建安十二年、孫権の母である呉夫人が病のために息を引き取った。三度の征西に於いてまたしても黄祖を討つこと叶わず、ただその民を虜とするのみで失意の内に呉に帰還した矢先のことである。
 人目を憚らず泣き崩れる孫権に谷利は何ひとつ声を掛けられず、そればかりか彼がまたその死に囚われてしまうのではないかという不謹慎な危惧までしたものだが、意に反して今度は彼は三日もすれば登庁した。
 呉夫人はその死に際し、孫権が西から帰還する以前に張昭を召し出し後事を託していた。まだ年若い孫権――とはいえ彼は既に孫策が没した年齢に達しようとしていたが――を任せるには十分すぎるほどの存在である。そして、孫権の周りには多くの優れた将たちがいた。
 彼女は慈愛のこもった笑みを浮かべ、眠るように亡くなった、と孫権は谷利に教えてくれた。


 ◇


「もう頃合いですよ、将軍」
 翌建安十三年、春の祝賀の宴席に於いて、甘寧は酒を注ぎに来た孫権にそう言った。ぱちりと瞬く孫権の表情を見た彼はおかしそうに笑う。
「ええと……」
「もうじき北の戦が終わります」
 すい、と甘寧の指先がどこか中空を指さす。チラリと孫権の視線はその示す方角を見た。甘寧の隣で不機嫌そうに眉をしかめた張昭と目が合って、孫権は苦笑を浮かべ甘寧に視線を戻す。口の端を上げ顎鬚を悠然と撫でる彼は、ね、と小首をかしげた。
「曹孟徳が南を向くのは時間の問題です。彼が荊州を略取するのを手を拱いて待っていてはいけませんよ」
 自信ありげにのたまう甘寧に孫権はしばし言葉を返せなかった。当惑する彼の様子を見て、甘寧は言葉を重ねる。
「いいですか、劉景升は絶対に動きません。そして彼ももういい歳ですが、その後継となる息子たちには彼の業績を継いで荊州を保ってゆくことは到底ままなりません。もし曹孟徳が南下すれば、今江北を席巻している彼の勢いに成す術なく飲まれ、荊州はついにその掌中に収められてしまうでしょう。そうなれば将軍、あなたはもはや西へ出ることも難しくなります」
 あなた様の仇敵を討つこともできなくなるのです――甘寧はすっと孫権の方へ手を差し伸べて、それをぐっと強く握った。
「どうぞ再び、急ぎ軍を西へ動かされませ! 黄祖を討ち、荊州を奪取し巴蜀の地を攻略する橋頭堡とするのです。幸い黄祖の軍は疲弊しており、にも関わらずその修繕は不十分であり、奴めは老いてますますがめつく陰険になりました。不誠実な老い耄れの薄っぺらい体が、あなた様の刃に貫けぬはずがないのです」
 呆気にとられた孫権は、はっと我に返るときょろきょろと視線を彷徨わせ、やがてぱっと俯いた。その様子に首をかしげる甘寧に、ぽつりと彼は言う。
「――今、あなたは黄祖の軍が疲弊していると仰いましたが、それは私が軍勢を三度も西へ動かし、無理に攻勢をかけたからです。疲弊するのは、我々の軍勢も同じことで……」
「それが?」
 やけに大きな声で、甘寧は返答した。
「それがどうしたと言うのです?」
 今度こそ孫権は開いた口がふさがらなかった。甘寧は心底から孫権の言うことが理解できない風であって、もしや孫権は己の伝えたいことがかけらも彼に伝わることがないのではないかと危ぶむ。
 孫権はぐいっと身を乗り出し、甘寧の顔を覗き込むようにじっとその目を見た。
「兵たちは! 兵たちもまた一人の人です。本当は――私のわがままにこれ以上付き合わせるのはいかがなものかと、自分でも思います。これ以上はもう……」
「いいえ。誰も気にしてなどおりません。あなた様にはあなた様の軍勢を動かす権利がある。そして我々はあなた様の戦士です」
「あの、興覇どの!」
「『これ以上』などということはありません、将軍」
 甘寧はぎょろりと見開いた目で孫権を見返した。
「上に立つ者が己の言葉で人を動かすことを“わがまま”とは言いません。それは我々にとって使命であり、絶対の指標であり、果たすべき目的です――我が君、孫討虜様」
 握りしめていた手を再び開いた甘寧は、努めて優しい声で、孫権を呼んだ。
「あなたが荊州を手にし、西へ向かうことを、そのために決死の覚悟で戦うことを、我々戦士は誰一人として、拒絶しません」

 何が彼にそのような言葉を吐かせるのだろう?
 何の根拠があって彼は孫権を西へ向かせるのだろう?

 初めて彼の堂々たる佇まいを目にしたときのように、孫権には彼が恐ろしく思えた。同時に彼の言うことは、これまでもたびたび己に向かって放たれた荒唐無稽な計略を想起させる。果たして西には何があって――そして誰かが、己を“何か”にするつもりなのだということを。
 そのとき、返す言葉を見つけられずに口をぱくぱくとさせる孫権と、言うべきことは言ったと満足げな表情を浮かべる甘寧の間に横から鋭い声が刺さった。甘興覇どの、と名を呼ぶのは、隣席で眉をひそめて二人のやり取りを聞いていた張昭である。
「其の方は江東に来てからまだ日も浅く、この地の情勢をまるごと知り得ているわけではなかろう。呉会に於いても民衆の安寧が全いとは言えぬ今、むやみな征西は呉会に於ける人心の乖離を招く」
 ぴ、と彼に指さされて甘寧は目を細めたが、やがてにやりと口の端を上げるとこれみよがしに溜め息をついた。
「張公、あなたは何のためにいるんです? かつて楚漢戦争で蕭何は高祖の留守を守り、後方からよく彼を補佐しました。我が君があなたを呉郡に残しその一切を預けるのは、あなたに蕭何の如き働きを期待するがゆえ。あなたにはそれだけの才があるのに、どうしてそのような弱音を吐かれるのです」
 彼の言葉に張昭は顔を赤らめる。その様子を見ていた孫権は、すとんと心の中で何かが落ち着いたような気持ちになった。
「ああ、そうか」
 ぼんやりとした口調で孫権が呟いたのに、張昭と甘寧は揃って顧みる。彼は二人を交互に、そして祝宴に参席する諸将をぐるりと眺めた。この日のために西から帰還した者、会稽の諸県から出てきた者、北方の警衛から戻った者、そして呉郡に留まり、或いは将軍府に詰めている者たち。
「私は一人ではないのか……」
 少し離れた席に坐する周瑜と目が合った。彼もまた、新年の祝賀のために鄱陽から戻ってきた一人である。彼は口許に笑みを浮かべ、孫権の独り言が聞こえたわけでもないだろうに、まるで呼応するかのように小首をかしげて頷いた。
 張昭と甘寧に向き直った孫権は、傍らに置いていた酒瓶を改めて掲げた。恭しく受ける甘寧と、促されて渋々といったように受ける張昭に彼は笑いかける。
「興覇どの、叱咤激励をありがとう。今年こそ黄祖を討ちます。こたびはあなたの軍も共にお連れしたく思いますが、許してくださいますか?」
「願ってもないこと! この甘興覇の剣は既にあなた様のためにあります」
 甘寧の言ににこりと笑い返した孫権は、次いで張昭を見た。
「張公、今のところはどうかご理解ください。あなたが後ろにいるから私は安堵して西へ行けます。呉郡をよろしくお願いします」
 さあ、と孫権は手を差し伸べ、二人を促す。
「どうぞその杯を受けてください。それを以て私の言を容れてくださったものとします――」
 二人が杯を飲み干したのを見た彼の口許は変わらずゆるりと弧を描き、細められた目には確かに歓喜が宿っていた。
「彼にかかずらうのはもうこれきりにしましょう。いい加減に先へ進まねば……父祖に怒られてしまいますから」


 ◇


 おかえりなさいませ、と家宰に迎えられ、周瑜は片手を挙げて返答した。上衣を預けると彼はそれを受け取りながら、蒋子翼様が参られました、と告げる。虚を突かれた周瑜は驚きの声を上げた。
「蒋子翼どの? 懐かしい名だな、久しぶりだ」
「いかがされますか」
「五日後にはまた西へ発つからね、明日の軍議の前に会おう。辰の正刻にもう一度いらしていただけるよう伝えてくれるか?」
 周瑜が自室に下がるのを見届け、かしこまりました、と家宰は答えて去って行く。その後姿を見つめながら、周瑜は今しがた聞いた名に思考を巡らせた。
 蒋幹、字を子翼は九江郡の人で、同じ揚州の舒県に住まいしていた周家とは旧知の間柄であった。周瑜も彼とは顔見知りだったが、己が孫策の下に馳せ参じてからは長いこと会っていない。
 ――その蒋子翼どのが急になぜ?
 風の噂に蒋幹が曹操の幕下に入ったことは聞いていた。蒋幹はその立ち振る舞いの堂々たる様、弁舌の立つことに於いては他に比肩する者もないと目され、曹操がその忠義を欲しがるのも当然と言える。むしろ曹操に対してやはり見る目のある男だと恐ろしささえ感じた。
「…………、いや……まさかな」
 口許に手を当てる周瑜は、眉をひそめてそう呟く。どこか思い当たる節があるのは、少なからず己もまた曹操と似たような考えを持っているからだろう。
 答えは明日の朝にわかる。周瑜はふとため息をつき、大きく伸びをして牀に向かった。

 翌朝、辰の刻に改めて呉の周邸を訪れた蒋幹は、平服に葛巾という出で立ちで周瑜の目を丸くさせた。逞しい体つきに庶民が羽織る服ではどこかちぐはぐな印象を受けるその様に、思わず首をかしげてしまう。
「お久しぶりです、蒋子翼どの。その出で立ちはどうしたというのです? あなたともあろう方が遊説家の真似事ですか?」
「あはは、手厳しい。いえ、私的な旅行の途中なのです。ちょうどこちらに寄りましたのでご挨拶をと思いまして」
 ああ、そうでしたか、と周瑜は答えながら蒋幹を正庁へ招いた。
「それならちょうどよかったですね。私は今鄱陽の方へ駐屯していて、呉へは新年の祝賀のために戻ってきただけなのです。四日後にはまた出ますので」
 周瑜の言に、それはよかった、と答える蒋幹の声は嬉しげである。正庁に用意してある食事の卓に坐らせるとやはり嬉しそうに、ちょうど腹が減っていたのです、と彼は微笑んだ。
 己も彼の向かいに腰を下ろして遅まきの朝食をとる周瑜は、丁寧な所作で飯を口に運んでいく蒋幹をチラリと見遣る。
「どういったものをご覧になられたのですか?」
「ここ呉郡が南端です。呉へは湖沼を見に来ました……とてもきれいですね。初めての来呉なので、邑が湖沼に囲まれているとは知りませんでした」
「ああ、美しいですよね。時季になると邑全体が白くけぶっておぼろげになってしまうこともあるんですよ」
 蒋幹はぱちりと瞬き、そうなのですか、と驚きの声を上げた。
 頷き返す周瑜は、いつかの呉の街を思い出す。春、霞がかった呉邑を登庁する周瑜の背後から伸びてきて目元を覆い隠した両の手。驚いて振り返る己に笑いかける孫策の気取らない表情。
 ずっと彼と共に生きていくのだと思っていた。
 それだのに彼に与えてもらった邸宅で、己一人ばかりが歳を取っていく。
「――公瑾どの?」
「あ、ああ、すみません。なんでしょうか」
 首をかしげて己を覗き込むようにしている蒋幹に慌てて取り繕うと、いいえ、と彼は軽く首を振った。
「お疲れのご様子。急に押しかけてしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、そのようなことは……」
「実のところ、あなたが難儀されているのではないかと危惧もしておったのです」
 その言葉に周瑜はいよいよ眉をひそめて首をかしげた。
 彼の言うには、今の討虜将軍の幕下にはあなた以上に才ある者がいるとも思えず、それがゆえあなたばかりに負担がかかっているのではないか、と。
 周瑜は目を細め、言いたいことは頭の中に間断なく浮かんでくるのにそのどれをも言葉にすることができずに黙る。彼を不快な気持ちにせずに済ませる方策が思いつかなかった。彼の思惑が何処にあるにせよ、確かに周瑜の身を案じてくれているには違いなかった――なぜなら、彼の際立つ弁舌はここに至ってもまだ鳴りを潜めているままであったから。
「……子翼どの。本日は食事が済みましたら、一度宿舎の方にお戻りいただけますか。私は少しばかり軍事で機密の用がございまして、それを終え次第改めてこちらから伺いたく思います。諸将とのすり合わせもありまして三日ほどかかるかと思われるのですが……ご予定は大丈夫ですか?」
「え? ええ、構いませんが……ちょうどそれくらいで去ろうかと思っていたところで」
 それはよかった、と周瑜はにこりと微笑んだ。
「ぜひご案内したいところがございます。きっとお気に召していただけるかと」

 そしてちょうど三日後の同時刻、周瑜は蒋幹の宿泊する旅館を訪れた。初めに周邸に招いて朝食をとった後、二人は連れ立って将軍府へと向かう。蒋幹が驚いて周瑜を見るが、彼は気にしたふうでもなく笑って、小門の傍らに立つ二人の将を示した。
 拱手して周瑜と蒋幹とを出迎えたのは董襲と凌統である。
「周前部大督どの、蒋子翼様。お待ち申し上げておりました」
 董襲が言うと、凌統も合わせて礼をする。慌てて礼を返す蒋幹に、周瑜は二人を紹介した。
「董偏将軍は孫討逆様の時代からの宿将で、その武名はこの呉、丹楊のみならず江東江南地域に広く知れ渡った猛将です」
「前部大督、それはおおげさです」
「いいえ」
 謙遜する董襲の言を遮って答えたのは蒋幹その人である。
「お名前は私も存じております。このような大きな人柄のお方だったとは」
 その言葉にたじろいだ董襲は、いや、と照れくさそうに頭を掻いた。それを見ておかしそうに笑う凌統を周瑜は改めて示す。
「こちらが凌行破賊都尉です。先頃の保屯、麻屯での戦役に於いて多大なる戦績を上げた、孫軍きっての若将です」
「し、周将軍~……」
 周瑜の言に困ったように眉を下げ肩を竦める青年に周瑜は笑い返す。ぺこりと頭を下げた蒋幹は彼らに向き直り、して、と首をかしげた。
「ああ、私があなたに見せたいものというのはこれなのです」
「これ……とは?」
「我々は明日から一路西へ向けて出陣します。討虜様の復仇のため……江夏の黄祖を討つ腹積もりです」
 蒋幹が目を見開く。劉表幕下の、と呟く彼に、周瑜は言葉を重ねた。
「彼ら二人の軍勢には、もう一人、呂平北都尉の軍勢と共に先鋒を務めていただくことになっております。その最後の準備の様子を子翼どののお目にもかけたく……二人には快く了承していただきました」
 周瑜に目配せされ、二人は頼もしく頷く。蒋幹は彼らの顔を交互にじっくりと見、再び手を拱いて深く礼をした。
「私のようなよそ者にまで、寛大なご配慮をありがとうございます」
「いいえ、周将軍のご友人に対してこのようなもてなしでよいものかと、こちらとしては不安ばかりですよ。では、どうぞこちらへ」
 董襲に促され、一行は将軍府から東の通りへ出て董襲の軍営へと向かった。

 軍営は慌ただしく、出陣前の賑々しさが満ちている。四方から確認の声、返答の声、また確認の声の応酬で蒋幹は恐る恐る傍らに立つ董襲を見た。
「ほ、本当に来てもよろしかったのですか?」
「ええ、構いませんよ」
 にこりと笑う董襲の姿に気づいた兵士たちが簡素な礼を交わし、また忙しなく軍事に戻っていく。その小気味よい行動を逐一目で追いながら、蒋幹はほうとため息を吐いた。
「元代どのの軍勢は討虜様の陣営の中でも特に規律正しく、精強な軍隊です。それはひとえに元代どのの将器のなせる業」
 周瑜の言に頷いた蒋幹は、次いで董襲に案内されるまま兵糧庫に寄った。こたびの行軍に用いる兵糧で、二月分ほど控えております、と董襲は口添えする。
「有事に備えてらっしゃるのですね」
「それもありますが、討虜様はなるべく多くの兵を捕虜とするように望まれますので。その分も浮かせねばなりませんから」
「ははあ……」
 主君の意向も組んで兵や輜重を編成する董襲を蒋幹は驚きの眼差しで見つめた。子翼どの、と背後から周瑜に声をかけられ肩を震わせて振り返ると、今度は彼の傍らに立つ凌統が、こちらへどうぞ、と微笑んでいる。
「次は凌公績の軍勢です。元代どのももう少しお付き合いいただけますか」
「無論。こたびの戦では一層団結せねばなりませんからな」
 そう答えた董襲は、数名の将を呼んだ。一般の兵卒よりも立派な防具を身にまとっているところから、蒋幹は彼らが部校尉か軍司馬であろうと推察する。蒋幹を見た彼らはきびきびと礼をし、よろしくお願いします、と気持ちの良い挨拶をした。
 そうして彼らは連れ立って、今度は董襲の軍営の隣にある凌統の軍営に赴いた。こちらでも忙しなく戦の準備が行われているが、董襲の軍営と違うのは、彼らの多くが雲梯や弩といった兵器の類いをせっせと運んでいる姿が見られるところにある。
「黄祖とはまず、これまでもそうであったように水上での衝突が戦端を開くものと思われます。ですから弓や弩、矢もありったけ」
 己の言に蒋幹が何度も頷くのに気をよくした凌統は、明るい声色で、こちらへ、と蒋幹を兵曹が働く倉庫へ誘った。中に用意している、数万本はあろうかという矢束を蒋幹に見せた凌統は自慢げに胸を張る。
「防具はどうかな? 公績」
「はい! こちらへどうぞ」
 周瑜に問いかけられた凌統は大股で倉庫の奥へ向かい、壁に立てかけられた大量の楯を示した。
「それから……成子法どの! 少しよろしいですか」
 兵曹に指示を出していた部校尉の成章が凌統の手招きに応じて駆け寄ってくる。今考えていることなのですが、と言い置いて、凌統は彼の鎧に触れた。
「少し体格がよく見えるでしょう? 防具を二重に着てみてもらってます。戦場では矢の応酬になるでしょうが、攻めあぐねているわけにもいきませんから。このようにすれば分厚くなって矢も通りづらくなりますよね?」
「そうだなあ。少し船が重くなるやもしれぬが」
「そこで、私が少数精鋭を率いて先行する方針を取ります。陽動と同時に本隊とは別行動を取ることによって相手を油断させる積もりです」
 凌統の自信に満ちた物言いに、周瑜や董襲、そして蒋幹もまた大きく頷いた。
「若々しく素晴らしい勇気だ。あなたのような将がいることは、討虜将軍にとっても心強いに違いないでしょう」
 蒋幹がそう言うのに、凌統は頬を赤らめて、そうですかね、とむずがゆそうに言った。その様子を見て笑う周瑜に凌統ははっと表情を引き締め、コホンとひとつ咳払いをする。
「周将軍に於かれましては、どうぞ“こたびは”討虜様と共に本陣にて安堵して戦果をお待ちください。我々が必ず黄祖の軍を破りますので!」
「…………言うじゃないか」
 得意満面の凌統に、苦笑する董襲。頬を引きつらせた周瑜は、目を丸くして青年将をまじまじと見つめる蒋幹に、こんな具合で、と取り繕うように言った。
「討虜様の麾下には彼らの他にも頼もしい将たちが数多おります。そのすべてをお見せできないのが残念でなりません」
「…………」
 周瑜の言葉に蒋幹は視線をきょろきょろと彷徨わせ、それからひとつ頷いた。

 董襲、凌統と別れた二人は周邸に戻り、昼餉を取りながら会話を交わした。時折周瑜は、孫権に遣わされた家宰は優秀でとか、先達ての戦役の褒賞にいただいたものがどうでとかそういう話をした。それらに頷き返しながら、蒋幹はただ黙って、笑って聞いている。周瑜はとっくに己の目的について察しているに違いなかった。そして己も、彼がそれに対してどう返答するかについてわかっている。
「ここはとてもよい土地なのですね」
 ぽつりと答えると周瑜は、ええ、と微笑を浮かべて頷いた。
「私はよい主君と同胞に巡り会いました。そうでなければ、私一人の才などどれほどのものでありましょう」
 周瑜は確かに蒋幹にまっすぐ目を向けたが、しかし、彼を通してどこか遠くを見つめている。
「彼らが私を欲しているのではない。私が彼らを欲しているのです」
「…………ええ」
「私は彼らを愛しています」
 ええ、と蒋幹はもう一度首肯し、そうして少し俯いた。
「……それは、よかった」
 腹の底から発せられたような、染み入るような言葉だった。それを聞いた周瑜ですら、目頭が熱くなってしまいそうなほど。

 愛している。
 彼らを愛している。
 己が一人ではないのだと、心からそう感じられる。
 蒋幹が今、このときに呉に来たのは巡り合わせだったのだろう。己の目が開き、春の霞は晴れゆく。
 孫策が、満面の笑みを浮かべている。

 蒋幹は昼餉を終えると、悠然と周邸を後にした。たった一度振り返って再び礼をしたきり、彼は見送る周瑜を顧みることはなかった。
 周瑜も、蒋幹が視界にいるうちにさっと身を翻して邸内に戻って行く。
 己もまた、西へ発つ準備を進めなければならない。


 ◇


 前部大督周瑜の下、孫軍の兵士たちは夏口に布陣する黄祖の水軍に相対した。
 先鋒を務める董襲、呂蒙、凌統の軍の中でも、凌統麾下の数十名の精鋭たちは常に本隊から数十里を置いて先行し、敵水軍が布陣をすっかり終えてしまう前に長江から涓水に入り、まだ戦いの準備の整っていなかった張碩の艘に突撃した。不意を打たれた張碩の軍勢は船上で取り乱し、威勢よく乗り込んできた凌統の軍勢に反撃の暇も与えられずに制圧され、張碩は斬られると共にその兵士と水夫たちのすべてを虜にした。
 艘ごと本陣に取って返した凌統は孫権に戦果を上言すると、すぐさま本隊に合流し、さらに呂蒙、董襲の率いる先鋒の軍勢に連なった。
 夏口の手前には黄祖軍の水軍都督、陳就が指揮を執る蒙衝が二隻、その巨大な側面を孫軍に向けて並んでいる。棕櫚で作った太い綱に石を繋いで碇替わりとして船が動かないようにし、船上には千人に登ろうかという兵士がそれぞれ弩を構えて代わる代わる矢を射ていた。
 色を失う兵士たちにも、将は余裕の表情を崩さない。
 董襲の率いる陣営から響き渡る陣太鼓の音に、凌統もキッと目線を上げて右手を掲げた。それを合図に凌統の陣営の鼓吹も高らかに陣太鼓を鳴らし出す。
「行くぞおおおっ!!!」
 鬨の声に軍勢は沸き立った。
 董襲、凌統それぞれの精鋭部隊の乗る舸船が蒙衝に向かって勢いよく漕ぎ出していく。蒙衝から一斉に放たれる矢を、船体の前方で楯を構えた兵士たちが死に物狂いで凌ぐ。一心不乱に突き進んだ二隻の舸船は蒙衝の腹に潜り込んだ。
「董将軍っ!!」
「オオッ!!」
 まっすぐに綱を目がけて、船は風のように進む。思惑に気づいた蒙衝の兵士たちが必死に矢を射掛けるが、将を守る楯は強固だった。
 身を乗り出した董襲が叫んだ。彼の剣があらん限りの力を込めて棕櫚の綱を切り裂き、どう、と音を立てて二隻の蒙衝は離れ離れになって流れ出した。
 孫軍の兵士たちが川面を波立たせるほどの大歓声を上げ、董襲、そして後方に控えていた呂蒙の軍勢が一挙に蒙衝に襲い掛かる。
「凌軍は岸へ上がれ! 夏口の城を攻撃する!」
「了解いたしました!!」
 右翼の凌統の軍勢はすぐさま全軍を川岸に寄せ、手早く上に重ねていた鎧を脱ぎ捨てると一気に下船し、陸上部隊として展開していた周泰の軍勢と共に夏口の城へと疾駆した。二軍の動きに気を取られた船上の兵士たちは同時に、背後から蒙衝にはしごを掛けて登ってきた呂蒙の軍勢におののいた。
「ち、陳都督を守れっ!!」
「遅い!!」
 乱戦の中を呂蒙の軍勢が一気呵成に駆ける。逃げを打つ間もなく、陳就は呂蒙に斬られ、孫軍は二隻の蒙衝を凄まじい勢いで制圧した。

 本陣に前線からの伝令が届いたのは午の正刻を少し過ぎた頃だった。
 周泰、そして凌統の軍勢に攻め落とされた夏口から身ひとつで逃走を図った黄祖だったが、騎兵の馮則が追い縋り、ついにその首級を挙げたという。泥まみれの馮則の体を抱きしめた孫権は、彼の差し出す首級を見て、涙をこぼした。
 どれほど長い間、この首を欲していただろう。思わず、父上、と口にした孫権を、将兵たちは慈しむように見つめている。
「周将軍、凌行破賊都尉の軍勢はただいま夏口にて捕虜をまとめております」
「そうか……そ、そうだ、蘇子雲の方はどうなった」
「はい。董将軍、呂都尉の軍勢が向かっております」
 伝令の返答に首肯した孫権は、彼を押しのけて眼前に現れた甘寧に目を丸くした。古巣の軍勢と彼の軍勢を当てることがためらわれ、前部大督の軍略支援の名目で本陣の守衛に当たらせていたのである。
 甘寧は渋面のまま孫権の足許に跪き、拳を地面に打ちつけて叩頭した。
「こ、興覇どの!?」
「我が君! 無礼を承知で申し上げます」
 何でしょう、と孫権はうろたえながらも問いかける。
「蘇子雲の首は、どうか俺に預けていただけませんか」
「え……」
 まじまじと見つめる孫権の視線を後頭部に受けながら、甘寧は必至の声色で、どうかお願いします、と重ねる。
 孫権は傍らに立つ周瑜の顔を見、それから甘寧に視線を戻した。
「……理由を伺います」
「蘇子雲は、俺が黄祖の下で身動きが取れずくすぶっていたときに、俺を邾県の長に推挙してくれました。そこから俺はこの江東へと逃れることができたのです。彼がいなければ俺は荊州で志半ばで倒れ、あなた様に巡り合うこともできないままだったでしょう」
 額を地面につけたままの甘寧の傍に孫権は膝をつき、そっと肩に触れた。
「そうして私が蘇子雲を看過したとして、もし彼が逃げたとすればどうしますか?」
「俺の首を斬ってください」
 返答は早かった。
「彼の代わりに俺を斬ってください」
「――顔を上げてください、興覇どの」
 その言葉に、ゆるりと甘寧が面を上げる。彼の目に涙の膜が張っているのを見た孫権は微笑み、承知いたしました、と言った。
「興覇どの、謝らせてください。私はずっとあなたが恐ろしかった。あなたの考えていることが……あなたがお持ちのものが何であるのか、知るのが恐ろしかったのです」
 小さく首をかしげた甘寧だったが、孫権が言葉を続けるのに黙って耳をかたむける。
「あなたが身ひとつでこの江東に出てきたものとばかり思っていました。でも、そうではなかったのですね……誰も彼も、ただ一人きりではなかったのだ」
 孫権の表情は実に晴れやかだった。
「蘇子雲の命はあなたのものです。あなたがその身柄を責任を持って引き受けてください」
「…………ありがとう、ございます……!」

 単騎、甘寧は夏口へ走った。川沿いの草原を駆け抜けて行くその背を見届けながら、孫権はほうとため息を吐く。
「……お疲れになりましたか」
 肩の後ろから周瑜が尋ねるのに孫権は首を振り、肩の荷が下りました、と言った。
「父祖の戦が、ようやっと終わりました。これからは……」
 孫権はその先の言葉を紡がなかったが、周瑜、そして脇に控えていた谷利とは彼の言わんとすることを察していた。
 川面を静かに揺らしていた風が、遠く晴れ渡る青い空を見つめる、彼の赤い髪を優しく梳いていく。

 建安十三年、春。
 これから、孫権の戦が始まるのである。