼は、麻屯の攻略を孫瑜に任せ、周瑜をその監軍として残すと、自らは一旦呉に帰還することにした。

「わかりました。では、殿。ひとつお願いがあるのですが」
「はい、なんでしょう?」
 人差し指をぴっと立てた周瑜を見て、孫権は首をかしげた。彼は手のひらを上に向け、すっとその指先で孫権の斜め後ろを示す――谷利のほうを。
「谷利を私に預けていただけませんか?」
「えっ!?」
「……!?」
 驚いて大きな声を上げる孫権とは反対に、谷利はぽかんと口を開けて絶句した。孫権は周瑜と谷利を交互に何度も見遣り、ようやく、なぜ、とそれだけ問うた。
「保屯の山越を下したとはいえ、思いがけず長期戦に持ち込まれ虜とした民衆もほとんどありませんでした。もし麻屯の攻略もこの調子では兵たちの士気や疲労に関わりますし、この地を慰撫して黄祖討伐の足掛かりとするためにもできる限り山越は帰順させたいというのが本音でしょう」
 その言葉に孫権は重々しく頷く。周瑜は目を細め、そこで彼の力を借りたいのです、と谷利を見た。
「同じ山越の者でありながら、彼と彼の故郷である阜屯は真っ先にあなた様に恭順の意を示し、その麾下に入りました。呉郡、そして孫綏遠様の治める丹楊郡には阜屯から多くの者が出仕しその武勇を活かした職務に就き、我々の力となっております。その代表として谷利には渉外に当たってもらい、麻屯の山越たちを説き伏せていただきたいのです」
「…………そうですね」
 孫権は周瑜の言葉に同意し、谷利を振り返った。
「過日、皖でお前たち阜屯の者らの勇気に我々は助けられた。……利よ、こたびは周公瑾どのに従ってくれるか」
 まっすぐに見つめられそう乞われては、谷利は元より頷くほかない。そうか、と自分で頼んでおきながら寂しそうに笑う孫権は、すぐに周瑜を振り返る。
「公瑾どの。利をどうかよろしくお願いいたします。その身に危険の及ばぬよう、どうかご配慮をいただきたい。彼の命は初めから私が預かっておりますので」
「無論です。ご了承いただきありがとうございます」
 恭しく周瑜は拱手して深く礼をした。
 そうして孫権は呉への帰途についた。何度か馬上から振り返り手を振る彼に己も手を振り返しながら、谷利は軍勢が去ってゆくまでその行方を見つめていた。

「そう名残惜しそうにしないでくれ、悪いことをした気持ちになる」
 後ろから周瑜に声をかけられて、ようやく谷利は慌てて振り返った。いつの間にかその隣には孫権に代わってこの遠征軍の大将となった孫瑜が立っていて、ふふ、とおかしそうに谷利に笑いかける。
「お前が早く主の下に帰られるよう微力は尽くすつもりだから、よろしく頼む」
「い、いえ、そのようなことは……こちらこそよろしくお願いいたします」
 恐縮する谷利の二の腕を周瑜は軽く二度叩いた。
「こうして離れたところにいても互いを思いやり、主君のために働くのもまた臣の務めだ。張公と張東部どの、呂子衡どのとは殿の名代として只今呉郡にあり、後方を固めて殿の地盤をその才智で守っておられる。元より、会稽郡に詰めている諸将は彼らの役務を正しくこなし、賀公苗は殿の刃として遠く南方まで赴き不服従民たちを恙なく平定することができている。そういう働きは、常に殿のお傍にあってはできぬものであろう。ここで新たに勲功を立て、お前の武名を上げるといい」
「は、はあ……」
 武名というのには心惹かれない谷利だが、孫権の側仕えとして周瑜が挙げた将たちの活躍を耳にしている彼にもまた思うところはある。先を行く周瑜の背を見つめながら、谷利はふと思った。
 周瑜もまた、“臣としての務めたる勲功”を果たそうとしているのだろうか?

 孫瑜の軍勢は麻屯を取り囲み、総攻撃をかける日取りを決めてその準備に入った。谷利は麻屯の攻略が始まるまで、孫瑜の側近として牙門将の一団に加わることとなった。なかには阜屯出身の兵士も数名おり、孫瑜も事あるごとに谷利に構ったので、谷利には呉への郷愁を感じる暇もほとんどない。
 孫瑜は連日、諸将と監軍である周瑜を交えて軍議の場を持った。谷利も渉外役として同席する。
「谷利には総攻撃の前に中に入って降伏を呼びかけてもらう形になる。そうだな……行動を起こすのは明後日だ」
「それがよかろう。幸い先の保屯で投降した民衆のうちに協力を申し出てくれた者がある」
 孫瑜はそう言うと、幕舎の隅で所在なげに立っていた一人の青年を手招いた。土汚れにまみれた浅葱色の着物をまとう彼は怯えたように孫瑜の傍に寄り、彼の手が示した谷利の顔を見た。
「谷利、彼は盧遠。麻屯への取次ぎを受け持ってくれる」
 ぼんやりとした顔の盧遠はぺこりと頭を下げ、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、よろしくお願いします、と言った。
 夜半に軍議が散会した後も谷利と盧遠とは本陣に残され、麻屯との交渉の段取りについて指導を受けた。返答も胡乱でどこかぼうっと周瑜を――或いは彼の向こうの中空を――見つめている盧遠に、谷利はいささか不安を覚える。
 そこへ、幕舎の外から鋭い声がかかった。孫瑜がどこか明るい声で入れ、と言う。
「失礼いたします、兄上!」
 入ってきたのはまだ年若い青年将である。凌統と同じくらいの歳の頃だろうか。太い眉をきりっと吊り上げ、青年は谷利と盧遠を見た。
「申し訳ありません、諸将がそれぞれの兵営に戻って行ったのを見たものですから軍議が終わったとばかり」
「いや、軍議は終わったのだ。彼らは麻屯との交渉役に当たるもので、その指導をしていた。谷利、盧遠。これは私の弟で、孫皎、字を叔朗という」
 孫瑜に促され、青年――孫皎はきびきびと礼をした。谷利も慌てて返礼するが、盧遠はゆったりと頭を下げるのみである。
「孫叔朗と申します。よろしくお願いします!」
「自分は谷利と申します。ええと……こちらは盧遠どのです。よろしくお願いいたします」
 谷利が名乗ると孫皎は目を丸くして、あなたが、と呟いた。
「兄上から伺っております。我が君の傍らに優れた忠義の者がいると。あなたのことですね」
 そう言うと孫皎は改めて拱手し、首を深く垂れた。谷利は照れくさくなって、慌てて己も拱手する。その様子を見ていた孫瑜は、ふふ、と笑った。
「皎、お前の用向きは何だ?」
「はっ、失礼いたしました。保屯にて捕らえた負傷兵の中に、耳慣れぬ訛りの者がおりましたので報告に伺いました。山越のものとも、江東のものとも違っているようでしたので……」
 それを聞いた周瑜が口元を隠すように手で覆う。
「やはり……」
 谷利が振り向くと、その視線に気づいた周瑜が困ったように笑った。
「懸念はあったんだ。この二つの屯には伯符が存命中にも一度太史子義どのを伴って征伐に来ているんだが、そのときはそれほど抵抗なく帰順している。それがまたこうして、太史子義どのが未だ海昏にあってなお、再び叛乱を起こしたというのは……恐らく何者か扇動した者があるのではないか、と」
 孫瑜が孫皎に、その者をここに連れて来られるか、と問うと、彼は申し訳なさそうに眉をひそめて首を振った。
「傷が深く、そのまま死んでしまいました……もっと早くに気づいていれば」
「そうか、いや、それでは仕方がないな」
 孫瑜は弟の肩を叩いて、気にするなと言うように笑った。孫皎はもう一度、申し訳ありません、と言ってそのまま本陣を辞去する。
 ふうむ、と腕を組んで孫瑜は唸り、それから谷利と盧遠とを見た。しかし彼が何か言う前に盧遠が谷利の方に身を乗り出して声を発した。
「もし麻屯に入って、あいつらと鉢合わせることがあったなら、必ず斬ってください。お願いします」
「え?」
 たじろぐ谷利に彼はもう一度、お願いします、と言って地面に額がつくほど頭を下げる。わかりましたから、と慌てて肩を押して己を起き上がらせる谷利の手を、まるですがりつくように彼は掴んだ。
「皆あいつらに脅されたんです。戦わなきゃ俺たちの妻や子供から一人ずつ、耳を削ぎ、鼻を削ぎ、目をえぐってやるって! ……けど……、それを恐れて戦ったって、どうせ死ぬときは死ぬんだ」
 盧遠の目から大粒の涙がこぼれ、谷利の袖を濡らす。
「…………助けてください…………」
 滂沱と泣く彼の傍にかがみ込んだ孫瑜が、その肩にそっと触れた。
「しかと心得た。だが、そのためにお前にも励んでもらわなければならないよ」
「はい……!」
 そうして谷利と盧遠とは、総攻撃開始の五日前、明後日から麻屯へ赴き、降伏のための勧告を行う手筈となった。恙なく事が成れば烽火を焚き、攻撃は中止される。だがもし、その前に山越たちが行動を起こし攻撃を仕掛けてきた場合、或いは勧告に従わず敵意を向けられた場合には、無理をせず身の安全を確保するように、とも孫瑜は言った。
 それは仕方のないことなのだ、と彼が言うのに、谷利も、盧遠もまた頷いた。


 ◇


 しかし翌日の夜半、周瑜と孫瑜、そして谷利と盧遠とが揃って詰めていた本陣の幕舎に、急報を持った一人の兵が飛び込んできた。
 彼は、叫ぶように言った。

 凌行破賊都尉が、陳軍督に斬りつけ、重傷を負わせました、と。