『なあ、なんでお前さんは周公瑾のことが気に食わないんだい? いい奴だと思うけどね』
『あれは――あれの戦が気に食わん』
 程普が心底嫌そうに眉根を寄せるのを、黄蓋は眩しいものを見つめるように目を細めて見ていた。
『あれは兵を人とは思っておらん。高いところから戦場を見て、人の生き死にを数字に替えてすべて計りながら事を為そうとする』
 そんなことは、と返そうとして、黄蓋はしかし口を閉ざす。
『素晴らしい将だろうとも。だが、将の領分を越えておる』
 程普は吐き捨てて、背を向けてさっさとその場を立ち去ってしまった。黄蓋は彼の後姿を見送りながら、反論ができなかった己のことを考える。
 黄蓋を始め、程普や韓当らの宿将は、孫権の亡父・孫堅の代から軍に参加し、その軍事に携わってきた。黄蓋自身は孫堅が長沙太守に任命され当地に派遣されてからその麾下に入った縁なので、黄巾賊の討伐の頃から彼の下にあった同僚たちよりは遅い参入であったものの、孫堅が実に尊ぶべき素晴らしい主君であることは身に染みて実感している。彼が将兵を愛するのと同様に、将兵もまた孫堅を愛した。そして彼の亡き後、孫策の神勇に力強く率いられた軍団は一路南下し、ついに江東に拠って立つ地を得る。その孫策が横死を遂げてからは、彼の弟、孫権を頂点に頂きながら江東の地の慰撫に努めてきた。
 常に戦場に立ち、孫軍の軍事の中枢として地方の不服従民たちの蜂起に対抗してきた程普はともかく、しばらく県の令や長として政務に携わっていた黄蓋や韓当には久しぶりの戦場である。
 周瑜曰く、長江で成し遂げなければならない絶対の目標は曹軍に壊滅的被害を与えることにあるということだった。兵力差の圧倒的不利を覆すには、孫権が用意した兵数では本来であれば足らない。だからこそ――

 誰の命も失えない。
 そう己に話しかける周瑜に程普は振り返り、
 ――そうか。
 とだけ答えた。

 そのときの彼の表情を、黄蓋は真正面から見ていた。
 今でも思い出せる、目を細めて少し和らいだ、彼のいつものしかめっ面を。


 ◇


「それで? 私にその方の言を信用せよと申すのかな」
 ぱしり、と持った書簡を手の甲で叩いて示す、小柄な体躯に堂々たる威風をまとわせた曹操の浮かべる笑みを一心に受けた若い使者は床に額を突き、まさしくその通りにございます、と震える声で言った。
「孫軍の大将、周公瑾はその性傲岸にして、我が主黄公覆の進言を容れぬばかりか、口汚く罵ってさっさと陣屋から追いやってしまわれました。孫家三代に仕えてきた我が主もこの扱いには腹を据え兼ね、斯様な無法が江東の地を席巻する前に、曹丞相のご威光をもってこの地をお救い戴きたいと、そう願っておいでです」
 叩頭する使者のつむじをじっと見下ろしながら、曹操は答えない。彼は言葉を続ける。
「誰もがお家と江東の地の安寧を思って恭順せよと我が君に促すなか、ただ周公瑾、そして彼の手先である魯子敬が口先で討虜様を惑わし、このように戦を開かせたのでございます。周公瑾は我が君の信頼をほしいままにし、軍事を一手に引き受けて好き勝手に振る舞っております。諸将は皆このような状況を嘆いておるのです。どうか、ご承知くださいませ」
「ああ、そのことはこれにも書いてあった。余程のことなのだろうな、周公瑾の振る舞いというのは」
 何か面白いことでも考えたかのように、曹操は笑みをこぼす。面を上げよ、と彼に告げられ、使者が恐る恐る顔を上げると、曹操はその前にかがみ込んで彼の顔を覗き込むようにした。
「周公瑾はその家柄はまことに優秀で、彼自身も懐が広く、多くの者に慕われる将であると私は聞き知っておる。今そなたが口にしたようなことは、到底思い至らんのだが……」
「ええ、そうでしょうとも」
 やけにはきはきとした使者の返答にぱちりと曹操は瞬く。その表情、その意図を問うと、彼は首を振って嘆息をした。
「彼は頭が良い。巧妙に己の性を隠しております。ですが、我が故郷は彼の采配のためにほとんど壊滅に近い被害を受けました。戦士ばかりか戦えぬ老人も、女子供まで虐殺されたのです」
「ほう。するとそなたはよもや山越の者なのかな」
 ええ、と頷く使者に、曹操はおかしそうに笑う。
「それではなにゆえ山越が黄公覆の使者など務めておるのだ」
「大敗を喫した我が故郷から、なおも男たちは徴兵されております。私もまたその一人。ただ、私は運良く素晴らしい雇い主に巡り合えました。この命を賭すに足る、本当に素晴らしい将に。それは曹丞相も聞き知っておいでなのではないでしょうか」
 うむ、と曹操は頼もしく頷き、にこりと満面の笑みを浮かべる。
「人の名というものは、勇名、悪名、英名、汚名、すべて天下に響き渡る。だから嬉しいのだ、黄公覆の申し出がな――それが、本当の、真実であるならば」
 曹操はおもむろに腰を上げ、ふう、とひとつ嘆息して、それから使者である山越の若者を見下ろした。
「先鋒の船団には攻撃を加えぬよう下知しよう。黄公覆がこの書簡の通りに投降してきた暁には、多大な褒賞と彼に相応しい官職を授けると誓う。彼に見合うだけの礼を尽くそう。のう、そなた、名は」
「は、保屯の左異と申します」
「保屯の左異。嘘だけはついてくれるなよ」
 重々承知でございます、と山越の若者――左異は改めて叩頭した。


 ◇


 河上に勇壮に居並ぶ闘艦たちを、腕を組んだ黄蓋が感慨深げに見上げている。船上には大量の荻や枯れ柴を積み込み、膏油を流し入れ、さらにその上を赤い幔幕で覆わせた。
「よかったんですか、こんなに幕もらっちゃって」
「皆がいいって言ってるんだからいいんだよ」
 黄蓋は呵々と笑うが、兵士たちはどこか申し訳なさそうな表情を浮かべている。黄蓋の隊のみならず、周瑜や韓当、甘寧の部隊からも大量の帷幕を譲り受けてしまった。程普や呂範たちも自分たちの分も使えと申し出てはくれたが、作戦の遂行を曹軍に悟られることのないよう細心の注意を払って、彼らの軍営には普段通りの兵装を保たせている。
「それより皆、なるべく軽装を心掛けろよ。すぐ走舸に乗り移るんだから。逃げ遅れても俺は知らんぞ」
 努力します、と苦笑交じりの声が各所から聞こえる。それらにまた笑い返しながら、黄蓋は再び闘艦を見上げた。

 火は恐ろしい。焼き焦がされ、崩落し、消し炭になってしまったものは二度と元の姿には戻らない。
 初平二年、春二月の暮れ、黄蓋は孫堅とその軍勢と共に廃墟と化した洛陽に入った。まるで人気もなく、もはやすべての煙も空に昇りきったかのように、穏やかな視界。孫堅の後ろには彼の率いる数万の軍勢があったが、誰一人として言葉を発する者はなく、辺りにはただ静寂だけが満ち満ちている。
 見上げた青天は冷えた空気の中に鋭く冴え、眩しいくらいの輝きを帯びている。真黒な地上のことなど構いもせずに、ただ己の美しさを誇示しているかのようだ。
 ようやく、孫堅がぽつりと言った。
「数百年の古都もこんなものか、…………」
 何もないな――そう言って、彼は一筋、涙を流した。
 その滴にきらりと空の青が反射する。黄蓋はその横顔を見ながら、ああ、こんなにも美しいものなのだな、と思った。
 董卓の暴虐によって焼き払われた洛邑に留まりその修復に尽力している間、程普はずっと口をむっつりと尖らせて不機嫌そうな表情をしていた。歴戦で負った顔の傷がひしゃげるほどに眉根を寄せて黙々と役務に励む彼に、ずっとそんな顔で疲れないかとからかい交じりに尋ねれば、至って真剣な表情で、そんなことを言っている場合か、と叱られてしまう。黄蓋にしてみれば気を楽にしてやりたい軽い気持ちだっただけに、居たたまれない。そんな己の様子を察したのだろう、程普は一言詫びを入れると、さっさと彼の麾下兵たちの下へと行ってしまった。
 徳謀どのは真面目なお人だからね、と励ますように残された黄蓋に声をかけたのは韓当である。彼らは早いうちから孫堅の部将として目をかけてもらっていたから、普段も特別仲の良さそうな雰囲気があった。それはどことなく近寄りがたいもののようにも思われて黄蓋は彼らとはこれまで大した付き合いを持たなかったが、そのことがきっかけで三人は親しく交わるようになった。二人は郡こそ違えど北方の互いにほど近い都市で生まれ育ったという。荊州のさらに南部、山間の零陵郡で育った黄蓋には耳馴染みのない土地の名で、見も知らぬ風景を想像して心を躍らせたものだった。

 反董卓を掲げる連合軍のどの軍勢にも先んじて廃都に駆けつけた孫堅と彼の軍勢が陵墓や街の修復に努めている姿は、あるときからひとつの根も葉もないうわさを呼んだ。
 ――孫文台は、よもや伝国の璽を掌中にしたのではあるまいな。
 ――そうでなければ、地方の田舎者共が都のために奮励するわけがない。
 そのうわさが聞こえてきたとき、将兵たちは皆が呆れ返ったが、一人孫堅は大笑いして、そうであればよかったのにな、とうそぶいた。
「なんなら今から造ろうか。玉はないが、石や炭や灰ならそこらじゅうにある」
「それでは固まりませんよ。すぐに崩れてしまいます」
 程普が生真面目に返すのに、孫堅はなおも哄笑しながら彼の肩を気安く抱く。
「なあ徳謀、玉で造られた璽ですら王室の体を保てないのに、素材に構っている暇があるか」
「そっ、そりゃあ、そうかも知れませんが」
 焦る程普を気にもしないで、彼の体に腕を回したままの孫堅が周囲の将兵たちに大声で呼びかけた。
「皆! 本当に伝国の璽なんてものを見つけたら、すぐに俺に寄越してくれよ」
「なんだ、独り占めする気ですか?」
 韓当が茶化すように言えば、ばかを言え、と孫堅がニヤニヤ笑う。
「俺が責任持って江に放り投げてやるのだ。あんなものがあるから、俺やお前たちの子供くらいの歳の天子様が大人のいいように振り回される。こんなかわいそうなことがあるか?」
 その言葉に、誰もが作業の手を止めて黙り込んだ。彼らを見渡した孫堅は、そう暗くなるな、と宥めるように優しい声になる。
「だがもう、こっから先には行けまいな。罹災し困窮にあえぐ洛邑の民の間からそんなうわさ話が出たとは思えない。もはや我々が与した連合は瓦解しかかっている。俺はこんなことのために戦いに来たのではないのだ」
 そうしてようやく程普を解放すると、彼はその腕を強く叩いて微笑んだ。
「修復を終えたら、南へ戻るぞ。ここは長居していていい場所ではない」
「――は、承知いたしました」
 拱手する程普の返答を背に、孫堅は大股で兵士たちの多く集まっている瓦礫の方へと歩いて行く。その姿を見送り、黄蓋を始め、将兵たちはまた各々の務めに励んだ。希望の見えないこの廃都を一刻も早く後にし、心休まる主の所領へと戻るために。

 しかし、彼の軍勢がそれから長く孫堅を戴くことはなく、孫堅が二度と長沙の地へ戻ることもなかった。初平三年、劉表征伐のための襄陽攻囲の最中、彼の体は敵の放つ矢に射ぬかれ、あろうことか劉表軍にその遺骸を持ち去られてしまう。報を受けた軍勢は皆、呆然と立ち尽くした。
 誰よりも早く我に返ったのは孫堅の甥である孫賁、字を伯陽である。彼はすぐに兵たちをまとめ上げると、襄陽の北、魯陽にいる袁術の下へと身を寄せた。そもそも、孫堅の軍勢に劉表を攻撃せよと命じたのは袁術であった。
 遺された将兵たちは皆、まんじりともせず日々を過ごした。特に孫堅を慕っていた程普は、すぐにも弔い合戦のために軍勢を動かしてその遺骸を取り返すべきと主張したが、孫賁、そして彼らの宗主である袁術がそれを許さなかった。苛立ちが日毎に募り、いよいよ一部の兵たちが袁術の下から離反して劉表に攻撃を仕掛けようと武器を手に取ったとき、魯陽の兵営を訪れた一人の者があった。
「貴殿は……」
「――孫伯陽どの、お久しぶりです」
 慎ましやかに拱手して膝をついた彼は、孫賁、そして孫堅の遺した将兵たちの顔見知りでもある桓階、字を伯緒という男である。彼は孫堅が長沙太守を勤めていた折、孫堅によって孝廉に推挙され、尚書令の任に就いた士人で、ちょうど父親の訃報に接し郷里へ戻っていたところに、孫堅が戦死した報を受けたのだと言う。
「こたびは、無念でなりません」
「ええ、仰る通り……申し訳ございません。叔父の遺骸はここになく、葬儀もできぬ有様で……」
「存じ上げております」
 ひとつ頷いた桓階は、こちらへ、と彼の背後に向かって何事かを指示した。控えていた三名の僕従が兵営の外へと走っていく。首をかしげる孫賁たちの目の前に引き出されたのは、ひとつの棺だった。
 孫賁、そして後ろに控えていた程普たちは絶句した。
「……は、伯緒どの、この棺は……まさか」
「はい」

 ――孫文台様の亡骸にございます。

 すぐさま程普が駆け寄り、震える手でその蓋を開けた。
「…………、と、の……」
 か細い声に、孫賁、韓当、黄蓋ら、そしてその場に集まった将兵たちが棺を取り囲む。どうやら既に洗われたのだろう、眠るようなかつての主の遺骸が横たわっていた。
 その姿に崩れ落ちる者、肩を震わせて俯く者、歯を食いしばって目を見張る者、その誰もが、悲しみに胸を打たれている。
「あ、ああ…………」
 程普は棺に縋りつき――普段の彼の姿からは想像もつかないほど――唇をわななかせて、もう一度、殿、と孫堅を呼ばわると、あとはもう発する声は言葉にならず、ただただ滂沱と泣いた。その様を見た周りの者たちもいよいよ嗚咽を抑えることもできず、悲嘆に暮れるばかりであった。

 強く、自分たちを導いてくれていた炎が消え、彼らはしばし闇の中にいた。
 漆黒の夜を力強く照らす一筋の光がいつか現れることも、そのときはまだ知らぬまま。


 ◇


「――将軍、黄将軍!」
 ぱちん、と目の前に閃光がはじけて、黄蓋は声のする方を振り返った。訝るような表情の副将が、じっと黄蓋の反応を待っている。
「ああ、すまん。何だ?」
「左異が戻りました」
 その言葉に、おお、と感嘆の声を上げる彼はようやく、副将の後ろに曹軍への使者として遣わせた山越の若者が控えているのに気づく。ありがとうな、と笑いかけると、左異ははにかんだ表情で首を振った。
「曹孟徳はどんな感じだった?」
「もしもその投降が真実であるなら、多大な褒賞と確かな地位を約束しようと」
 黄蓋は目を瞬かせて、それから破顔一笑する。嬉しいねえ、と喜々として言う黄蓋に、左異は少しだけ眉根を寄せた。
「褒賞と名誉で人は動きますか」
 固いその声に笑みを引っ込めた黄蓋は目を丸くして左異を見、彼の副将は咎めるように強く左異の名を呼ぶ。山越の若者は己の言を撤回するつもりはないようだ。しばらくその面をじいっと見つめていた黄蓋だったが、やがてにんまりと笑むと、そりゃあ動くさ、と言った。
「己の功業が最もわかりやすく報われるのが褒賞と名誉だ。報われれば人は嬉しい。己をよく知る者にこそ己を使ってもらいたい。報われなくちゃ自分が何のためにそれをしたのかわからないだろう?」
「それは……」
 そうかも知れませんけど、と歯切れの悪い返答に、黄蓋は苦笑する。それは若さのためだけでなく、そういう環境に身を置いてこなかった彼の環境との齟齬のためでもあるだろう。黄蓋はそっと左異に歩み寄るとその頭を二、三度優しく撫ぜ、それからぽんぽんと軽く叩いた。
「左異、お前は今後は討虜様のところで世話になれ」
「え?」
 ぱっと顔を上げた彼は、心底驚いたような表情をし、すぐに首を振った。
「い、嫌です。私も将軍と共に戦います」
「もう討虜様には連絡してあるんだ。大丈夫、谷利もいるんだから」
 谷利――その名を聞いて、左異は一層困ったような表情になる。黄蓋が首をかしげると、彼は話しにくそうにぽつりぽつりと、嫌われているかもしれない、というようなことを言った。
「なんで谷利がお前を嫌うんだよ」
「麻屯で、私たちは彼に絶対に北の兵士たちを殺すなと言われていたのに、血気に逸って殺してしまったので」
 左異はそのときの谷利の表情を今も不意に思い出すことがある。がっかりしたような表情とも、失望したというような表情とも違う、諦観と無念さを綯交ぜにしたような複雑な思いをその面に浮かべて、彼は何を言うでもなくただ頷いただけだった。
 呆れたように嘆息する黄蓋は左異の髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜ、気にするなよ、と言う。
「それはお前たちが悪いよ。でも、麻屯の戦役は結果的にお前たち山越の協力者たちがあったからこそ勝利につながったんだと俺は聞いてる。もう気に病むなよ、谷利だってそんなことどうでもいいと思ってる」
 あいつは殿の傍にいられればそれでいいような奴だから、と笑い交じりの黄蓋の声に、左異は不承不承首肯する。
 どうにか納得したらしい左異を送り出して、黄蓋は空を振り仰いだ。暗い夜に静かに浮かぶ半月が、白く美しい光を湛えている。
「良い夜だなあ」
「ええ、そうですね」
 ただの相槌のような副将の返答にも、黄蓋は嬉しそうに口許をほころばせた。
 軍営の各所で準備を進めていた部隊の軍司馬たちから、次々に完了の報が届く。最後の部隊の軍司馬が到着したところで、さあて、と黄蓋は大きく伸びをした。
「行こう。段取りよくな」
 黄蓋の周囲に集まった部将たちは高らかに返事をし、それぞれの配置に散らばった。それらをすべて見届けてから、黄蓋も副将に促されて数隻の走舸を繋いだ蒙衝へと乗り込んで行く。
「黄将軍!」
 不意に声をかけられて、黄蓋は船上から陸地を振り返った。周瑜が、何とも言えない表情を浮かべて立っている。黄蓋は彼の裡にある不安を見て取ると、満面の笑みを浮かべて手を振った。
「公瑾、すぐに俺たちを追いかけて来てくれよ」
「ええ、わかっております。黄将軍も、どうぞお気をつけて」
 うん、と答えて翻り、黄蓋は大股で船首へ向かう。先に到着していた副将や軍司馬が号令を待っている。
 黄蓋は口の端を上げて、腰に提げた剣を抜き、暗い夜空を真っ直ぐに指し示した。
「出陣!」
 河上に響き渡る声を合図に、蒙衝と闘艦の船団がゆっくりと漕ぎ出した。それぞれの艦に乗る鼓吹が、互いに呼応して太鼓を鳴らし始める。音が川面を震わせて、船団が蹴立てる波が一層激しくざわめいている。後背を振り返る黄蓋は、己の乗る蒙衝の後ろに続く闘艦たちを実に愛おしそうに見つめた。凛々しく牙旗をはためかせる、孫軍の将兵たち同様、共に長く戦を乗り越えてきた船たちである。
 風が激しく吹いている。孫軍の船団の後ろから、まっすぐに曹軍の陣が展開する対岸へ。
 江の中ほどまで来たところで、黄蓋は大きな声で、帆を張れ、と言った。すぐに兵たちが船団の別の船へ、また別の船へと命令を伝達してゆく。威勢のいい掛け声とともに、暗闇の中にも目映く照る真っ白な帆が次々に掛けられていく。まるで堂々と胸を張っているかのようで、黄蓋の背も自然と伸びた。
 順風満帆、船団はいよいよ曹軍の陣営、二里のところまで来た。おもむろに傍らに立てかけていた木の棹を掴み、船を覆う幔幕の端を乱暴に破くとその先に巻きつけ、ふう、と黄蓋は嘆息する。船に焚いたかがり火にそれを差し入れれば、すぐに炎が移り、松明はあかあかと燃えだした。
「さあ、皆、準備はいいか」
 高らかな声に、将兵たちが応、と声を上げる。
 黄蓋は前を向いた。
 闇の中、対岸に列をなして燃える敵軍のかがり火。それすらもなかった時代のことを黄蓋は思い出す。ただ無為に日々を過ごし、体をすり抜けていくような誰かの言葉に諾々と従って剣を振るうだけだった時代。己の成すべきことも、欲するものすら失われ、誰も彼も皆、魂を空虚の中に眠らせていたあるとき、彼らの前に一条の光が射した。
 どんな晦冥の最中にあっても、光が頼もしく手を引いて導いてくれる。彼らの心が再び息を吹き返し、己の両足を力強く踏みしめて、前へ前へと進んでいく。
 しかし、あまりにも突然その光は奪われ、彼らはまたしても失意の深淵へと飲み込まれていった。
 ――今度こそ、もうだめだ。
 誰かが言った。
 ――こっから先には、行けまいな。
 懐かしい言葉が聞こえてくる。
 ――本当に?
 俯いていた顔を上げた黄蓋は、少し離れたところにころりと転がっている、小さくてとても弱弱しい光を見つけた。玉のようにも見えるそれは、しかしまだ満足に磨かれることもなくくすんでいる。
 やがて一人、また一人、そのか弱い光の傍に集まってくる者がある――かつて、共に闇を彷徨い、進み続けてきた仲間たち。

 それは、唐突に黄蓋の心の中にすとんと落ちてきた。
 己の成すべきことが。

 手に持った松明の灼熱を見上げ、黄蓋の目は知れず、潤んでいた。きらきらと輝くその目が弧を描くとき、滴がひとつぶ、流れ落ちて風にさらわれていく。
「さあ、皆! 叫べ!!」

「黄蓋は!! お前に降るぞ!!!」

 皆が声を揃えて、絶叫した。
 一斉に放り投げられた松明が幔幕の上に落ち、途端に炎を吐き出す。息つく間もなくそれは巨大な渦を巻き、追い風を受けて盛んに燃え上がった。
「黄将軍、早く!!」
「おう!」
 副将に急かされ、黄蓋は一目散に船尾へ走った。すべての兵が走舸に乗り込み、後は黄蓋を待つばかりである。左右を見れば闘艦に乗り込んでいた兵士たちも各々走舸に退避している様子が見える。
 船尾から走舸へと飛び移った黄蓋が蒙衝と走舸を繋いでいた綱を切り離すと、いっぱいに張った帆を強風に煽られた船はすさまじい速さで敵陣営へと向かって行った。

 轟音。
 総身に炎をまとった船が曹軍の陣営に突っ込む。
 辺り一面を覆うような火の粉が噴き上がり、曹軍の陣営に係留されていた大船団に瞬く間に燃え広がった。

 呆然とその様を見つめていた黄蓋の耳に、鬨の声が飛び込んで来る。振り返れば、周瑜、程普らの船団が、火攻めに乗じて進軍してきていた。覚えず、黄蓋の口許が笑む。
「さあ、俺たちも続くぞ!」
「はい!!」
 走舸に積み込んでいた武器と防具を手早く身につけ、味方の船団の行軍を追って黄蓋の軍勢も進軍した。
 まるで昼日中のような明るさの空。
 これをしなければならないのだ、俺は。

 来るべき黎明のそのときまで、夜道を照らす炎になるのだ。


 ◇


 曹軍の大船団は見る間に猛る炎に包まれ、火の手から逃れようとした水夫や兵馬の多くが焼死したり溺死したりした。
 火勢を追うように曹軍に攻撃を仕掛けた孫軍は這う這うの体で敗走する敵に盛んに追撃をかけ、散々に打ち破った。周瑜ら孫軍の多くはそのまま船団を従えて長江を北上し、陸に上がった孫軍の一部、そして樊口から江を渡り、陸路伝いに烏林に到着した劉備の率いる一万の軍勢がそこに加わり、彼らはついに曹軍の行征南将軍、曹仁の守る江陵城の南で合流する。曹操は既にこの地を彼と徐晃とに預け、楽進を再び襄陽の守りに当たらせると、自身は北への帰途についていた。
「曹子孝は曹孟徳の股肱。かつての徐州の戦役、また下邳に呂布を、河北に袁紹を討ったとき――挙げればきりがないほどの功績がある」
「それに徐公明もまた打ち破れぬ陣はないほどの強力を持ち合わせておるという。河北の戦役に於いて最大の戦果を挙げたのは彼だとか」
 両軍が睨み合ったまま微動だにせぬなか、孫軍と劉軍の将を交えた軍議は開かれた。特に劉軍の関羽は先の官渡戦役に於いては曹操の麾下に身を置いていたこともあり、曹操陣営の将についての知見を多く持っていた。
 攻城戦であることは言わずもがな、特にこの江陵攻囲の達成を難しくしているのは、城内に食糧の備蓄、また軍需物資が多くあることだった。江陵は紛うかたなき荊州の誇る軍事拠点である。それがため曹操は劉備の征伐に先んじて江陵城を制圧したのであり、周瑜もまたこの城の奪取に執念を燃やしていた。
 この地を得れば、すなわち当地が征西、北伐の橋頭堡となる。
「ただ攻囲するだけでは子孝は降伏しない。なにせ頑固な男なんだ」
 笑い交じりの劉備の声が、初春の乾いた空気の中に軽やかに響く。既に年が明け、建安十四年になっていた。
「誘い出すような攻撃を仕掛けられれば一番いいのだが」
 呂範が言うのに、下手な動きじゃかえって負けるぜ、と張飛が言う。そこへ甘寧が首を突っ込むように身を乗り出して、卓上に拡げた地図のある一点を指さした。
「夷陵。ここを取ろう」
「へえ、その心は?」
 尋ねる魯粛に、口の端を上げた甘寧は今度、地図上の江陵を指し示す。
「江陵からはさほど離れておらず、後背の巴蜀に控える劉季玉は今回ようやっと重い腰を上げたとは言え、さほど曹孟徳に協力する気になっていないようだから恐るるに足らず。当然襄陽からはこの距離な上、合間に峻険な山があって動静が読めず、手を出せない。しかし取られてしまえば江陵には挟撃の恐れがあるから、こちらが動きを見せれば必ず曹子孝は兵を出す」
「さすが甘興覇どのだな。ますますもって景升どのがお前さんを軽んじた理由がわからん」
 しばらく劉表の下に身を置いていた劉備は、甘寧についても聞き知っていたのだろう。感心したように腕を組んで頷いている。
 周瑜もまた甘寧の言には納得したようで、さればその陽動役には誰を当てましょう、と程普に向かって問うた。しかし、程普が答える前に甘寧が不満の声を上げる。
「ちょっと待ってくれよ、大将。俺が言い出したんだから俺が行くのが妥当だろう?」
「……ですが、寡兵で事に当たっていただくことになります。危険な役回りですから」
「だったらなおのことだ」
 そう返した甘寧は腰に手を当てて一堂を見渡した。
「この中に俺より荊州の地勢に詳しい者はいるか?」
 答える者は誰もない。
「よし、これで決まり。大将、兵も俺の手勢数百がいればいい。補充は夷陵を下せばなんとかなるから」
 そうして甘寧は、時が惜しいと言い置いてすぐに江陵の西、宜都郡夷陵に向かって江水沿いに軍勢を動かした。
 めくるめくその様を軍営から見送りながら、劉備は嘆息する。
「いやあ、頼もしい限りだ。兵は拙速を尊ぶの字の如く」
「ええ、我が軍の誇る猛将の一人です」
 軽い会話を交わしながら幕舎に戻っていく将たちのなかで、ただ一人だけしばらくその場を動かぬ者がある。それに気づいた呂蒙が、眉を顰めて彼の名を呼んだ。
「公績」
「――はい」
 すみません、と呼び声にきびすを返し、凌統は足早に諸将の後を追って呂蒙の前を過ぎ、軍営に戻っていく。
 彼の後姿に呂蒙は一層眉間の皺を深くした。しかし憂慮は未だ己の心の裡に仕舞ったまま、彼もまたその後に続いた。

 こうして、その後一年続く荊州戦役の戦端は開かれたのである。