柴桑に於いて、烏林における孫軍と曹軍との衝突が孫軍の大勝に終わり、引き続いて江陵への侵攻を開始するとの報を受けた孫権は、張昭と共に丹楊へと取って返し、軍備を進めていた孫瑜の軍勢と合流すると、盧江郡合肥県へ侵攻した。
 この城邑は、かつて盧江太守であった李術が孫権より離反し、揚州刺史であった厳象を殺害した際に改めて曹操より刺史として派遣された劉馥、字を元潁によって曹軍の揚州方面の前線基地として整備された城であった。すなわち曹軍にとっては揚州攻撃のための足掛かりであり、孫軍にとっては長江流域制圧のための要地である。
 孫権は、敵の防衛兵力を分散させるために張昭に兵の一部を預け徐州九江郡への侵攻を任せ、自身は孫瑜と共に合肥を攻囲した。
 この戦線は結果的に何の戦果も挙げられず、曹軍の参謀である蒋済、字を子通の策略により孫権は程なく軍を撤退させてしまう。それというのも、実際は合肥城の防衛のために進軍していた張憙、字を徳援の軍勢は千余人程度であり、その多くが季節性の疫病に罹患して兵力にならなかったにも関わらず、蒋済によって合肥に向けて出された“歩兵、騎兵合わせて四万余の軍勢が間もなく助勢に来る”という偽書を持った使者が孫軍に捕捉されたことにより、孫権はこの書簡を信用し、すぐに陣営を焼き払って後退してしまったのである。

 これにより揚州方面の戦況は小康状態に落ち着き、曹孫両軍の注目は荊州戦役へと向けられることとなった。
 江陵が曹軍、孫軍、どちらの手に落ちるのか。この戦役を華やかに彩る両軍の総大将は、互いにその武勇、才智を主に愛された勇将たちであった。


 ◇


 夷陵に攻め込んだ甘寧は寡兵をもっていとも容易くこの城の奪取を成功させたが、時を置かず曹仁は孫軍の動きに対抗するために江陵から兵を出した。その数が夷陵の投降兵を含めた甘寧麾下の千余人を遥かに上回る目算であるとの報を用間の兵から受けると、甘寧の軍中で恐慌せぬ者はなかった。
 一人、将軍たる甘寧自身を除いては。
「いやあ、参ったね。さすが曹孟徳の股肱、曹子孝はやはり情け容赦がない」
「そんな悠長なことを言っている場合ですか! 五千とも六千とも言われる数の兵に攻囲されてはひとたまりもありませんよ!」
 吠えたのは、まだ歳若いのに武勇を買われてこの戦役の直前に軍中の一部隊長に抜擢された丁奉、字を承淵である。甘寧が彼を側近くに置いたのは彼の威勢のいい性格を気に入ってのことだったが、さしもの彼も若さゆえでは補えない焦りを現状に感じているらしかった。
 甘寧は彼の頭頂部を手のひらで二度叩き、そう喚くなよ、と笑う。
「初めから計算尽くさ、そもそも軍勢を江陵から引き摺り出すのが目当てなんだから。むしろこっちの作戦勝ちだ」
 得意げに言う甘寧を、丁奉は口を尖らせて睨んでいる。
「それよりも攻城兵器の有無が気になる。当然江陵にはそれなりの軍備が揃っているだろうからな。雲梯は困るぜ、衝車も困るけど」
 そう言うと甘寧は丁奉の腕を乱暴に引いて、副将の静止も聞かずまっすぐに城壁に上がる階段を登った。城壁で投石や矢を防いでいた彼の麾下では古参の兵である王辟が、甘寧の姿を見て飛び上がる。
「何やってんですか! 下がってください!」
「やかましいな、大丈夫だよ、ちょっと外を見るだけだ」
 そのまま彼の隣を陣取り城壁の外に身を乗り出した甘寧は目を細め、丁奉の体を乱暴に押し出すと、見えるか、と問うた。
「いってー……えーっと、雲梯はないですね、衝車も見えない。投石と櫓だけかな」
「随分と焦って出て来てくれたらしいな。考えが至らなかったわけでもないだろうに、戦は大将をお家に帰して終わりじゃないんだぜ」
 大きく口を開けて楽しそうに笑う彼に、丁奉はげんなりとした表情を浮かべる。
「増援の要請はどうするんですか? 攻城兵器がなくたって、この矢と礫では本当に士気が長くは持ちませんよ」
「もちろんするさ。だが、まあ待て、向こうだってこっちにばっかりかまけている暇もない。六千で三百を壊滅させられなかったのは手痛いしくじりだからな」

 江水を渡河した直後の両軍の衝突で、曹仁は牛金、字を仲剛の率いる兵士三百人の部隊を周瑜の率いる先鋒六千と対敵させた。衆寡敵せず、牛金の部隊がほとんど壊滅しかけたとき、あろうことか曹仁本人が騎兵数十騎を率いて江陵外に造られた堀を渡り、孫軍の包囲する中へ突撃を仕掛け、生き残りの兵士たちを救出したのである。易々と敵の攻囲を突破し、悠然と城内へ立ち帰る猛将の姿は江陵城を防衛するすべての兵士たちの目に焼きつき、彼らを心底から鼓舞した。それは曹軍にとっての果報であり、孫軍にとっての失態であった。
 兵を撤退させるときの周瑜の口惜しそうな表情を、甘寧は薄ら笑いを浮かべて見ていた。たったその表情だけで、彼がどれほどこの江陵城陥落に賭けているのかを知ることができたから――そして甘寧の求めるところもまた、周瑜と同じところにあるのだと改めて理解することができたから。

「でも取り返せる。戦は生き物だ。それに俺がいる限りは大丈夫だぜ」
 強く、王辟と丁奉の肩を叩く甘寧に、苦笑を浮かべながら二人は頷き返す。底知れない将の自信は、困難の中にあって一層兵たちを勇気づけた。
「もう少し引きつけて、夜になったら本陣に使者を出す。もう少しの辛抱だ、お前たち!」
「はい!」
 頼もしい返答に甘寧は嬉しそうに笑うと、また丁奉を連れて城壁を降りていく。矢と礫の降る中を堂々と歩いていく彼の姿は、丁奉の目には輝いて見えた。


 ◇


 翌日の辰の刻を少し過ぎた頃、江陵近郊に敷かれた孫軍の本陣に、甘寧の軍勢から出された使者が駆け込んできた。
 夷陵が五、六千人の兵士に包囲されているという報は戦局が甘寧の想定通りに動いた事実を示していたが、それは同時にかの軍勢の危難でもある。周瑜らはすぐに軍議を開いたが、少なからぬ将がこれ以上兵数を割いて救援する余裕が孫軍にないことを知っていた。
 そんななか、難しい表情をする程普、そして周瑜に向かって声を上げたのは呂蒙であった。
「兵を割く余裕のないのは、曹子孝とて同じだったはずです。それを半数以上の兵数を出してまで夷陵を攻撃するのは、かの地がまさに江陵の安寧にとって重要な要塞であることの証左です。程公、周将軍、すぐに救援を出しましょう」
「しかし、誰が行くんだい? そうして外に出ている間に本陣の守りが疎かになることだけは避けなければ」
 韓当の言葉に、呂蒙は凌統を見た。
「――え?」
「全軍で事に当たるのです。本陣には凌公績の部隊を残しましょう。ああそれから、劉豫州どのの部隊も」
「な……なぜです!?」
 呂蒙の言に面食らったのはほとんどの将が同様であったが、なかでも名指しで本陣の守備に充てられた凌統は思わず呂蒙に詰め寄った。しかし呂蒙は、彼の剣幕を半ば無視して話を進めていく。
「甘将軍の軍勢とこちらの全軍で挟撃を仕掛ければ、敵を壊滅させるのにさほど時を要することはないでしょう。それに、たとえ守備の薄さを見破られて敵の急襲を受けても、凌公績なら必ず持ち堪えます。そうだろう?」
 そこでようやく呂蒙は凌統を見た。そのまっすぐな視線に凌統は戸惑ったが、やがてどこか悔しそうな表情を浮かべて頷いた。
「――必ず、守り抜きます」
「うむ。それから、三百人ほど兵を割いて敵の退路に障害物を置きましょう。夷陵から江陵へ抜ける道は隘路ですから、馬で撤退することは困難になるはずです」
 顎に手を置いた周瑜は、ふむ、とひとつ唸って程普を見た。
「それほど自信があって言うなら、この計略を採ってもよろしいかと思われますが」
「ああ、構わんだろう」
 いちいち訊くな、と眉根を寄せる程普に、周瑜はほんの僅か目じりに皺を寄せて、すみません、と苦笑する。その様子を見ながら呆れたように笑って肩を竦めた呂範が、それじゃあさっさと行くかね、と踵を返しかけたとき、不意に大声を上げる者があった。
「ああ、ちょっと待ってくれ、なあ、周将軍」
「……なんです?」
 それは、軍議が開かれてからここまでじっとして将たちの輪の隅で黙っていた劉備であった。声をかけられた周瑜が睨みつけるように彼を見ると、彼は苦笑しながら頭を掻く。
「甘興覇どのを助けに行くんなら、うちの益徳も連れて行ってやってくれ。兵も千人つける。それだけいりゃあこいつは万人の力を発する自慢の義弟だ」
 頼りになるぜ、と口の端を上げる彼に、周瑜は顎をついと上げてその後ろに立つ張飛をチラと見遣った。張飛は驚いたような顔で劉備を見つめている。
「んでまあ、その代わりと言っちゃなんだが、おたくの兵を少しばかり借りられないか? せっかく共同戦線を張ってるんだからさ」
「……少しと言うのは?」
「二千くらいで、どうかね。いくら最悪のことに備えても、最大限本陣の守りが手薄だとばれないようにはしなくちゃならんだろう?」
 周瑜はチラリと程普を見た。彼は鼻を鳴らして、いいんじゃないか、と素っ気なく返す。
「張益徳ばかりでなく、関雲長も借り受けられるのであればな」
「え! ……うーん……、……わかった。そんなら雲長も」
 いいよな、と振り返る義兄に、張飛の隣に立っていた関羽までもが半眼で呆れたような顔をする。
「子龍に傍から決して離れないよう戒めてまいります」
「うわはは、すまん」
 それじゃあそういうことで、と兵をまとめるために劉備たちは孫軍の将より一足先に幕舎を後にした。よろしいのですか、と周瑜は程普を見る。
「劉玄徳の軍勢がなぜ精強で士気が高いかというのは、あやつの用兵の巧みさもあるが、個々の部隊を率いる将の強さもまた然りだろう。なれば――」
 程普は周瑜の傍に歩み寄るとごく小さな声で、本陣に凌公績と共に残すのであれば、と言った。
「劉玄徳の傍からその脅威を少しでも多く除いておかねばならぬ」
「…………ええ」
 まったくもってその通りだ、と周瑜は首肯する。
 呂蒙が凌統を本陣の守衛に残した最大の理由が、彼の持つ甘寧に対する遺恨のためであろうことは明らかだった。悲しいかな凌操の遺した軍勢をそのまま率いている凌統と彼の兵士たちが、仇敵の危機を助勢するに際して妨げになる可能性がないとは言い切れない。しかし、同じく本陣に残される劉備は、凌統よりもよほど老獪で強かだ。
 結局のところ彼は誰の目から見ても、何をしでかすかわからない恐ろしい男である。
「我々も疾く向かおう。甘興覇の働きは無駄にできぬ」
「はい」
 諸将が足早に各々の兵営に向かう。その様を見つめながら、凌統は歯噛みした。
 ――なぜ、あの男を助けねばならぬ。
 なぜ、皆は身命を賭してまであの男を助けることに意義を見出すのだ。
 凌統とて、己のこういう考えが呂蒙に自分を本陣の守備として残すことを提案させたのだということはわかっていた。期待に応えるだけの実力と自信は己に備わっている、それでも得心のいかぬものがある。周瑜と呂蒙とが甘寧を孫権に推挙したのだという事実も、孫権がそれを容れて甘寧を重用している現状も。
 凌統はいつだって、甘寧を殺したいと願っている。
 決してそう考えてはいけないことをわかっていながら、夷陵攻囲が失策に終わり、甘寧を殺すのが曹仁でもいいのだと思っている。


 ◇


 江水を遡り、夷陵城を攻囲する曹軍の後背から攻撃を掛けた孫軍は、呼応して夷陵城から出陣した甘寧の軍勢と敵を挟み撃ちにし、これの半数を殺した。形勢不利と見るや撤退を始めた曹軍であるが、呂蒙の計略によって退路に仕掛けられた岩石の罠に馬の足を取られ、結局馬を乗り捨てて逃走せざるを得なくなってしまった。こうして孫軍は曹軍の残した馬を手に入れ、同時に夷陵の確保を成功させたのである。
「いやあ、いいねいいね! 三百くらいはいるんじゃないか?」
 戦況が落ち着いた頃を見計らって機嫌よく合流した甘寧の言葉に、周瑜は頷く。
「ありがとうよ、大将。正直見捨てられても詮方ないなと思っていたんだ」
「ふふ、すべては呂子明の献策ですよ。彼は誰よりも勇敢でした」
 周瑜の言に、ほう、と甘寧は嘆息し、離れたところで捕捉した馬を検分している呂蒙に歩み寄った。
「子明、ありがとう。お前さんのおかげで助かったよ」
「いいえ! ここで甘将軍を助けねば、何のための荊州攻略かわかったものではありませんから」
 屈託なく笑う呂蒙の肩に腕を回した甘寧は、力強く彼の体を二度叩く。初めて会った頃の、いかにも武張った風情は鳴りを潜め、智勇相伴う将として彼はすっかり立派になっていた。いつか孫権が彼と蒋欽とに与えたという訓戒は彼の中に生き生きと輝いているらしい。
 将兵たちが集まったのを確認した周瑜は、ひとつ手を叩いて彼らの目線を己に向けさせた。
「それでは、いよいよ江陵を陥落させましょう。韓将軍、黄将軍には本陣に戻ってもらい、南面を牽制していただきます。こちらは無理に攻勢をかけないでください。あくまで北面を主戦場といたします」
「ん? そういや本陣には誰が残ってるんだ?」
 周瑜の言を受けてきょろきょろと周囲の軍勢を見回す甘寧に、彼の隣にいる呂蒙はいかにも言いにくそうに、凌統と劉備である、と伝える。甘寧はそれを聞いてみるみる渋面になり、舌打ちをした。
「あのひよっこが。俺が死ねばいいとでも思ったな」
「甘将軍、お言葉を慎んでください。我々も気にかけてはおりますが、どうか努努討虜様のご心配になるようなことはなさいますな」
「俺はしないよ。俺からは、な。ただ、あの若造が何かしでかそうってんなら、そのときは容赦しないぜ」
 返り討ちにしてやる、と苛立たしげに吐き捨てて己の部下たちのところへ大股で戻っていく甘寧に、甘将軍! と呂蒙は半ば怒鳴り声を投げかける。振り返らずに行ってしまった彼の後姿にため息を吐けば、その様子を見ていた程普が、ご苦労なことだな、と無感動な声で言った。あなたに言われたくないですよ、とはさすがの呂蒙も返せない。
 苦々しい表情になる呂蒙に周瑜は困ったように笑いかけ、その肩を慰めるように二度叩いた。
「――周将軍も、人のことは言えないんですからね」
「本当だな。お前がいてくれてとても助かっている」
 彼の言うのに、呂蒙はぐっと言葉に詰まった。それを言われてしまえば、どんな不平不満も飲み込むしかなくなってしまう。
「……ずるいですよ」
「何がだ? さあ、行くぞ」
 歩き出す周瑜たちに、ひとつ嘆息をしてから呂蒙も続く。
 この戦いを制し、渇望していた地を主の手に捧げるために。

 ついに孫軍の別動隊は夷道から江水を渡り、江陵の北に陣を敷いた。
 緒戦の牛金の部隊、そして曹仁の騎兵隊の衝突、さらに先の夷陵防衛に於いて多くの兵馬を失った曹軍は、加えて助勢の到来が望み薄であるにも関わらず徹底抗戦の構えを見せている。
 一斉攻撃の日取りを見極めるために周瑜、程普らが議論を詰めるなか、陣中に待機しながらじっと江陵から目を逸らさないでいる関羽が、さすがだ、と小さく呟くのを、その隣を陣取っていた魯粛が聞いた。
「そうか、関将軍は曹孟徳のところに世話になっていたこともあったんだったか」
「ええ。曹子孝はいささか気難しい性格で、口数も少ない男でしたからそれほど関わりはしませんでしたが、その武勇、豪胆さは曹軍で一、二を争うと言っても過言ではありますまい。元より曹孟徳が彼を心底信頼しているからこそ、こうして江陵の守備を任されているのですから」
「まったく手強いな。それなら、徐公明は?」
 気安い魯粛の問いに、関羽はしばらく黙って、それからむず痒そうな顔をして小さな声で言った。
「互いに友誼を結び、とても良くしていただきました。彼については、どうしても私情を挟めてしまいます」
 実に良い将です、と彼は続ける。魯粛は面白そうにその様を見つめた。その表情の変化に小首をかしげる関羽に、口許を手で覆いながらまなじりをすぼめる魯粛は答える。
「俺はこの戦役でようやく初めて官職をもらって随伴させてもらってるんでね、生粋の部将じゃないんだ。だからあんたたちみたいな、将兵たちの関係はとても面白く見える」
 そう言って彼がちらりと視線を前方に向ける。関羽もそれに倣えば、視界の先にいるのは周瑜と程普だった。何か熱心に話しているようだが、時々笑い交じりの声が聞こえる。
「彼らも、前まではあんなに仲が悪いふうで皆に心配を掛けていたのに、今じゃああして一番一緒に行動してる。わからんもんだ、戦争の副産物ってやつなのかね」
 彼の言に、関羽はおかしそうに笑った。
「殺し合いをしなければならないとは言え、一度それを止めてしまえば我々は互いに似たような気質の持ち主たちばかりですから」
「曹孟徳とあんたの義兄は、そうはいかなかったかい」
 魯粛の言うのに、関羽は笑みを引っ込め、ゆるく首を振る。
「彼らは、どちらかが死ぬまで殺し合わねばならない者たちです」
 そう発した関羽の声は固い。
「孟徳どのも、我が義兄もまた、将ではありません。あり得ません」
「……そうだな」
 重く頷く魯粛の脳裡には、孫権の頼りなさげな笑みが浮かんだ。彼もまた、曹操、或いはひとたび劉備と対敵すれば、他方の命が失われるまで戦い、殺し合わなければならない宿命の下にある。だが、そう仕向けたのは――
 あの日の柴桑が、よもや最後の分岐であったか。魯粛はそんな考えを思い浮かべて、薄く笑った。
「我々は、末永く良い関係でありたいものだな、関将軍」
 言って、己の二の腕を軽く叩いてきた魯粛に関羽は、そうですね、と微笑み返した。


 ◇


 明日、江陵の南面の本陣に韓当、黄蓋の部隊が到着するときを見計らって総攻撃を掛ける。
 その夜半、周瑜は酒肴をぶら下げて程普の幕舎を訪れた。驚きに目を丸くする彼の表情は常になく意外な心持ちがして、周瑜は思わず笑ってしまう。
「……どうした、急に」
「甘将軍が夷陵から“拝借”してきた酒だそうです。よければぜひ」
 彼の言葉に程普も小さく笑い、幕舎の隅から予備の床几を出してくると無造作に己の隣に置いた。慌てて謝る周瑜に首を振ると、程普の視線は彼の携えている酒に向く。そういった気遣いを必要としない態度は周瑜の緊張をほぐすためのものだと彼はきちんと理解していた。
 不思議なものだ。己も彼に対する際の態度に細心の注意を払ってきたが、それでもここまで程普が軟化するのには、彼自身に気持ちの変化があったことに他ならないだろう。
 気安い造作で程普の盃に酒を注げば、彼は低くかすれた声で、ありがとう、と言った。
「清酒か?」
「うーん、見た目はそうですが……」
 酒の澄んだ黄色に幕舎に立てられた灯火が反射して、ちらちらときらめいている。二人して一気に飲み干すと、ツンときつい香りが鼻から抜けていった。
「明日に響く、俺はもういい」
 程普が素っ気なく言って傍らの小卓に盃を置くのに周瑜も同意した。
「そのことで何かあったか」
「え? あ、ええ……」
 不意に問いかけられて、周瑜は思わずどもった。はっきりせんな、と程普は肴に箸を伸ばしながら言う。
「明日の総攻撃、私は陣頭に立って指揮いたします。程公にはどうか……後方に構えて将兵たちを慰撫していただけませんでしょうか」
 片眉を吊り上げた程普が周瑜を睨みつける。口を引き結んだ周瑜は両膝に手をつくと深々と頭を下げた。
「こたびの江陵攻囲はなんとしても成し遂げなければならぬ大業です」
「重々承知だ」
「兵たちには最大限の力を発揮してもらわねばなりません。そのために将が揃って軍勢の後ろでただ采配を揮っているだけでは、皆の士気に関わります」
「無論だ。だがなぜ、よりにもよって貴様が陣頭に立たねばならぬ。それこそ貴様の身に何かあれば兵たちの意気が削がれよう」
 顔を上げた周瑜は、己の目をまっすぐ見つめてくる程普の強いまなざしを受けて息を呑む。
 ――彼は己をそのように評価してくれているのだ。
 そのことが心強く思われて、周瑜は柔らかく首を振った。
「ご心配には及びません。今、私の意気は猛く盛っております。弱弱しい矢や礫に私の体を打ち砕けはしませぬ」
「曹子孝、徐公明の放つ矢を脆弱と申すか」
「今このときにあって、我々はさながら風を受けて一層激しく燃え上がる炎の如きものですから」
「…………」
 はあ、と程普は深くため息をつくとガシガシと己の頭を掻き、しばらく黙ってようやく、わかった、と言った。
「貴様はそういう“将”なのだな」
「…………、……はい」
「死んだら承知せん」
 程普の言葉に思わず笑みをこぼした周瑜はしかし、彼が己を見遣る視線のあまりの真剣さに居住まいを正す。
 彼の脳裡に住まう者たちは、周瑜にとってもまた大切で、かけがえのなかった者たちだ。彼らの屈託のない表情が心をよぎり、それがまた周瑜の肉体を強くしてくれる。
 わかりました、と頼もしく頷いて、周瑜は程普の幕舎を辞去した。外に出た途端に体全体に生ぬるい空気がまとわりつき、吐く息も重々しく感じられる。
 ほの明るい空を見上げれば、今日は満月だった。地上を煌々と照らす無数のかがり火すら霞むほどの、強い光。
「…………伯符」
 覚えず、周瑜は呟いていた。


 ◇


 翌日、空は白く、日の射さない薄曇りの天気だった。夜更けから雲が張り出してきたのだろう。
 ドン、と空気を震わせるような太鼓の音が響く。江陵を取り囲む孫軍は皆、一様に険しい表情で口を引き結び、各々の手に得物を構えている。彼らの目には、江陵城の城壁の上に立つ曹軍の兵士たちの列が見える。
 孫軍の陣頭に立つのは周瑜、その後ろに甘寧、周泰、関羽、張飛の四名が続く。後背には程普、呂範、呂蒙、魯粛が控える。
 周瑜の目に、城壁の上に立つ青黒い鎧を着た二人の将が映った。周囲の兵士たちが跪くのも気にかけず、彼らはまっすぐに孫軍に――周瑜にまなざしを向けている。
 曹仁、そして徐晃。曹操にその才を愛された猛将たち。視線がかち合ったような気がして、周瑜は唾をごくりと飲み込んだ。
 腰の剣を引き抜き、まっすぐ貫くように彼らを指し示せば、二人の将の片割れもまた同様に彼の提げている剣を引き抜いて周瑜にその白刃を向ける。
 息を吸い込む彼らは、互いに離れた場所にいながら、同時に叫んでいた。

「開戦だ!!!」

 太鼓がけたたましく打ち鳴らされる。大地が鳴動するほどの鬨の声、馬上の将たちは馬の手綱を勢いよく引いた。
「さあ、甘興覇、行くぜ!!」
「周幼平、出る!」
 我先にと甘寧、周泰の部隊が飛び出す。
「チッ、速いな! 俺も行くぜ、雲長義兄!!」
「暴れてこい、益徳!」
 血気盛んな二人に続くように張飛の部隊も勢い込んで駆け出した。己の乗る赤い馬が激しくいななき、その巨躯を震わせて走り出したそうにしているのを諌めながら、関羽は周瑜を振り返る。
「周将軍、ご武運を」
「……ああ、関将軍も。武運を祈っている」
 微笑を浮かべた関羽は、その長い髭を美しく風になびかせ、彼の誇る赤い馬と共に走り出した。
「関雲長、参るぞ!!」
「オオッ!!」
 関羽、そして張飛。彼らの率いるそれぞれ五百の軍勢は劉軍と孫軍の混成部隊であったが、皆が二人の将の檄に呼応して威勢よく彼らに続いた。その様を見ながら、周瑜は拳を握りしめる。
 ――恐ろしい男たちだ。
 備えるべきは何も曹操のみには留まらないのだと共闘の最中にも改めて感じられて、周瑜は背筋が凍える思いでいる。
 おびただしいほどの敵が、江東の内外に存在している。だが、それらの問題を斬り裂き道を造っていくための、美しく気高き刃もまた江東の主の手の中にある。
「周将軍」
 副将に声を掛けられて、周瑜は振り返らないまま返事をする。その端正な面に笑みを浮かべ、彼は静かに、しかし力強く言った。
「周公瑾、出るぞ!」
 地鳴りのような鬨の声が一斉に上がり、辺り一面が戦慄いたかのように感じられる。周瑜は不敵な笑みを浮かべ、目前にそびえる金城鉄壁を誇る江陵に向けて馬を走らせた。


 ◇


 江陵城における正面決戦はまさに一進一退の攻防だった。攻勢をかける孫軍は城壁の上から矢を降らせ、礫を投げてくる曹軍の防衛策に苦しめられ、なおかつ曹仁、徐晃が自ら騎兵隊を率いて打って出てくる突撃に翻弄されるも、甘寧や周泰、関羽や張飛といった将たちの巧みな采配でこれを退けた。
 また夷陵、或いは柴桑から物資や資材を持ち込んで櫓を建てた孫軍は――こないだのお返しだ、とは甘寧の言である――盛んに江陵城内に矢を射掛け敵の戦意を挫こうとするが、曹仁はこれに対抗して城壁に相当数の床弩を設置した。地上戦を繰り広げる歩兵、騎兵たちに矢の雨が降り注ぎ、味方に多数の死傷者が出るも、孫軍の将たちは声を張り上げて兵たちを鼓舞する。
 だが――

「城壁の兵器は櫓の弓部隊に任せよ! 動ける敵の数も少ない! 歩兵、騎兵は城門の突破を図るぞ!!」
「はいっ!」
 前線を騎馬で駆け回り、盛んに声を上げる周瑜の姿に曹仁が気づいた。途端、彼は怒号を発して周瑜をその剣で指し示す。
「かの者を射よ! あの将が、音に聞こえた周公瑾だ!!」
 一斉に弩兵が周瑜を向く。周瑜もその気配に気づいて城壁を振り仰いだが、頭上から降ってくる大量の礫が馬の首を強烈に叩く方が早かった。
「しまっ……」
「周将軍!!!」
 叫んだのは誰であったか。

 見開かれた周瑜の目に、一閃、輝く矢が映った。