本陣に出頭してきた凌統は叩頭し、申し訳ありませんでした、と震える声で叫んだ。心底得心がいかぬ、と言いたげに眉を寄せて彼を見下ろす周瑜は、孫瑜をチラと見遣る。
 孫瑜は腕を組み黙って凌統を見つめていたが、やがて、何があった、と問い掛けた。
「私が……私が陳軍督を斬りつけました。人事不省の重傷を負わせ……申し開きのしようもございませぬ」
「なぜ斬りつけた」
「それは……」
 そこで凌統は伏せていた顔をようやく上げた。何か言おうとして開いた唇をまた閉じて、音がするほど地面に額をつけた彼は、如何様な罰にも従います、と言う。その言葉に孫瑜は眉をひそめた。
「なぜ斬ったと問うている。お前にその理由がわかるか?」
「は……それは……」
「お前が理由なく人を斬る男ではないと我々は知っているからだ」
 凌統は歯噛みしたが、首を振って答えない。その態度に些か苛立った様子の周瑜は、凌統に付き添って本陣を訪れた兵士の一人を見た。彼は凌統を気にしてチラリと見下ろしたが、すぐに周瑜を見返す。
「先程まで陳軍督が酒席を催してくださっていたのですが、その振る舞いが道義を外れておったのを凌都尉がお咎めになったのです。そうしたら陳軍督は今度凌都尉を罵倒し始めて……いよいよ、彼の亡きお父君までをも悪し様に罵りました。我々も彼のお父君には世話になっておりましたので、皆気分を害してさっさと酒席を散会させてしまったのですが……陳軍督は酩酊しているのもあって帰り道にも凌都尉に付きまとって、しつこく罵声を浴びせて……」
 ついに凌統は剣を抜いて陳勤を斬りつけた。号泣しながら仲間の兵士たちに、彼を助けてくれ、とすがりつく凌統を励ましながらも、本当のところ自分たちの多くは陳勤の自業自得でもあると思っている、と彼は証言する。
 なるほど、と頷いた周瑜は孫瑜を見遣る。彼も周瑜をちらと横目で見、それから顔を伏せたまま動かない凌統を再び見下ろした。
「凌都尉、今お前を捕捉し陳軍督の傍に縛りつけて、総攻撃に係る将の数を減らすわけにはいかない」
「は……はい」
「医官には陳軍督の治療に全力で当たってもらい、お前には将として我々と共に総攻撃に与してもらう」
 そこで孫瑜は、本陣の隅で事の成り行きを見守っていた谷利と盧遠とを示した。凌統も彼らに目を向ける。
「明日より彼らが使者として麻屯に赴き、降伏勧告を行う手筈となっている。前線で戦う将兵と同じように命懸けの使命だ。我々は彼らの助勢としての役務を全うせねばならない」
「谷どのが……?」
 首肯する谷利に、凌統は唇を噛んで孫瑜を見上げ、頷いた。
「我が身命を賭します!」


 ◇


「谷どのは、交渉の達人でらっしゃるんですか?」
「え?」
 翌日、麻屯に向かう道すがら、盧遠に尋ねられたことに谷利は目を丸くして聞き返した。だって、と盧遠は彼の反応に狼狽える。
「将軍様から、わざわざお引き留めなさったのだと伺ったものですから」
「ああ、いえ、そういうわけでは……私は討虜様の側仕えです。ただ、皆様方と同じように不服従民の出ですので、話が通じるところもあるだろうという周中護軍様のお考えで」
 今度は盧遠が谷利の言葉に驚いた。
「そのような方が、討虜将軍のお傍に、ですか……」
「ええ。私の故郷は屯を上げて討虜様に与しております」
 そうなんだ、と盧遠は胸に手を当てて、ほうとひとつ息をついた。彼を横目に、谷利は続ける。
「無論、今も江東の各地で山越の叛乱はやみません。やはり基本的には武力でもって征伐し、それらを虜とするのがほとんどです。最初は皆様方の蜂起もそれらと同じようなものだと思っておりましたが……どうやら事情が違うようですので」
 コクン、と盧遠は頷く。外部の者に脅されたとはいえ、保屯の山越たちは激しい抵抗の末にそのほとんど――女子供も含め――が戦死し、虜となった多くの負傷兵も少なからず息絶え、保屯に撤退した者を除けば残っているのは盧遠を含め百人にも満たない。
 幸い、麻屯の周辺には点々と宿営が張られているだけで、山越たちもまだ熱心に陣形を整えている様子はない。屯を囲むように何重にも覆われた柵を迂回して、ところどころに生い茂る草木の中を屈んで進み、二人は櫓が立つ丘の頂上を目指す。
「こっちです。この裏から屯に入ることができます」
 盧遠が指し示す方向に足を向けた谷利だったが、ふと思案するような表情になって立ち止まった。
「正面から入れませんか? 我々はあくまで使者としてここに来ています。道中は隠れたとは言え、こそこそと裏から侵入するのもどうかと」
 その言葉に盧遠は首を振った。
 彼の言うには、麻屯の門前には常に北方から来た煽動者の一味が門兵として構えており、外からの侵入はもちろん、中からの脱走にも目を光らせているらしい。彼らに見つかって騒ぎが起きる不利益を被るよりも、これから己が案内する山越の者だけが利用する抜け道を利用すれば、屯内部からの手引きも期待できると言う。
 不承不承頷く谷利に、ほっとしたように盧遠は笑って改めて先行した。
 二人は半日をかけて屯の北側の崖に沿ってぐるりと回り、遥か遠くの山稜に沈む西日が照らす、屯を隙間なく囲む竹製の柵に寄り添うように立った。確かこの辺、と言いながら努めて静かに、盧遠が柵に触れる。カコン、と小さく竹の鳴る音がして、柵の一部が扉のように押し開かれた。ちょうど一人分が通れるくらいの隙間を、まず盧遠がくぐり、その後に谷利も続く。
 抜けた先は木造の家屋の後ろに当たり、柵に沿って生い茂る木々に覆われた空間だった。
「こっちです……あ、いや、ちょっと待ってください。誰かいないか見てきます」
 谷利を家屋の壁に圧しつけるようにして留まらせた盧遠は、忍び足でその角の向こうに向かった。
 残された谷利は、まるで裏口を庇うようにして建つ壁を見上げる。建てられてまだそれほど経っていないのか、使われている資材からは真新しい木の香りがした――或いは、今谷利が抜けた裏口を隠すために急ごしらえで築造されたものなのかもしれない。
 さわ、と頭上で木の葉が互いにふれ合い、谷利を生ぬるく包み込む宵闇が揺らめく。表にあるはずの喧騒も全く聞こえないほどの静謐さだ。谷利は、孫策が死んだときのことを思い出す。ただ塀を隔てているだけのはずなのに、まるで邸内の様子を窺い知ることができなかったかつての孫策邸。
 今、この麻屯にも恐らく死の気配が立ち込めている。それは保屯から逃げてきた者たちや、その以前から招かれざる客たちがこの地に持ち込んだものだ。
 ――そして、もしかすれば東の地より運び込まれたかもしれないものだ。
「…………」
谷利は覚えず、己の口許を覆うように手を当てた。
「谷どの! 谷どの、こちらへ」
 小声で、しかしはっきりと、家屋の角から少しだけ身を乗り出した盧遠が谷利を手招いた。谷利は頷き、彼のほうに小走りで寄る。
 盧遠は谷利の腕を取り、裏口を隠していた家屋の南側に隣接して建つもう一軒の家屋を示した。生活用というには些か大きなつくりで、将軍府にある練兵場のような無骨な佇まいである。
「保屯から逃げてきた傷兵たちは皆ここに収容されているそうです。今、あいつらは動ける仲間たちを連れて外で布陣し始めているそうなので、この中なら見つかりません」
 わかりました、と谷利は答え、彼に続いてその屋内に入る。そこは三間ほどの広さの板敷きの部屋がひとつあるだけの簡素なつくりになっており、数十人が煩雑に寝かされていた。唸り声をあげる者、身体を掻きむしって身悶える者、じっと横になったままぴくりとも動かぬ者など様々な者たちがある。視界の中で盧遠がひどく不愉快そうに眉をひそめるのを谷利は見た。
 入ってきた二人を、収容所で医事に携わっていた一人の老夫が見やり、ああ、と無感動な声を上げる。
「あなたが孫軍の使者ですか」
「はい。谷利と申します。彼らは保屯の戦闘の負傷兵ですね」
 谷利の問いに、屋内のかがり火に照らされた老夫は頷く。
「彼らは特に重篤な者たちです。多少傷を負っていても体を動かせる者、口が聞ける者は皆駆り出されました。私はこの屯の長であります、范儀と申します」
 老夫――范儀が名乗るのに、谷利ははっとなって片膝をつき、拱手して深く頭を垂れた。范儀はそれを制し、ご足労ありがとうございます、と謝意を述べた。
「盧遠から降伏を勧告するための使者であると伺っております。我々もそれに応じたい。しかし、女子供を屯の議場にまとめて隔離され、人質に取られております」
 范儀はどこか遠くを見るような仕草をした。谷利もまた彼の目線の追って部屋の壁を見つめる。恐らくその方角に彼の言う屯の議場があるのだろう。
 盧遠は拳を握りしめて、何とかなりませんか、と谷利に訴えた。
「……議場の見張りは何人いますか」
「前後の入り口に常に二人ずつ。中に二人。二人ずつの見回りが朝昼晩の三度」
 返答は早かった。谷利は頷き返し、少し多いですね、と呟く。
「范儀どの、今日はもう夜です。我が軍の総攻撃は四日後。我々は麻屯の側から攻撃を始める可能性は低いと見ております」
「はい。あくまでもこちらは守戦であり――江東の兵を減らすことが目的です」
 窪んだ彼の眼窩に影が差す。わかりました、と谷利は頷き、盧遠を見た。
「行動を起こすのは交戦の直前です。戦線が前のめりになってこの屯から十分に離れ、容易に立ち戻ることができぬそのときです。本当は見張りの者にも外に出てもらいたいところですが……それまでは努めて速やかに敵を撃退し狼煙を上げる手筈を整えましょう」
「はい、わかりました。屯長、俺たち二人もここに世話になります」
 盧遠の言葉に、范儀はひとつ頷いて部屋の奥にある戸板を示した。谷利は気づかなかったが、どうやらもう一部屋あるらしい。
「あの奥の戸はこの隣の物置に繋がっております。あなた達が入って来たくぐり戸を隠すために無理に増築したもので、狭苦しいところで申し訳ありませんが、そちらをお使いください」
 じきに見回りの兵がこの収容所を訪れる刻限になると彼は言う。二人は慌てて示された物置に駆け込み、ほんの僅か隙間を開けて戸板を閉めた。
 ほどなく収容所の入り口の戸が乱暴に開かれ、屈強な体格の二人の兵士と、その後ろにそれぞれ櫃と大量の椀を抱えた二人の女性が続けて入ってきた。
「うわあ、あぶなかったですね、谷どの」
 小声で盧遠が言うのに谷利は頷き返す。負傷兵たちの呻き声や悲鳴で、奥の部屋に隠れる二人の声は入り口にいる彼らには届かない。
 兵士たちは訛りの強い口調で、范儀に対し暴言のような言葉を吐いている。そのひとつひとつに頷く范儀を見ていた盧遠は、ちくしょうめ、と呟いた。
「あんな奴ら、人質がいなけりゃすぐに斬ってやる」
「ええ」
 返事をした谷利を盧遠はぱっと見た。
「谷どののところには、外から人が来たりしなかったんですか?」
「私の覚えている限りではありませんね。少なくとも、あの者らのように武力で従属させようというのは――」
 はた、と言葉を切った谷利に盧遠は首をかしげる。どうかしましたか、と尋ねられ、谷利は首を振った。
「――私の故郷は丘陵地帯にあって、外からはなかなか見つかりにくいのです。ここのように、川沿いで見晴らしの良い土地に住んではおりませんでしたので」
「どうして谷どのは孫軍に入ったのですか? 皆様方は北から来た人たちと戦をしたりしなかったんですか?」
 隣人の質問攻めに、谷利は思わず笑みをこぼした。
「戦いましたよ。私も一人斬りました。友人たちも皆敵兵を斬りました。彼らは一人を残して皆その戦で死にましたし、残った一人も片腕を失いました。私だけが五体満足で――しかも、敵の将にこの身命を賭すと決めてしまったのですから手に負えません」
 口の端を上げた谷利に、盧遠がぽつりと、孫将軍様ですか、と尋ねる。
「それとも周将軍様? お二人ともとても優しく、美しかったですから」
 その言葉に、谷利は周瑜と孫瑜を脳裏に思い浮かべ、また首を振る。
 違いますよ、と噛みしめるように谷利は言った。周瑜の持つ達観したような瞳とも、孫瑜の持つ穏やかですべてを許容するような瞳とも違う。どこか弱弱しく不安げに揺らめき、ときに涙の膜を張り、そして何度も伏せられながら、それでもなお諦めずにまっすぐ前を向いた碧色の瞳。その発する輝き。
「……孫軍には、優しくて美しい人が、たくさんいますから。彼が心無い者たちに汚されぬようお守りするのが私の務めです」
「そうなんだ」
 盧遠はおもむろに立てた膝に顎を乗せ、いいですね、と笑った。
「ふふ、俺の奥さんも優しくてきれいなんですよ。俺にはもったいないくらい……今は、人質に取られちゃってますけど」
 もともと盧遠は麻屯の民であり、保屯での戦闘には麻屯から送られた助勢の一人として参加していたのだという。もう少しの辛抱です、と谷利が言うと、彼はひとつ頷いて膝に顔を伏せた。
「こんなに近くにいるのに何もできないなんて」
 ――その切なさなら、谷利も知っている。
 やがて見回りの兵士たちを帰らせた范儀がそっとその戸板を開くまで、二人は互いに黙ったまま、かすかな一条の光が射す暗闇の中に坐り込んでいた。

 二日間、谷利と盧遠とは、范儀の手を借り屯内の導線や烽火を上げる際の道具の有無を確認し、北方の兵士たちの行動を具に観察した。幸いにも烽火については保屯と麻屯の間のやり取りに使用する薪や枯草、さらには動物の糞なども保管されてあり、事が成れば烽火には困らないだろうと二人は判断した。
 さらに、屯内には麻屯の民衆の他、北方の兵士たちも見張り役以外はほとんど残っていないことが確認できた。屯に駐留する北方の兵士たちは、范儀の言う議場の見張りの六名、そして屯内の見回りの六名の他は屯の入り口である門前に待機している二名が残るのみである。急造の軍であるためか連絡系統はほとんど成り立っておらず、外から立ち込める戦の気配に皆どこか上の空な風だ。時折聞こえる陣太鼓の音は、前線の昂揚した空気を如実に物語っていた。
 孫瑜の軍の総攻撃が開始されるのは明後日の夜明けである。
「かなり好都合ですね、谷どの」
 盧遠が言うのに谷利は頷き返す。二人は議場に突入する刻限を総攻撃開始直前の夜明け前に定め、入念に準備を整えた。なるべく北方の兵士も殺さず、努めて捕捉することを二人は取り決めた。初めは抵抗を示していた盧遠も、谷利の言うことに渋々同意を返してくれた。
 ――多くの者を殺さねばならぬ。だが、できれば少ない方がいいと思う。少なくとも私の目の届く範囲は。
 かつて主はそう言った。腹を括らねばならぬとそう言い置いて。ならば谷利もそれに従うまでだ。
 兵の捕捉に関しては、収容所で介抱を受けていた負傷兵の内、状態が安定した四名が手助けしてくれることになった。二日前の動員の時点で既に動けるまでには回復していたが、范儀の指示でそのまま重症のふりを続けて逃れたのだという。
 谷利たち六名の勇士はまず、門兵二名を制圧することを第一の目的とした。
「うーん、隠れるものがないのが大変ですね」
 盧遠が困ったように頭を掻いた。門前は見通しのきく広場になっており、軍事演習や市場を開く際の障害になるからと、門のすぐ脇にある武器と防具を収納しておく倉庫の他には遮蔽物は全くないのだと言う。夜陰に紛れて奇襲をかければ、戦闘員として動けるのが谷利と盧遠の二名のみでもある程度の成果は期待できようものが、これでは真正面からぶつかる羽目になってしまう、と彼は不安げな面持ちになった。
「では、隠れないことにしましょう」
「へ?」
 谷利が言うのに、盧遠は素っ頓狂な声を上げた。
「正面からぶつかりましょう。ひとつ考えがあります」


 ◇


 その翌々日の夜明け前、まるい満月は寅の刻にようやく天頂に昇りつめた。
 少ない人数で門衛、議場の哨務、屯内の巡視をやりくりしている北方の兵士たちの表情にも疲れの色が濃く出ている。門兵の一人が隠しもせず大あくびをしたとき、もう一人の視界には屯の住宅地から広場を渡って門へと向かってくる一団が映った。
「お前たちは誰か!」
 弱い月の明かりに照らされた彼らは皆、一様に体のどこかに包帯を巻いており、一人などは顔全体を覆われて目だけが覗いているような有り様である。誰何の声に応えたのは先頭を歩く壮年の男だった。
「怪我も癒え、動けるようになりました。我々も前線へと向かいたく出てきたものです。武具と防具との配給をお願いできますか」
「ん? お前は……ああ、了解した」
 男と門兵の一人とは顔見知りだった。彼が頷いて門の脇にある倉庫に向かうのを見届けたもう一人の門兵は、ご苦労なことだな、と嘲るように笑って大きく伸びをした。
「おうい、誰か手を貸せ」
「ああ、はい」
 倉庫の中から呼びかけられ、壮年の男に続いて二人がそちらへと向かう。その場に残った三人のうち、顔中に包帯を巻いた男が何事か言うようにもごもごと口許を動かした。首をかしげた門兵が彼の方に歩み寄ったとき、男はゆっくりと口許を覆っていた包帯を外し、こほん、とひとつ咳をした。
「――失礼」
 ふっと身を低くした彼が門兵のみぞおちに拳を叩きつけるのと、倉庫から短い悲鳴が聞こえてくるのとはほとんど同時だった。門兵は体を折って足元をふらつかせ、力なく地面に崩れ落ちる。すぐさま残りの二人が着物の下に隠していた造船用の綱で彼の腕と足を縛り上げ、包帯を彼の口に巻き付けて声を発せないようにした。
 顔を覆っていた包帯をすっかり外した男がその脇に膝をつき、隠し持っていた短刀を彼の首筋に添える。
「じっとしていてくれ、そうすれば殺さない」
「谷どの、こちらも大丈夫です」
 倉庫から駆け出してきた盧遠の声に、谷利は頷き返す。縛り上げた門兵を四人がかりで抱え上げた彼らは、その身柄をもう一人の門兵と一緒に倉庫に押し込むと扉を閉め、中から開けられないように槍を立てかけた。
「では、お願いします」
 谷利に言われた武器を持たない二人が頷き、議場の方へと走っていく。他の二人をその場に残し、谷利と盧遠とは走り去る彼らの後を追いつつ、途中途中の家屋に身をひそめながら前進した。
「と、屯に賊が入りました!」
 先に議場の近くへと辿り着いた二人が見張りの兵士に必死に訴えると、議場の外はにわかにざわめいた。議場の北側の見張りをしていた二人と、ちょうど屯内の見回りを始めようと出てきた二人の兵士が彼らの先導で門の方へと走り出す。
 議場脇にある家屋の陰に隠れていた谷利と盧遠はその様子を見届け、互いに頷き合って無人となった議場の北入り口から内部に侵入した。
「何者だ!!」
 手前の入り口近くに立っていた兵士には盧遠が対応した。当て身を食らわせて昏倒させ、腰に携えていた縄で彼を縛る。議場に捕らわれていた女たちの数名が変事に気づき、すぐさま盧遠に手を貸した。谷利は矢のように議場の闇の中を反対側へと駆け抜ける。きゃああ、と悲鳴が聞こえ、子供の泣く声がした。議場の南側を守っていた兵士は迫り来る“賊”に慌てて近くにいた一人の女を楯にしようとしたが、“賊”の手が彼に伸びる方が早かった。襟首を掴んで勢いよく壁に圧しつけ、その首筋に短刀を押し当てると、ヒ、と喉の引きつったような音が彼の口から漏れる。
「神妙に縛につけ。そうすれば命までは取らない」
「あ、あ…………」
 谷どの、と北側の兵士を議場の隅の物入れに押し込めた盧遠が駆け寄ってくる。彼は谷利の腰に携えている縄を引き抜き、手早く兵士をぐるぐる巻きにした。
「皆! もう少しの辛抱だから、もうちょっとここでじっとしていてくれ。外の兵士も俺たちが片付ける。そうしたら助けが来る!」
 議場の女たちに呼びかける盧遠に、声をかける者があった。彼が闇の中を目を凝らして見れば、それは懐かしい女の形をしている。
「桂!? ……桂! 無事だったか!」
「お前様も、よくぞご無事で……!」
 桂――盧遠の夫人は感極まった涙声でそう言った。盧遠は彼女の肩を強く二度叩き、悠長に話している時間がないんだ、と答える。
「南側の兵士たちを倒して、残りの見張りの兵たちを片付けないと、安堵して烽火を上げられないんだ、だから――」
「ねえ、今、北の奴らが二人、門の方へ向かうのが見えたわ」
 議場の北側で盧遠の手助けをしてくれた女が走ってくる。谷利と盧遠とは顔を見合わせた。
「……大丈夫でしょうか」
「すぐに外の兵を片付けます。皆様方はここでしばらく――」
「そんなら大丈夫」
 かの女は、その手に兵士の持っていた戟を握りしめている。
「私も戦える。昔は男たちに混ざって戦いの練習をしてたんだから」
 頼もしく笑う彼女に谷利は思案顔になったが、失礼、と彼女から戟を借り受け、その刃部分を留めていた縄を解いてぽいと刃を取り外した。
「あ! 何するの」
「北の兵士たちもなるべく殺さないよう我々は決めております。あなたがその棒でも人を突き殺せるほどの強力なら諦めますが、そうでないなら昏倒させるだけに留めてください」
 谷利の言葉に女は口を尖らせて、わかったよ、と渋々頷いた。
 そうして三人は議場の南側入り口に忍び足で近づく。
「私は左へ、お二人は右へ。よろしくお願いします」
 首肯を返した二人を見、谷利は勢いよく議場南側の扉を開いた。
 飛び出した盧遠と女は翻って右に立つ兵士へと襲いかかる。不意を突かれた兵士は成す術なくたたらを踏んで転がり、女の叩きつける棒術に気を失してしまった。うへえ、と盧遠の呆れたような声を聞きながら、谷利はもう一人の兵士へと刃向かう。態勢を立て直した彼の戟が繰り出す一撃を身を捩って避け、谷利は短刀を逆手に持ってその懐に飛び込んだ。防具の紐を掴みあげると、均衡が崩れた彼が谷利の腕を掴む。ぐ、と唸った谷利はそのまま彼の上に重なるように引き倒された。
「えい!」
 谷利が身を離そうと顔を上げた瞬間、女が戟の柄を思い切り兵士の顔に振り下ろした。バチン、とけたたましい音を立てて顔面を強打された彼は、谷利の腕を掴んでいた手を力なく地面に落とし、動かなくなった。
「し……死んでませんよね?」
「お、恐らく」
 盧遠が恐る恐る問いかけるのに、谷利も震えた声で返すよりない。

 三人は北の兵士たちが詰め所として利用している議場の南向かいにある家屋に押し入った。連日の疲れもあるのか、すぐ傍で起こった騒ぎにも気づかずに彼らは眠りこけている。これは好都合とばかりに彼らはさっさと兵士たちを捕捉し、家屋の物入れに押し込めるとその扉の前に家財を重ねて封鎖してしまった。
 門の救援に向かおうとその家を出たときには既に東の空が白んできていた。急ぎましょう、と谷利が言い、三人は全力で走り門へと立ち戻った。

 しかし、門に辿り着いた彼らが見たのは、血を流して倒れる北の兵士たちと、困ったような表情で谷利たちを見遣った一人の山越の若者の姿だった。
「他の人たちは烽火の準備のために屯長のところへ戻りました」
 彼はそう言い、すみません、と本当に申し訳なさそうな顔つきで俯く。
「殺してしまいました」
 谷利は彼の言葉に答えることができず、ただ頷くのみだった。


 ◇


「さあ、太鼓を鳴らせ! 総員、攻撃開始だ!」
 孫瑜の掲げた剣がまっすぐに天を指し示し、彼は高らかにそう叫んだ。白み始めた東の空に、橙色の雲が幾筋もたなびいている。
「谷利は大丈夫だろうか」
 周瑜が言うのに、孫瑜も、うむ、と唸り声を上げる。
「中で何が起こっているのか見えないのがもどかしいな……」
 鼓吹が激しく太鼓を打ち鳴らした。鬨の声を上げた兵士たちが朝焼けの中に土煙を上げて丘を駆け上っていく。
 先陣を切るのは凌統の軍勢だ。結局、陳勤は傷のために昨日死んだ。己も死んで詫びると訴える凌統を、ならば戦場で死んで果てよと冷たく本陣から追い返したのは周瑜である。孫瑜はその様子を見ているだけだったが、凌統の覚悟を決めた表情には思うところがあった。
「死んでほしくはないがな、彼にも」
「……それを決めるのはあいつ自身だ。討虜様だってそう言うに違いないし、生きて帰ってきたなら討虜様はきっとその罪を赦す」
 周瑜の言に、孫瑜も同意を返す。
 そのとき、太鼓が一層激しく打ち鳴らされた。同時に金属のはじける音が周囲に響き渡る。戦端が開かれたらしい。馬上から二人は戦場の様子を固唾を飲んで見守った。
 敵陣の様子を見るに、どうやら麻屯に残っている兵士のほとんどが出陣しているようだ。それでも数の上では攻囲軍の方が勝っており、恐らく彼らはその身を挺して江東の軍勢を削る腹積もりなのだろうと察せられた。そのことに気づいたとき、孫瑜は苛立たしげに舌打ちをした周瑜を見ている。常に冷静沈着な彼の激情、その発せられる宿望を垣間見た気持ちになった。
「ああ、押しているね。少し先へ行こうか」
 孫瑜は手綱を引いて馬を戦線の先へと進めた。周瑜もそれに続く。
 道中に転がる敵兵の死体を見ながら、困ったな、と孫瑜は呟いた。
「ここまで抵抗が激しいか……」
「公績は先頭にいるのか? 頑張るじゃないか」
 目を細めて前線を見遣る周瑜に、孫瑜はなおも弱ったように眉を下げる。
「将が前に立ってはいけないだろう。死んだらどうする」
「いや、仲異どの。実際のところ将には二種類あるのだ。あなたや討虜様のように、後方にどっしりと構えて兵たちを見守り、篤く愛する者。そして……伯符や、今の公績のように、軍の先陣を切って突き進み、その勇姿で兵たちを鼓舞する者」
 周瑜は微笑み、馬の手綱を引いた。
「ただ不思議なことに討虜様は、ご自身では己は前線で奮戦する将であると思っているようなのだ。仲異どの、これからももし彼が無茶をしようとしたら、それを諌めてやってほしい」
「公瑾どの、あなたはどちらなのだ?」
 馬はいななき、周瑜は孫瑜を振り返ってニヤリと笑う。
「もちろん、前線で戦う将だとも。失礼!」
 周瑜は馬を走らせた。孫瑜が静止の声を上げたときには既にそれが届かぬほど遠く、吹き上げる風のように丘を駆け上っていく。凌統のいる前線を目指しているのだろう。
 この数年、周瑜は孫権が征西する留守を守って呉郡にこもっていた。もし彼自身の言うように、周瑜が“前線で戦いその奮闘で兵を鼓舞する将”であるならば、今彼の戦いの血は沸き立っている。
「孫伯符様、そして周公瑾どの……か」
 二人の美しい青年の姿を覚えている。戦場に身を置く彼らの姿はまるで燃え盛る炎のようであった。かつては、その火は漢王室の守るかがり火であるのだと思った。
 ――今は?
「…………いや、よそう。何が起こっても、それは仕方のないことだ」
 ただ周瑜の忠告を胸に留め、孫瑜もまた上がり続ける前線を追ってその馬を先に進めた。

 “あの日”のように、凌統の耳は冴えた。太鼓が激しく打ち鳴らされるのが心地よい。“あの日”と違うのは、体が自由に動くことだ。
 凌統は軍勢の先頭に立ち、声を上げてたくさんの人を斬った。敵の動きをやけに遅く感じ、空はまだ仄暗い中だというのに目を見開いていればその命の在処まで見えるような気がする。パシン、と敵の返り血が頬に当たるのも構わず凌統は突き進んだ。
「凌都尉! ご油断召されぬよう。少し引いて敵の出方を窺ってもよろしいかと」
 副将が何か言うが、凌統にはそれが意味を成さぬ文字の羅列として認識された。凌都尉! と彼が叫ぶのにも構わず、凌統はどんどん前進していく。
 また一人敵が目の前に現れた。凌統よりも少し体が大きく、自信ありげな顔つきが手練れのように見える。だが構わなかった。
「そこをどけえええっ!!!」
 凌統は踏み込んで躍り上がり、剣を振り下ろした。敵の構えた戟の柄に受け流され、体勢を崩すも翻ってすぐに構え直す。彼が薙ぎ払った戟を避け、凌統は身を低くして走った。
「らああっ!!」
 凌統の切っ先は敵の防具を掠めた。彼もまた身を引き、体勢を立て直して戟を振り下ろす。横に飛んで避けた凌統はすぐさま体を起こして敵を見た。
「凌都尉!」
 副将が叫ぶ。気づいたときには敵の後背にいた弓兵はその弓を引き絞っていた。
「…………っ!」
 凌統が息を飲んだとき、軍勢の後方から一騎の騎馬が丘の下から飛ぶように駆けてきた。その騎手が振りかぶって投げた剣は、恐るべき速さで凌統に向かって放たれた矢を弾き落とす。目の前の地面に刺さったその剣を見つめ、凌統は絶句した。
「何人殺した、凌公績!」
 澄んだ爽やかな声が、東から明るくなっていく空の下に響き渡った。
 敵味方関係なく、彼が現れたことに皆動揺している。その佇まい、背筋を伸ばし馬上から凌統を見下ろすのは、周瑜である。
「死んで詫びると言いながら、素晴らしい戦果だ。討虜様もお喜びになる」
「しゅ、周中護軍どの……!」
 顔にかかった影はしかし、彼の艶やかな笑みを遮るまでには至らなかった。凌統は震える足で立ち上がり、呆然と周瑜を見上げる。
「私も戦いに来たんだよ、久しぶりだからね。だが……やられた。少し遅かったようだ」
 苦笑を浮かべた周瑜が丘の頂上を見上げるのに合わせて、凌統も、彼の軍勢も、そして前線の敵も皆つられて彼の視線の先を見る。

 屯の中から、烽火が上がっていた。

「我々孫軍は、降伏する者を皆歓迎する。周公瑾の名に於いてその身の安寧を約すると誓おう。それでもこれ以上抗うと言うのであれば私が相手になるが、いかがか?」
 高らかに周瑜の声は前線にくまなく届き、その場に静寂が落ちた。
 やがて、カラン、と戟を取り落とす音を皮切りに、次々と敵兵の手からその得物が放される。ふ、と笑った周瑜は、凌統を見下ろした。
「よく頑張ったな」
「…………」
 凌統は力が抜けたようにその場に膝をつき、両手で顔を覆った。副将が彼の傍に駆け寄ってきてその肩を抱くと、凌統はぽつりと、呉に帰ったら出頭する、と言った。
「…………わかりました」
 副将が頷くのに、よかった、と笑って凌統は立ち上がる。後方から来た孫瑜の一団に連なり、彼もまた麻屯の門へと向かった。


 ◇


 谷利が呉郡に戻ってきたのは、それから二十日後のことである。
 軍勢の帰還の報を受けて将軍府から走り出してきた孫権に抱きつかれ、谷利は照れくさくなって彼をつい押してしまった。気にした風でもなく孫権は大笑いし、おかえり、と彼に声をかけた。
 保屯、そして麻屯の戦役を終えた周瑜より彭蠡沢の東岸、宮亭にその軍勢を駐屯させる旨を言付かっていることを伝えると、孫権は神妙に頷いた。
「……海昏の太史子義どのが亡くなられたという報は呉郡にも届いている。……やはり、江南は遠いな。豫章、鄱陽の情勢は押さえておきたい」
「……はい。それから、もうひとつ……」
 凌統の件を伝えると、孫権は口許に手を当て、そんなことが、と眉を寄せてつらそうな面持ちになった。すぐに歩き出した彼は、軍正の下へ出頭し自ら縄目を受けることを望んだ凌統の下へ駆けつけると、その罪をあがないまた軍務へと復帰できるように口添えした。谷利もまた、孫瑜と周瑜からも凌統の功績を記した書簡を預かっていたから、軍正にそれを差し出す。軍正は、ふう、とため息をついて二度頷き、よろしいでしょう、と凌統を解放した。

 麻屯はどうだった、と尋ねられ、谷利は、大変でした、と嘆息しながら言った。
「本当は我が君の仰るように、できるだけ殺さないつもりでいたのですが……目が行き届かなく、それすらままなりませんでした」
「ああ……、いや、そんなことはいいんだ」
 孫権は笑い、谷利の肩を軽く叩いた。
「お前が無事ならいい」
「…………ありがとうございます」
 谷利は、言おうか言うまいか迷った。
 何かひとつでも間違えば、きっと自分たちの故郷も保屯や麻屯のような目に遭っていたかも知れないということ。あの日、宣城にいたのが孫権でなければ。いつか、北から押し寄せてきたのが孫策の軍勢でなければ。
「――朝焼けが、とてもきれいでした」
 ようやく、谷利はそう言った。そうか、と嬉しそうに孫権は返事をする。
「呉郡の湖沼とは違い、蛇行する川の流れに朝の光が反射して」
「うん」
「凛と澄んだ空気の中、川面が空の薄橙色に染まっていくのです」
「おお、それは見てみたいな」
 孫権の楽しそうな声に、はい、と谷利は返した。

 それは、とても美しい風景だった。
 孫権の中にも、同じ景色が浮かんでいればいいと思う。