――近頃、南方の朝敵を征伐せんとて軍を南進させたところ、劉琮は抵抗することなく恭順の意を示した。我が旗下にはついに水軍八十万を治めることになったが、次の機会には討虜将軍と呉で狩りでもしてみたいものである。

 曹操より送られてきた書簡にはそのようなことが書いてあった。
「水軍は狩りには向いていないんじゃ……」
「……ふ、あはは! 違う違う、そうではないぞ、利よ」
 シンと静まり返った政堂では、思わず口を突いて出た谷利の小さな呟きは傍らの孫権にはよく聞こえたようだ。彼は場違いにも高らかに笑い、谷利の方へ体を傾ける。
「狩りとは往々にして己の身の安寧が約されたところでしかせぬものだ。曹孟徳は呉を己が足下に置くつもりなのだよ」
 谷利はしばらく考えて、ぱっと孫権の顔を見た。彼は薄く浮かべていた笑みを引っ込めると、ふい、と谷利から目線を逸らす。

 ――呉が曹操のものになる?

 全身から血の気が引くような心地がした。それは谷利がまだ郷里にいた頃、孫策の侵攻に実感のないまま抗戦していた若かりし日とはまるで違う重量を持っていた。
 殿、と苦々しい声で孫権を呼ぶのは張昭である。孫権がそちらを向くのに合わせて、谷利も彼を見遣った。そうだ、張昭ならこんな不誠実な行いは言葉を尽くして弾劾してくれるに違いなかった。孫策の幕下にあって彼の治政を補佐し続け、よく見知っている張昭ならば。
「……ここは、曹孟徳の申し入れを受諾するが最善かと思われます。かの者の意図がいかに悪逆であれ、その名分はあくまでも漢王室を輔弼する丞相。その曹孟徳に逆らえば、この上中華の安寧は遥かに遠退いてしまいましょう」
 ガツン、と、谷利は頭蓋をしたたか打ちのめされたような衝撃を得た。目を剥き、開いた口が塞がらない。張昭はその口で孫権に、曹操の下に降れと言ったのだ。
「私も……それがよろしいかと存じます。北方で袁家、そして烏丸の民を打ち破った曹操の軍の精強さは明らか。抗せば江東の兵や……民たちを無暗に失いかねません」
 病を押して軍議に参加した秦松も、眉根を寄せてそんなことを言う。孫権は無言で視線を群臣たちに巡らせた。誰もが二人の言に頷き、それがよろしい、と口を揃える。
 張昭、そして秦松の二人は特に、孫策の時代よりその智謀を軍事、政事に迸らせてきた功臣である。彼らはまた孫権が常より口にしてきた、漢王室、そしてその兵や民の安寧のことを問題にした。
 案の定、孫権は難しい顔をして黙り込んでしまう。
 谷利はその様子を後ろから見つめながら歯噛みした。彼には、漢王室も、民や兵の安寧のことさえもまるで歯牙にもかけぬほど最大の揺るがないものがある。そのもののために命を賭し、そのもののために生きると決めた。他者にまでそれを強いるつもりは毛頭なかったはずなのに。
「…………」
 知らず、谷利の拳が膝の上で固く握られたとき、視界の隅で誰かが動いた。すぐにそちらに目を遣ると、議論が紛糾する中を末席に坐していた諸葛瑾、そして荊州に向かっている魯粛の随伴兵であり先に報告のため帰還していた鮑楷が連れ立って評定の間を後にするのが見える。ちらりと孫権を見るが、彼は群臣の言に耳をかたむけていて気付いた様子はない。
 “降伏”。“臣従”。恭順。朝敵。曹操の率いる八十万の兵。
 谷利は一瞬開いた口をまた噤む。あまり今の孫権を煩わせたくはなかった。

 しかし、程なく戻って来た諸葛瑾は、その後ろに鮑楷ではなく魯粛を連れていた。ただいま戻りました、とのたまう彼に激昂したのはやはり張昭である。
「貴様、こんなときまでどこへ行っておったのだ! 鮑子則の報では華容に到る頃には既に劉荊州は曹孟徳に帰順していたというではないか。火急の用をほったらかしにしておいて、よくものうのうと帰ってきたものだな」
「張公、お気を安らかに。我が君、わたくしは劉玄徳からの使者と共に戻ってまいりましたのです。今は正庁に待たせておりますが……」
 劉玄徳の――孫権の小さな驚きの声は、なんということを、という群臣のどよめきにかき消されてしまう。
 そして同時にその言葉は、張昭の逆鱗にも触れたらしかった。彼は激しく足音を鳴らし、魯粛の前に仁王立ちになってその胸を貫かんとするように指差す。
「今、曹孟徳からの書簡について議論を交わしているところに、お前は更なる混乱の種を呼び込もうというのか!」
「何を……悩まれることがございます。曹孟徳の行いはもはや漢王室を傀儡にして己が欲望を満たさんとする忌むべき所業。憎み抗いこそすれ、その下に与する道など採りえないはず」
「それを如何にして証明する。陛下がお前にそう訴えたのか? 曹孟徳の悪行は誰の目にも明らかでありながら、奴めは何不自由なく丞相の位をほしいままにし、あまつさえ南方の荊楚の将兵を“朝敵”とまで呼ばわり、正当な“理屈”でもって兵を動かしおったのだ。貴様一人の言、貴様一人の身勝手で我々の方針が決められるとでも思っておるのか! 無官の貴様にはわからぬであろうが、これは国事であるのだぞ!!」
 魯粛は目を剥き、何か言いかけた様子だったがすぐに口を閉ざし、左様でございますな、とごくごく小さな声で呟いて扉の脇にすとんと腰を下ろしてしまった。
 肩を怒らせて魯粛の頭頂部を見下ろす張昭に、声を掛けたのは上座でじっとその様子を見つめていた孫権である。
「張公」
 その静かな声音に、張昭もおもむろに振り返ると拱手して、御前を騒がせてしまって申し訳ない、と謝罪した。
「いいえ、思う存分騒いでください。仰る通り、これは国事。皆様方の誰もが直面している大きな問題です。ですが――」
 言い置くと孫権は立ち上がり、きょとんと己を見上げる谷利をちらりと見遣ると、その名を呼んだ。
「私は少し、席を外します。何、ただの小用ですから、お気になさらずに。皆様方も少しくらい休まれてください」
 さあ、利よ、行こう。
 さっさと歩き始める孫権を、谷利は慌てて立ち上がって追いかける。扉を開けるとき、孫権は扉の脇に立ち尽くす諸葛瑾と、その足下に坐り込んで憮然とした表情の魯粛を見た。
「子瑜どの、子敬どのを出迎えに行ってくださってありがとう。子敬どのもお疲れ様でした。どうぞしばしお休みになってください」
 まるで言い捨てるようにして、孫権は評定の間から出て行く。谷利も彼らに会釈をして孫権に続いた。


 ◇


 孫権は厠の方には向かわなかった。後ろからついて歩く谷利には、ぶらぶらと当て所なく政堂を歩き回っているように見える。評定の間から十分に離れた頃、周囲に人気もないような政堂の外れの回廊で、孫権は振り返らないままに、私は朝敵であるつもりはなかったんだが、と苦笑交じりに言った。
「降伏とか、恭順とか、皆そういう言葉を使うのだ」
「曹孟徳に従うのですか。呉を手放すと?」
 谷利の問いに孫権は答えず、足を止める。
 草の擦れる音が、風がかすかに吹いていることを教えている。回廊から見える中庭に目を遣れば、ぐるりと囲む塀の向こう側が薄く水色に染まっていくのが見えた。もうすぐ夕暮れ時になる。
「かつて彼から保質の要求があったとき、確かに私は従わなかった。だが、まさか今更それを蒸し返されたとは思っておらぬ。ただ単に、時が来たというだけのことだろう」
 当時はまだ呉氏が存命で、周瑜は孫権の傍らにあってその軍事を補佐していた。しかし今や母は亡く、周瑜は前部大督としてこの柴桑の東、彭蠡沢を挟んだ対岸の鄱陽に駐屯している。
「呉会が曹孟徳のものになれば、まず討虜将軍府の将兵たちは皆彼の麾下に参入することになる。精強な者たちばかりだ、必ず重用されるだろうな。程公、義公どの、公覆どの、公瑾どの、元代どの、子衡どの……参ったな、挙げたらきりがない」
 じっと背中を見つめ続ける谷利を、ようやく孫権は振り返る。
「あなた様はどうなるのですか」
「私は、北か西か、ここではないどこかへ連れてゆかれるだろう。叛意を削ぐためだ、皆とも引き離されることになる。恐らく二度と会うことは叶わない」
 そう言って、ふふ、と孫権は笑う。
「殺されることは……どうだろうな、ないとは思うが、言い切れない」
「ありません。私がお傍におります」
 即答する谷利に、孫権は困ったように笑う。お前はいつもそうやって励ましてくれる、と感慨深げな声色で言う彼は、しかし谷利の願いとは裏腹に俯いて、その面に影を落としてしまった。
「どうしてもならないこともある」
「…………」
「一人ではないと思っていたのに、だめだった……」

 一人ではない。
 谷利はまた、拳をきつく握りしめた。

「我が君、あなた様はお一人ではありません」
 顔を上げる孫権に、谷利はずいと歩み寄った。
「あなた様は私の光です。あなた様がいたから私は暗い夜を一人きりでも歩いて来られた。以来私の命は常にあなた様と共にあります。私がここにいるのがわかりますか?」
「…………、……わかる」
「宣城の夜、朱義封どのは私に、討逆様たちの来し方をお話しくださいました。そのとき彼が仰ったことを今でも覚えております」
 ――これからは俺もその一団に加わって、あいつと共に進むんだ。
 そう言ったときの、彼の誇らしげな横顔。
「最初からいつだって一人ではなかったのに、あなた様はどこを見ていらっしゃるのですか? 朱義封どのも、周将軍も、蒋将軍も、陳将軍も、休穆どのも、凌都尉も、皆――」
「利……」
「魯子敬様も、甘将軍も、あんなに仰っていたではありませんか……!」
 ぼた、と谷利の目から大粒の涙がこぼれた。孫権ははっとなり、思わず谷利の頭を抱き寄せる。よろめきながらなすがままにされている谷利は、己のせいで孫権の肩が濡れていくのをどうしても止められなかった。
「“私たち”は、戦いました……」
「すまない、すまない……!」
 私だって戦いたい、と孫権もまた涙声でそう訴える。
 復仇を果たしたことで、この上軍を動かす理由が彼には見つけられずにいる。
 孫権の孤独と猜疑心は、孫策が死んだそのときから始まっていた。当時、孫策の“代替”となるものが孫権以外にはなかった、ただそれだけの理由が、八年間彼に江東の旗頭であることを“許した”。
 黄祖の首を見たとき、彼は漠然と思った。己の役目は終わったのだ、と。
 孫権と、彼の周囲の人々の間には恐ろしく昏い溝が横たわっている。
「だが、最早この上、戦って死ねと、皆に言えない……!」

 曹操の書簡を取り囲んだ軍議に於いて、群臣が口々に言い放った言葉がその昏がりをより濃くした。
 孫堅が生まれ、孫策が拓き、谷利たちまつろわぬ民が命を懸けて抗い守ろうとした故郷、江東の地。今もまだ東では、賀斉や蒋欽、朱然や陸議たちが山越と干戈を交えている。それらがまるごと曹操に飲み込まれてしまう――
 討逆様の愛したものを害する者が敵であり、討逆様の愛したものを守る者が味方なのだ。かつての己は確かにそう言った。だがそれは、己一人だけが戦うのではなかったから言えた言葉である。あの日、振り返った己の目が見た愛おしき軍列は、今この政堂にはない。

「私一人でも、戦えます。あなた様の道を阻むものを斬って血路を開いてみせます。どうか、悲しいことを仰らないでください」
「……ありがとう、ありがとう、利。……ずっと、どこにいても、私の傍にお前がいる」
 お前の体のあたたかいのがちゃんとわかるよ。
 孫権はそっと離れると、にこりと微笑んで小首をかしげた。谷利は頷き、慌てて乱暴に涙をぬぐう。はは、と孫権は小さく笑い、その目元にそっと触れた。
「ついて来てくれるか?」
「無論です」
 そうして、二人が小さく笑って頷き合ったときだった。

「ああ、こんなところにいらっしゃった!」

 なんとも無理に作ったような爽やかな声音。驚いた二人が一斉に声のする方を見れば、政堂の回廊の向こうから、にこにこと笑った魯粛が大股で歩いて来るのが見えた。
「おや、何か立て込んでおりましたかな?」
「魯子敬どの……」
 二人の近くまで来た彼は立ち止まり、小用だと仰っていたのに、とニヤリと笑って腰に手を当てた。
「この辺りに厠はございませんよ」
「……申し訳ない、少し長く席を外してしまいましたね。すぐに戻りますから」
「本当に戻るんですか? あんなところに?」
 不遜な魯粛の物言いに孫権は些か眉をひそめ、何を仰りたいのですか、と問いかけた。待ってましたと言わんばかりの魯粛はまた一歩孫権の方へ詰め寄る。
「張公は仰いましたなあ、これは国事であると。とするとわたくしにはひとつ不可解なことがございます。それは、いるべき方々がいらっしゃらないことです」
 あ、と谷利は小さな声を上げた。まさに魯粛の言う通りなのである。
「わたくしは存じ上げませんでした。国事とはただ文官のみで運営されるものなのですかな?」
 曹操の南進、そして劉琮の早期の恭順という火急の事態に、努めて速やかに対応策を練ろうと図った結果、柴桑の外に出ている将たちの帰還を待たずに軍議は開かれた。少なからずそれが、群臣たちにほとんど満場一致の“恭順”という選択を選ばせたのだろう。彼らは軍事にはさほど明るくない。そして、その場に於いて最も軍事に詳しい孫権は彼らの進言に際し、己の考えを述べる余裕を持たなかった。
 孫権は魯粛をじっと見た。その視線を受け止めながら彼は口を開く。
「違うでしょう? 我が君。わたくしも戦場に出たことはありませんが、そのくらいはわかる」
「…………国を拓き、国を守り、流れた血は、……江東の大地に沁み込んだものは、魯子敬どの、少なくともあなたのような方のものではありません」
 孫権の言葉に、魯粛は口の端を上げた。
「耳が痛いですな。さあ、疾く鄱陽の周公瑾どのの帰還を急かされませ。群臣の皆様方を納得させるのに、彼ほど適任はおらぬでしょう」
 そして魯粛は、チラリと谷利に目を遣った。
「公瑾どのと共に、君のように――我が君のために血を流すことを厭わない勇将たちが帰還するだろう。君もまた、ただ一人きりで我が君の傍にいるわけではない」
 もう大丈夫だよ、と魯粛は今度、まっすぐに谷利を見つめて言う。その言葉に谷利はまた目頭が熱くなるのを感じた。

 これから柴桑にやって来るであろう、頼もしい将兵たちの横顔が絶え間なく心に浮かんでくる。
 誰も彼も、ただ一人きりではないのだ。それだって確かに孫権の言った言葉だったのに、ずっと彼の中には昏い影が落ちていたのだと知って、谷利はたまらない気持ちになる。
 どうしたって自分でない他者には伝わらないことがあることを、こんなにももどかしく思うのは初めてだった。


 ◇


 翌朝、柴桑の政堂に到着した周瑜は、自分を出迎えた魯粛の情けなさそうな困ったような顔に笑みを返した。
「立て続けに使者が現れたときは何事かと思いましたよ。程公たちは兵をまとめてから来るので遅れます。あなたの成果は?」
「劉玄徳の使者を連れてきた。昨日はそのままさっさと軍議も散会して使者も旅館に帰らせたから、まだ我が君とは会わせていない」
「勝手なことを。劉玄徳の軍勢の状況はわかりますか?」
 その問いに、一万強だ、と魯粛が答えると、周瑜は鼻を鳴らして歩き始める。魯粛もその後に続いた。
「たかだか一万強の兵数で手を結んでくれとは、随分と軽く見られたものだ。子敬どの、あなたもです。我が軍を馬鹿にしているのですか?」
「違う、そんなつもりじゃない。一万強でも楯や時間稼ぎくらいにはなるだろうと」
 取り繕う魯粛の言葉に周瑜は肩を竦めて、そうですか、とおざなりな返事をする。公瑾どの、とやはり困ったような声音で己を呼ぶ後ろの男を、周瑜はようやく振り返った。
「余分な戦力はいっそ不要です。ましてや劉玄徳の連れているような敗残兵ではね。劉江夏の一万余兵はそれでもまだ見所がありますが、今の我が軍に他所からの軍勢を加えたところでこの上まとまりが生まれるとは到底思えない」
 そのことについては魯粛も頷いた。文官、武官の意識の乖離だけではない、退っ引きならない事情が孫軍の内部にはある。それは来るものを拒まず受け入れた孫権の度量の広さ――悪く言えば節操のなさに端を発し、また周瑜もその片棒を担いでいる節があったからあまり強く咎め立てすることのできるものでもない。
 周瑜は人差し指で強く魯粛の胸元を押した。
「劉玄徳には努努じっとしているようにお伝えください。此度は我が軍のみで対処するし、さりとてあなた方の手助けも一切しないとね。これは侵略者に対する江東の地を守るための我々の戦であり、劉玄徳の意思の介在する余地はない」
「…………あんたがそう言うなら」
「――子敬どの。私がいない間、殿のために動いてくださってありがとう」
 構わないさ、と魯粛が言うのに周瑜は首肯し、また翻って歩き出す。その堂々たる後ろ姿に魯粛は思わず嘆息した。
 出会った頃に抱いていた彼の印象はつくづく間違っていたのだと、今更ながらに実感する。実績と正確な用間から来る底知れない自信。彼の本質とは正にこれなのだろう――かつての孫策と並び立つ、猛将の姿である。
 だからこそ――魯粛はようやく、彼らしくニヤリとした笑みを浮かべた。
 大股になって己に続いた魯粛を横目で振り返り、周瑜もまた微笑む。二人の来訪に気づいた評定の間の衛士たちが恭しく拱手して挨拶した。衛士が中へ呼びかけると、それに呼応した孫権の声が帰って来る。周瑜はまっすぐ扉の前に立ち、魯粛はその斜め後ろに立った。

 ゆっくりと扉が開かれ、一番初めにその向こうの上座に坐る孫権と目が合ったとき、周瑜は心の底から安堵し、そして嬉しく思った。
 彼もまた、間違いなく己と同じ気持ちであるのだということがわかったから。

「討虜様、周公瑾、遅参をお詫び申し上げます。諸将も支度を終え次第すぐに参りますが、まずは私めが先行させていただきました」
「いいえ……お忙しい中を急かしてしまって申し訳ありませんでした。どうぞそちらへ。子敬どのも」
 促され、周瑜と魯粛はそれぞれ席に着く。魯粛は隣席の諸葛瑾に、にんまりと笑いかけた。半眼になる諸葛瑾はふいっと彼から目を逸らし、まっすぐに孫権を見る。
「遣いの者より大筋はお聞きのことでしょうが……こちらをご覧ください。利よ」
 孫権に言われ、はい、と頷いた谷利は足早に、曹操からの書簡を持って周瑜の傍に寄った。目を細めて谷利の差し出す書簡を受け取った周瑜は、ささやくような声で、ありがとう、と言う。首を振った谷利はすぐに孫権の下に戻り、また膝をついて軽く俯いた。
 かろん、と軽やかな音を立てて周瑜が書簡の紐を解き、広げていく。それすら美しい音曲を奏でているものと見紛うかのような、優雅な所作で。
「“近頃、南方の朝敵を征伐せんとて軍を南進させたところ”」
 周瑜は、まるで謳い上げるような爽やかな声音で書簡の文面を読み上げた。
「“劉琮は抵抗することなく恭順の意を示した。我が旗下にはついに水軍八十万を治めることになったが、次の機会には討虜将軍と呉で狩りでもしてみたいものである”」
 なるほど、と周瑜はひとつ頷き、ゆっくりとその書簡を巻き戻すとチラリと谷利を見た。機を見て顔を上げていた谷利はすぐに周瑜の下へ向かい、恭しく書簡を受け取ると素早く孫権の目の前の卓へ置き、また己の所定の位置に戻る。孫権はその間、じっと周瑜を、そして群臣を眺めていた。
 一人が言った。
「これまで、中原と江東の間には雄大なる長江が流れ、それゆえ北方の戦乱が南まで及ぶことはなかった。しかし曹孟徳が荊州を手にしたことで、長江は既に南方にとっての拠り所とは必ずしも呼べなくなってしまいました」
 また一人が言う。
「ましてや劉景升の擁していた精強な水軍をその掌中に収めたとなれば、戦力差が歴然である今、みだりに抗うことは乱世を深めることになりかねませぬ」
 他の一人も言う。
「曹孟徳の野心を圧し留めるに、ただ外からの抵抗のみならず、我々が内から正義をもって曹孟徳の悪行を暴き、以て天下泰平への道筋となされるのが王道かと」
 じっと腕を組み目を伏せて彼らの言を聞いていた周瑜は、それらが一通り過ぎ去るのに合わせて瞼を開き、なるほど、とまた一度呟いた。
「なるほど、なるほど、なるほど」
「…………公瑾どのは如何様にお考えで?」
 孫権が静かに周瑜に問う。彼はおもむろに一堂を見渡し、孫権にちらりと目配せをした後に、大きく胸を張って背筋を伸ばした。
「文致をまるで己が物として操る曹孟徳には考えられぬほど稚拙な文面でございますな。如何にもな勧告の常套句ばかりを焦って並べ立てたようだ。余程我が孫軍を恐れておるのでございましょう」
 はきはきとした声が評定の間に響き渡る。まずひとつは、と彼は指を立てた。
「朝敵、征伐、恭順などというような強い言葉をして皆様方を恐慌せしめ、次に先の劉荊州の例を挙げて一度恐れ戦いた心を安堵せしめ、更には事実無根の莫大な数値を出して思考することを放棄させようとする。よろしいですか。曹孟徳は自身を丞相と嘯き、よりにもよって漢王室を成すがままにせんとする賊です。その威光を笠に着て、討虜様、そして討虜様のお父君、御兄君のように陛下の身を案じ、王室の行く末を憂う真の忠臣を貶めようと謀っておるのです」
 朗々と述べる周瑜を末席から見つめながら、魯粛は引きつったような笑みを浮かべた。曹操の書簡の粗をしつこく探すような真似をしておきながら、舌の根の乾かぬ内に己も同じ手法を用いて聴衆を先導してみせようとする。周瑜の豪胆さには恐れ入るばかりである。
「こたび、曹孟徳は南方の侵略を急ぎましたが、その結果西方には馬孟起、韓文約や羌族や氐族などといった外患を残すことになりました。これがため曹孟徳は南方に然程多くの兵数を割くことができません。加えて我々には地の利がございます」
 先ほど仰いましたな、と周瑜はその目を群臣に向けた。
「長江は必ずしも拠り所と呼ぶことはできないと。しかし、長江の大いなる流れを中原からやってきた者たちに理解し得ますでしょうか? たかだか“池”を作って数か月水練を積んだような連中が、我々のような生来長江のほとりに生まれその恩恵と時に苦難を与えられ育まれてきた者たちよりも江を使いこなせるとでも?」
「それは、確かに……」
 群臣の中から嘆息が上がるのに、周瑜は一層表情を引き締めて続ける。
「さて、近頃は特別に寒い。馬草もほとんどない中を慣れぬ南方の土地まで兵馬を行軍させればどういったことが起こり得ますでしょうか?」
「…………疫病、それによる士気の低下」
 魯粛の隣で諸葛瑾がぽつりと言った。周瑜の弁論が轟く中、不意に訪れた静寂に彼の柔らかな声音は弾み、それを耳ざとく聞きつけた周瑜は我が意を得たりと言うように大きく頷く。
「まさに。これら、軍事に於いてあらゆる失策を犯しながらも曹孟徳はなおも強硬に軍を南進させました。このような愚者の軍勢にどうして我々孫軍が打ち砕かれ、父祖の地、江東が踏み荒らされなどいたしましょうか!」
 そう周瑜が言い放ったとき、まさにそのときを待っていたと言わんばかりの声が政堂の扉の向こうから飛び込んだ。
「程将軍、呂子衡将軍、黄将軍、韓中郎将、周将軍、呂子明将軍、甘将軍、凌校尉――皆様、ご到着にございます!」
 は、と孫権が息を呑む。
「――どうぞ、中へ」
 大きな声で彼が応えるとゆっくりと扉が開かれ、程普を先頭に、呂範、黄蓋、韓当、周泰、呂蒙、甘寧、そして凌統が入室してきた。そうして全員が中へ入った頃に、程普が片膝をつき力強く拱手するのに続き、諸将もまた息を揃えたかのように一糸乱れぬ挙動で手を組み礼をする。
「殿、我々の支度は整いましてございます」
 低く寂びのある声で程普が話し始めた。
「すぐさま号令を。あなた様の一声で、“我ら一堂烈火となりて”敵陣を灰燼に帰してまいります」
 彼の鋭い視線にまっすぐ射抜かれ、孫権は立ち上がった。
 将兵も、群臣も、その場にいた誰もが彼を見上げ、その一挙一動を固唾を飲んで見守る。
 ――やにわに孫権は腰に提げていた剣を鞘から引き抜き、柄を両の手で握り締めると勢いよく卓に向かって突き立てた。

 バキン、と音を立てて書簡が割れる。

「――矜持というものは」
 シンと静まり返る政堂に、孫権の声が澄み渡る。
「たとえ如何な暗黒の中であれ、そこが深淵であれ、恐れず眼を開き、己が両の腕を必死に伸ばし、かい探り、歩みを止めない何者かの中にこそ初めて生まれるものです」
 剣の柄から手を離し、孫権は一堂をゆっくりと見回す。
「そうしてついに光の中に歩み出で、目にした美しい風景のことを故郷と呼びます。私は父祖より、そう教わりました」
 す、と孫権の息を吸う音が谷利の耳にも聞こえた。

「何人も我が故郷を犯す者を私は決して許しはせぬ。我が命の果たすべき責務は元より、父祖が産み育まれ、愛すべき命たちが息づく江東の地を守り慈しむことにある。これ以上皆様方の中に侵略者を迎い容れるべきだと心底思われる方がいらっしゃるのであればどうぞ今すぐこの地を退かれませ。私も引き留めなどいたしませぬ。……それでもなお聞き入れず曹孟徳に味方しようと仰るのであれば」

 孫権は卓から剣を引き抜き、すぐさま振り下ろす。
 砕け散った書簡諸共、卓が真っ二つになるのをその場にいた全員が見た。
「その美しき矜持ごと、このようになりましょう」
 流れるような動作で剣を鞘に仕舞った彼は、さあ、と今一度政堂全体を見渡す。誰一人声を上げる者はなく、皆がじっと目を凝らして孫権を見ている。
 彼はその輪郭に光をまといながら、目を細めてうっすらと微笑んだ。

 抗戦。孫権と彼の軍勢はそう決定を下した。
 時に建安十三年、九月の始めのことであった。