諸葛瑾、字を子瑜には弟が二人いる。一人は名を亮、字を孔明といい、一人は名を均、字を公整といった。

 曹操によって引き起こされた徐州の戦乱から逃れるため、兄弟の叔父である諸葛玄に率いられた一族は豫章を経て荊州の劉表の下へ拠ったが、その後諸葛瑾は単身、友人である厳畯の招きもあって江東に出てきた。そこで彼はまた一人の同郷人であり生涯の友となる歩騭と出会う。彼は、それまで江東に割拠していた孫策の亡き後を継いだ孫権の将軍府に招かれていたが、病を得て免官になり曲阿に寓居を構えていたのであった。
 歩騭の勧めで、諸葛瑾たち三人は呉郡へ出てきた。幸いにも諸葛瑾は曲阿で孫権の異母姉の夫君の知遇を得ており、厳畯は孫権の将軍府の重鎮である張昭と同郷であったこともあって、それぞれ孫権のもとへ推挙されることとなった。
 そうした所以があって、諸葛瑾、厳畯、病が快方に向かった歩騭の三名は揃って討虜将軍府に出仕することになったのである。

 諸葛瑾、そして厳畯はそれぞれ、この出仕が好機であると考えていた。未だ世の趨勢定まらず、江の北では故郷を兵馬で蹂躙した仇敵とも言うべき曹操がその版図を着実に拡大している。江東の地は中央から距離を置いたその地の利ゆえ、孫策の弟である孫権は曹操の上表のために将軍位に就いたとは言え、その魔手がさほど及んではいない地域だった。何より先達の孫策はただ時の皇帝、献帝のためにのみ働き、いわば曹操の手先とは違う者であったようである。彼の遺志を継ぐ将軍府の将兵たちもまた自立的であり、ただ曹操の一存によってのみ動くものではないだろうと彼らには察せられた――彼らは、曹操に与するわけにはいかなかった。
 しかし将軍府の内部は、彼らが期待していたものとは大きく違っていた。聞くところによれば、歩騭が病を得てしまったのはその落胆も原因のひとつであるという。
 孫権の開いた将軍府は、必ずしも討虜将軍を中心に据えて府全体が動いているというわけではなかった。恐ろしいことに、長史である張昭や中護軍として軍事の要である周瑜には礼儀正しく接しても、その長たる討虜将軍である孫権については軽んじているような態度を取る様子が多くの官吏に見られた。かつて孫権の主記室史であった歩騭は、陰で心無い官吏たちから孫権に対する雑言を吹き込まれ、それが重なって滅入ってしまったのであった。孫権の姉婿の推挙があって彼の賓客となっている諸葛瑾の周囲ではなかったことだが、どうやら厳畯の周りではかつて歩騭の置かれた状況と同様になることが少なからずあるという。
 あるとき、孫権の側仕えだと思われる青年が、官吏たちの集まる室を憎らしそうに睨みつけているのを諸葛瑾は遠目から見かけた。結局彼は通りがかりだったようで何をするでもなくその場を立ち去ったが、その様はなんとも物寂しく、心もとなく彼には思われた。
 同時に、一体どれほど孫策という男の力が強大であったかを、先代のことは他人事のように感じていた諸葛瑾らも思い知った。政堂のそこかしこに差す影は、孫策の死を色濃く反映している。誰もが――それは実弟の孫権も等しくかの男に囚われ、先に進むことができないでいるかのようであった。
 それでも孫権は笑みを浮かべて、心底から喜ばしいと言うように弾んだ声で諸葛瑾たちを迎えてくれる。私は皆様方お一人お一人に力を尽くして仕えたいと願うと言う、九つほど年の離れた――諸葛瑾は孫策よりひとつ歳上で、孫権は諸葛亮よりひとつ歳下であった――己よりもよほど若い彼の言葉に、諸葛瑾は自身が考えている以上に心を震わせていた。

「やあ、初めまして。俺は魯粛、字を子敬と申します。周君の招きで東城よりこちらに出てまいりました、以後よろしく」
 周瑜の推挙で討虜将軍府に出仕することにしたという、諸葛瑾と同じく賓客として迎えられた魯粛は、実のところ孫策の生前にも一度彼の将軍府に召し出されていた時期があったという。そのときは一月もしないうちに祖母の訃報に接し心寂しくも呉を離れていたが、こたび改めて出仕の機会を得たとのことだった。
 差し出された大きくて分厚い手は、諸葛瑾のほっそりした手先にはあまりにも力強く感じられる。
「私は諸葛瑾、字を子瑜と申しまして……」
「ええ、お噂はかねがね存じ上げておりますよ。厳曼才どの、歩子山どのも同様に。お三人は仲がよろしくてらっしゃるのでしょう? 張先生も実に優秀で良い人材を揃えられましたな」
 一を言えば十を畳み掛けられるような、そんな男だ。諸葛瑾は一目見て“苦手な人だな”と思った。何より彼の言葉の隅には、己たちを小馬鹿にするような響きが感じられる。
「――そちらも、周中護軍どのの再度のお招きでいらっしゃったそうですね。東城とは北にも近い地ですが、彼がいなければそちらに向かっていたものでしょうか。南に来られたのはどういった思惑で?」
 諸葛瑾の返しに、魯粛は片眉を上げて少し口許をむっとさせた。言ってやったぞ、と諸葛瑾は柄にもなくせいせいした気持ちになる。己らには許しがたい仇敵と、なすべき使命がある。その矜持を軽んじられるのは我慢ならなかった。
「あなたほどの人物なら、曹孟徳も欲しがったでしょうに」
「――俺はね、子瑜どの。面白いことが好きなんですよ。南はすっごく面白そうだ。それだけです」
「……はあ」
 ニヤリと笑う魯粛に思いがけない返答をもらって、諸葛瑾は思わず呆れたように嘆息してしまう。
「では、その面白い事柄がすっかり終わってしまえばすぐにも去ってしまわれるので?」
「そう簡単に終わるもんかい。どれほどの艱難辛苦が待っていると思います」
 ずい、と魯粛は諸葛瑾の顔に彼の顔を近づけた。つい身を引きそうになるが、どうにか堪えて睨み返す。
「おしとやかで真面目なだけなら、そんな程度のつまらない人は将軍のお傍にはいらないんですよ。そのくらいわかるでしょ?」
 ――全体、お前に討虜将軍の何がわかるのだ。
 諸葛瑾は内心で力の限り彼を突き飛ばしながら、顔には必死にからからの笑みを浮かべていた。
 結局のところ魯粛は、その振る舞いの傍若無人さを張昭に見咎められて少なからず長い時期を冷遇されて過ごすことになるのだが、後になって思えばそれは必要な時期であり、いわゆる雌伏の時であったということだろう。
 魯粛にとっても、孫権にとっても――
 諸葛瑾は思い出す。討虜将軍府に新たに招かれた士大夫たちを客人に迎えた宴席が孫権によって催された日の夜のことを。
 盛会裡に宴が終わり、客人たちが孫権に見送られぞろぞろと回廊を帰って行く中で、曲がり角を曲がった途端に魯粛は立ち止まった。そのことに気づいたのは諸葛瑾だけで、振り返ったときには魯粛はすでに彼らしい不遜な表情を浮かべて諸葛瑾を見つめていた――少し、鬱陶しそうに。
 どうかしたかと尋ねる己に彼は、月が綺麗だから少し見ていく、と囁くような声色で言う。回廊から同じように空を見上げた諸葛瑾の目には、ほっそりとした眉月が映った。
「ああ、そうですね。凛としてなんとも風情のある」
「ご友人がお待ちでは? 子瑜どのは早くお戻りになられるがよろしい」
「…………やけに冷たいのですね」
「俺ならこのくらいがちょうどいいんですよ」
 魯粛は、またしてもニヤリと笑う。諸葛瑾はその顔が嫌いだ。俺の考えなど、お前の手の届かない遥か高みにあるのだと突き放されているようで。
「わかりました。では精々、お体を崩しませんように」
「丈夫なだけが取り柄です。お気遣いありがとう」
 諸葛瑾はさっと身を翻して魯粛の前を辞去した。道中お気をつけて、と背中にぶつかる彼の声に振り返りもせずに。

 その翌日から、魯粛は妙に諸葛瑾に構うようになった。いや、彼のみならず厳畯や歩騭に対しても馴れ馴れしい調子で、三人はどこか彼の振る舞いを気味悪がっている。
「皆様方は俺のことを邪険にしないから」
 ニコニコと笑う魯粛は言う。三人は、孫権の味方であるなら魯粛については取り立てて目の敵にすることもないだろうと考えていたから気にしていなかっただけなのだが、そんなら一層いいですね、と彼はよけいに気を良くしてしまった。


 ◇


 建安十三年八月、荊州に権勢を保っていた劉表が病没した。前月に曹操が劉表征伐と称して軍勢を南下させ始めてから、未だその敵影が本拠地である襄陽から見える前のことである。
 彼の後継として立てられた劉琮は次男だったが、長男の劉琦については劉表の配下であった蔡瑁と張允の二人が謀って劉表の傍らから遠ざけたため、結局彼は親の死に目にも会えぬまま失意の内にその当時荊州に拠っていた劉備――と言うよりはその幕下にあった者の入れ知恵であるが――の庇護を得て襄陽を後にすることになる。

 当然、劉表の訃報は孫権の下にも届いた。孫権はそのとき黄祖征伐後の軍勢を従え江夏を退き、廬山の麓、柴桑県に本拠を構え、文武の官僚たちを集めていた。劉表死すの報が麾下の一切に知らされるなり、いち早く孫権の名代として荊州に“弔問”に行きたいと名乗り出たのは魯粛である。このときばかりは彼も強硬な態度に出た。彼らの誰にも考える暇を与えぬほど速やかに、西へ向かう道を拓く露払いとして。
「“我が君”、どうぞわたくしにお命じください。無官のわたくしであればしがらみもなくどこへなりと行けましょう」
 己をじいっと見つめる魯粛の双眸に、孫権はあの日の宴の夜を思い出す。
「わたくしが聞き及びますところ、劉表の配下たちは二人の兄弟たちのどちらを後継にするかで相争い、その結束は脆弱です。曹操は必ずその不意を突き、今に荊州をその名士たちごと掌中に収めてしまうでしょう。ですが、それでもその手から逃れ、零れ落ちるものがあります」
「……それ、とは」
「劉玄徳」
 ニヤリ、魯粛は笑う。
「いずこより来て、いずこへ向かうやら、得体の知れぬ男です。兵を率いれば精強、民を率いれば優柔。しかし必ずあなた様の頼りとなります。彼を使わぬ手はありません。急ぎわたくしめを荊州に向かわせられませ」
 孫権はゴクリと息を飲んだ。ここで己が発した言葉ですべてが動き出すことを、否応なく体全体で感じてしまった。彼の様子を見て取った魯粛は今度優しげな笑みを浮かべ、恐れることは何もありませんよ、とささやくような声で言う。
「わたくしはあなた様の眼となって荊州をつぶさに見てまいりますよ」
「…………、……わかりました」
 よろしく頼みます、と孫権は言った。張昭が横から、
「魯子敬はその振る舞い荒唐にしてあなた様の名代とするにはいささか不足かと」
と釘をさすが、肩を竦めた魯粛は取り合わず、では失礼、とさっと立ち上がって政堂を後にしようとする。魯子敬、と張昭は怒鳴り声を上げたが、それを制したのは孫権だった。
「張公、こらえてください。子敬どの、くれぐれも、よろしく頼みます」
 重ねられたその言葉に魯粛は慇懃に振り返り、もちろんです、と頼もしい声で言って今度こそ政堂から辞去した。

 柴桑邑の城門から馬に乗って走り去る魯粛とその供たちの後ろ姿を見送りながら、孫権は斜め後ろにじっとして控えている谷利の名を呼ぶ。
「我々が許へ行ったのはいつだったろう」
「九年前です」
「……もうそんなになるのか」
 嘆息する孫権は、曹孟徳という男は、と続けた。谷利は彼の言葉にじっと聞き入る。
「小柄な男だった。気さくに笑い、声も張りがあっていかにも調子の良さそうな、気の良い男の風情があった。――だが、それは外見だけの話だ」
 彼が拳を握りしめるのを見た。
「主のいない玉座の前に悠然と坐し、宮城を堂々闊歩する様はさながら王者の風格だった。彼はその実、大きく、そして深い。……私は曹孟徳が恐ろしい」
 きっと世の中を変えるのはああいう男なのだ、と孫権はぽつりと呟いて、くるりと踵を返して足早に城内へ去って行く。小走りでその後を追いかけながら、谷利は孫権の背中を見つめ続けた。


 ◇


 魯粛が夏口の地に到着したとき、住民の間に曹操が既に荊州の地へ兵を差し向けたらしい、との噂が流れているのを聞きつけた。一刻を争う事態に一行は昼夜を問わず馬を走らせたが、南郡の華容県まで到ったとき、ついに劉琮が曹操に降伏し、劉備とその一団、そして彼を慕う十余万の民が襄陽郡を這う這うの体で脱出し、南へ向かっていることがわかった。
 思わず舌打ちが出る魯粛に、後ろから声がかかる。
「魯子敬様、いかがされます。劉備の背後には曹操の一軍も迫っているかと思われますが……」
 供の一人である李悌が尋ねるのに、間髪を入れず魯粛は、北へ向かう、と言った。
「民を十余万も連れているんじゃ劉備らの歩みは鈍い、今から向かえば当陽の辺りで落ち合うことができるはずだな。そうだ鮑君、君には一度戻って、我が君にこのことを伝えてほしい」
 もう一人の供である鮑楷にそう言うと、魯粛はすぐにも馬を駆ろうとする。慌てて鮑楷は静止の言葉を叫んだ。
「まさか、戦をなさるおつもりではありませんよね? 我が君の了承も得ず、それはあまりにも勝手が過ぎます。それに、呉会、丹楊の山越どもが北の動きに呼応して蜂起しないとも限りません」
「山越なら賀公苗や陸伯言がうってつけだろう。だから呉郡に彼らを残しているんじゃないか。あのな、鮑君。事態は一刻を争う。曹操に江東が踏み荒らされてからでは遅いのだ!」
 いよいよ魯粛は痺れを切らしたように馬に鞭を打って、北へと走り出した。
 そんな、と呆気に取られたように呟く鮑楷に、李悌は頬を掻いて、まあなんだ、と取り繕うように言葉を紡ぐ。
「……よろしく頼む。俺も子敬様から目を離さないから」
「……ちくしょう、わかったよ!」
 そうして二騎はそれぞれの向かう方角へと走り、李悌は程なく魯粛に追いついた。
 彼らは一心不乱に江陵県の北、当陽県を目指したが、やがて当陽県の南十数里のところにある森林部が見えてきたところで異変に気づいた。
「なにか……くさい。木が焼けたようなにおいがします」
「うん。北からで間違いなかろうな」
 李悌が顔を顰めるのに、魯粛も鼻を手で覆う。森林部の向こう側はなだらかな山の裾野が広がっており、そこを越えたところに当陽県の城邑があるはずだった。
 二人は思いがけない変事に馬を停め、目を凝らして北の森林地帯を見つめる。
「あ!」
 その生い茂る木々の向こうから、黒々とした煙が上がった。幾筋も太く広がり天に昇っていくそれを、魯粛と李悌はぽかんと口を開けて見つめるしかない。
「まさか、当陽が焼き討ちに……!?」
「いや、だが少し東にずれているような……あっちは漢水か?」
 二人の視界が少し東へ逸れたとき、その隅で何かがチラリと瞬いた。いち早く李悌がそちらに目を遣る。じっと眼を見開いて凝らすと、今度は耳も冴えてきた。何かが、走ってくる足音。――馬の蹄が土を蹴る音だ。
「子敬様、下がって! 何か来ます」
「何か?」
 李悌は己の馬を魯粛の馬の前に歩かせ、腰に提げていた剣を抜いた。街道沿いを素直に走っていた二人の周囲に身を隠せるような陰はなく、李悌はただ歯を食いしばって前方からやってくるであろうものに――それが例えば曹操軍の軽騎兵であれ――備えることしかできない。
 こくん、と魯粛が息を飲むような音が李悌にも聞こえた。いよいよ蹄の音は確かな意志をもって森林地帯を南に向かってくることがわかる。
 ついに木陰の向こうに、木漏れ日に照らされて駆けてくる騎兵たちの姿が見えた。

 どう、と木の葉や枝を撒き散らして、烈風のように森の中から飛び出してきたのは数十騎の騎兵隊だった。
 土埃を上げ、馬が力強く地面を踏みしめて走ってくる。その先頭を行く者の馬は、額から鼻先に掛けて真白い模様がある的盧馬だった。

「そこをどけえーっ!!」
 的盧馬の乗り手が叫んだ。李悌も負けじと誰何する。
「お前たちは何者かーっ!!」
「名乗る名などない!!」
 彼はそう返す。迫り来る騎兵隊を睨みつける李悌の背後から魯粛が叫んだ。
「俺たちは江東の孫会稽様の名代で劉荊州の弔問に来た!!」
 その言葉に的盧馬の乗り手は明らかに狼狽え、その勢いを失速させた。躓きそうになる後方の数騎の乗り手に片手を挙げるだけで謝罪し、騎兵隊は魯粛と李悌の前でついにその足を止めた。
「孫会稽と言ったか?」
「ああ。劉荊州が亡くなったと言うんでね。我が君は今動けないから、代わりに俺が来たのさ。俺は魯粛、字を子敬という。東城の者だ、まあ今は呉郡の者だがね」
 魯粛の弁に、的盧馬の斜め後ろにいる粗野な見た目の青年がぴくりと反応する。魯粛はそれを視界に入れながらも畳み掛けるように続けた。
「あんたたち、北から来たなら襄陽が今どうなっているか知っているか? あの煙は当陽から上がったものかな?」
「違う。俺たちが長坂橋を焼き払ったんだ」
「なんだって? そんなら迂回しなくちゃいけない。面倒なことになったな、なあ李君」
 どこか芝居掛かったふうの魯粛の様子に、李悌は眉を寄せながら頷き返す。橋を焼いて落としたと自白する不届き者の一団を目の前にしながら、魯粛には一切の恐れが見えない。
「見たところあんたたちは先を急いでいるようだが、どこへ行くつもりなんだ?」
「ああ、蒼梧郡の広信に……そこの太守とは昔馴染みでね。厄介になるつもりだ」
「蒼梧! 一体どれだけ山を越えるつもりなんだ。何から逃げるにしたって、あんたが本当に頼りにするのは呉蒼梧どのでいいのか?」
 のしのしと馬を歩かせて己の目の前に出てきた魯粛に、的盧馬の乗り手は目を剥いて、何を言う、と答える。魯粛は馬上から身を乗り出すようにして的盧馬の男ににじり寄った。
「そんな奥に引きこもったら天下の趨勢を見逃してしまう。その隙に、曹孟徳は一体どれほど大きな国の領主となっているだろうね?」
「お前……、……俺が誰か知っているな?」
「もちろんさ、劉豫州どの。そしてあんたが交州なんかで無聊を託つような人物じゃないってことも」
 的盧馬の乗り手、劉豫州――劉備、字を玄徳。魯粛の不敵な笑みに引きつった笑いを返した彼は、それなら俺たちをどうするつもりだい、と魯粛に問いかけた。その言葉を待っていたと言うように、魯粛は大仰な仕草で己の右手をすいと東へ差し向ける。
「今、我が君は柴桑に軍を置いておられる。北方の情勢を窺うためにね。立ち話もなんだから、とりあえず江夏へ向かわないか? 曹孟徳の軍勢がすぐそこまで迫っているんだろう?」
「ああ、そうだが……」
「主公」
 魯粛の誘いにまだいまいち乗り気でなかった劉備に、彼の斜め後ろから声がかかる。振り返った彼は小首をかしげ、まるで子供に問いかけるような仕草で声をかけた青年に、どうした、と尋ねた。
「江夏はいいですよ。劉伯瑰どのがいらっしゃる」
「ああ! そうだ!」
 パシンと劉備は手を打った。面食らう魯粛に振り返った劉備は、江夏へ行こう、と人好きのする笑みを浮かべて高らかに言った。
「劉伯瑰、黄祖亡き後江夏に来た劉荊州どのの長子だな」
「そう、とんでもない奴らがいたんだよ。その話もおいおいしよう、さあ江夏へ向かおうじゃないか!」
 手綱を引かれた的盧馬が甲高くいななく。案内してくれ、と言われて魯粛が先導しようと馬の鼻面を東へ向かせるのに、李悌も慌てて先行した。

 道中、劉備は魯粛たちに語った。
 曹操の下から逃げて劉表を頼った劉備の一団は彼の言いつけに従ってしばらく樊城に駐屯していたが、劉表の死後、その後継となった劉琮は劉備への伝達もないまま曹操に帰順を申し入れたらしい。らしいというのは、用間の者から曹操軍が既に宛城まで来ているということを知らされた劉備たちが、城を捨てて南に転進する途上で襄陽に寄り劉琮に面会を求めたものの彼はついに劉備の前に姿を見せずじまいであり、曹操が背後に迫っていることもあって、結局劉表の墓に別れだけ告げて荊州からの一刻も早い逃走を図ったためだという。
「あんまりじゃないか、なあ。俺は孟徳の敵だと彼は重々承知してくれていたはずなんだよ。まるで贄か見殺しにされている気分だった」
「それでも民や多くの兵卒があんたを頼ってついてきたのだろう?」
「それも皆、当陽で散り散りになった! 母親が孟徳の兵たちに捕まったせいで俺の下を離れた賢者もいる! 俺の妻も一人死んだそうだ……見てないから、もうわからんが」
 劉備の心底悔しそうな声は、馬上からでも遠く響いた。
「――孟徳に捕まるくらいなら、俺は何にも要らないさ。史書に遺せるただ俺の名だけあればいい。でも……できるなら、後ろのあいつらは全員ほしいけど」
 彼が言うのは、後続の騎兵たちである。曰く、もう一人は水路で先行させており、その船団とは漢津で落ち合う予定だという。
「あんた、わがままだし、随分と業突く張りだね」
「やかましい。孟徳なんかこれ以上だ、俺程度じゃ話にもならない」
「はは、困ったな、我が君とはまるで違う」
 頭を掻く魯粛の不穏当な発言に眉をひそめる李悌。どういうことだい、と劉備が問いかける。
「当主になって八年経つが、ようやっと父祖の復仇を果たしたばかりでね。これで一息つけるかと思ったところにこの騒ぎだ。孫討虜様はね、初めは何も……何もとは言わんが、自分のものをほとんど持ってなかったんだよ。この八年間で失くされたものもそりゃあ多い。だから手始めに国をあげたかったんだが」
「そこへ孟徳が来たわけだ。心中お察しする」
「あんたも身の置き所がないからわかるだろう。そんなときに一人じゃないことがどんなに心強いか」
 今すごく心強いよ、と劉備は言った。それに応えて魯粛は頷く。
「なんでもかんでも、初めは人だ。国だけあったって話にならない。だけど、拠り所だってなくちゃならない。劉玄徳どの、承知しておいてくれ。俺は討虜様の土地を守るためならあんたを楯にしたっていいんだ」
 その言葉に息を飲んだのは李悌の方で、劉備は魯粛を見て哄笑した。
「いいぜ、魯子敬。俺だってこいつらを守るためならあんたの話にも乗ってやる」

 漢水で別動隊の船団と合流し、江夏郡まで下がったところで彼ら一行を出迎えたのは、江夏太守・劉琦の率いる一万の軍勢だった。どうやら曹操が南下し劉備がそれから逃げているという話は江夏へも伝わっていたようで、劉備は手を叩いて喜ぶと、まずは共に東へ退こう、と夏口へ転進した。
「孟徳の軍の大将は曹子和と文仲業だ」
 曹子和は名を純といい、曹操の従弟である勇将・曹仁の異母弟である。曹操の近衛として虎豹騎を率いる彼とその軍勢は、先の官渡戦役では袁紹の長子・袁譚の首を挙げ、北方の烏丸征伐では遼西の蹋頓を生け捕りにしたという精強な騎兵たちが揃っている。他方、文仲業、名を聘はもとは劉表の麾下にあって北方の守備を務めていた将である。劉琮の帰順後しばらく曹操の下に出頭しなかったものの、その優秀さと誠実さを買われて今回の荊州侵攻戦に於いて兵を授けられ、攻撃に加わったという。
「文仲業どの……彼は実に用兵に長けて兵たちの信頼も厚い良い将です」
 劉琦が言うのに、やめてくれよお、と劉備は彼の肩を気安く抱く。
「子和でさえおっかないのに、この上孟徳の下に良将が集まるなんてなあ」
「世の中はそういう仕組みになってる。現にあんたのところにだって良将が集まっているだろう?」
 もちろん我が君の下にもね、と魯粛が言うのに、違いない、と劉備は笑って返す。
 一行は沙羡県まで退くと、今後のことを話し合った。まず南下してきた曹操の軍勢は二十数万はあるだろうとの見立てであり、これに対抗するには劉備・劉琦の軍勢を合わせた一万余では到底足りず、やはりどうしても柴桑に駐屯している孫権の軍勢を恃みにしなければならないとのことである。
 そこで魯粛は、自分に誰かそちらの使者を預けてもらえれば必ず我が君の承諾を取り付けてくる、と大言壮語を吐いた。これに驚嘆したのは随行していた李悌である。孫権の承諾を取り付け劉備軍と盟約を交わすということは、孫権の周囲にいる官吏たち――それは得てして張昭個人のことを名指ししているようなものだったが――をも説得しなければならないということだった。
 その難度がわからない劉備たちには首をかしげるばかりだが、必死に訴える李悌に魯粛は、まあなんとかせねばならんな、と言った。
「なんとかせねばならんでは……! 大体、こうして劉玄徳どのの軍勢を我が君に無断でここまで連れてきたのすら譴責を受けかねない所業です!」
「譴責はないよ、俺は無官だから」
「そういう問題ではありません!」
 急に言い争いを始める孫権軍の使者たちを仲裁するように劉備は割り込み、俺にこんなことをさせるなよ、と苦笑して二人を交互に見た。
「こっちからは孔明を出す。ま、お前と同じ無官の使者だ。でもうちではまあ、一番頭が回る奴なんでね」
 孔明、と呼ばれてのそりと歩み出てきたのは、的盧馬の斜め後ろにいたぼさぼさ頭の青年だった。
「これでだめなら、もうだめだ。俺は孟徳に降って死ぬ。或いは身ひとつで逃げ出すかもな――孫討虜の土地も道連れになるだろうが」
「おいおい、ふざけてくれるなよ」
 肩を竦めた劉備は、孔明という名の青年の肩を力強く叩いた。
「イタ! ……諸葛亮、字を孔明です。……微力を尽くします」
「本当に微力だけ尽くしそうな気魄だなあ。君、もしかして兄はいるかい?」
 からからと笑う魯粛にそう尋ねられ、はあ、いますが、と諸葛亮は首をかしげてそう返す。
「それは子瑜どのかい? 俺は彼の友人なんだ」
「はあ……」
「それなら話が早いな! 孔明、お前さんの兄貴の力も借りるといいよ」
「はあ、でも……」
 兄はそういうのは嫌いなので、と諸葛亮は劉備に対してすげなく返した。そうなのか、と不思議そうに言う劉備を横目に、諸葛亮は魯粛に向き直る。
「あなたも別に兄の友人じゃないでしょ? 兄はあなたみたいなのが一番嫌いですから」
「…………かっわいくないな、お前……」
 一応おんなじ立場だよ、と魯粛は取り繕うようにそう言った。


 ◇


 柴桑県に戻った魯粛と李悌、そして諸葛亮を出迎えたのは、先に戻っていた鮑楷と、誰あろう諸葛瑾であった。
 諸葛瑾は魯粛の隣にある弟の姿に目を丸くすると、久しぶりだな、と言うだけで旧交を温めることもなく、すぐに魯粛を見た。
「すぐに政堂へ。あなたの発言は張公が許さないでしょうが、同席くらいは構わないでしょうから」
「ちょ、ちょっと待て、何があった?」
「亮、お前は正庁に待機していなさい。話は長くなるだろうから日が沈んだら旅館へ向かうように。鮑君、すみませんが手配をお願いできますか?」
 もちろんです、と鮑楷は答え、すぐに戻ると言い置いてさっと足早にその場からいなくなってしまった。
 動じる様子のない諸葛亮とは反対に、魯粛は諸葛瑾に詰めている。諸葛瑾は彼をぎっと――温和な面立ちで精一杯に――睨みつけると、これまで何をされていたのですか、と険しい声で尋ねた。
「あなたが放蕩をしている間に、我が君の下へ曹孟徳からの書簡が届いたのです。足下に帰順せよと」
「なんだって!」
 李悌が悲鳴のような声を上げる。
「だめだ」
 色を失う魯粛の横で、諸葛亮がやにわにそう言った。
「兄上、だめです」
「だめだよ、だけど……今、我が君はお一人だ」
 諸葛瑾のやわらかな面が、悲痛そうに歪む。魯粛は口許に手を当てたまま、必死に思考を巡らせた。

 孫策の死の影が振り払われた江東に、日が射す間もなく曹操という名の分厚い黒雲が北から拡がり始める。
 彼を忌み嫌う者にすら、それはどうしようもなく、空が覆われていくのを見ていることしかできない。
 誰も彼も、天には手が届かない。