突如、けたたましい音がして江陵城が震えた。曹仁が振り向くと、後方に控えていた孫軍の部隊が小規模ながら投石車を数機運用し、城門に攻撃を加えているのが見える。
 ――前線に気を取られたか!
 曹仁はすぐさま城壁の上の弩兵隊に指示を出すと、はっとなって地上を見た。先ほど視界に捉えたはずの敵総大将の騎馬は既になく、遠目から見てもわかる、甘寧、関羽、張飛の部隊が残っているだけだった。
 ぐっときつく眉根を寄せた曹仁だったが、次の瞬間響いた鉦鼓の甲高い音に空を仰ぎ見る。夕暮れが迫っていた。
「こちらも一時休戦だ、公明にもそう伝えてくれ。すぐに負傷兵を軍営に集め、数を数えよ」
「はっ、承知いたしました」
 曹軍も同様に城内に鉦鼓を響かせる。はあ、と深くため息をついた曹仁は、二里ほど離れたところに見える孫軍の兵営を鋭く睨んだ。

 程普の武骨で大きな手が、周瑜の額に覆い被さり、そのままぐっと締め付ける。思わず唸った周瑜に、同じく横にいた呂範は苦笑した。
「何をやっておるのだ貴様は。俺が過日何と言ったか、もう忘れたか」
「痛い、痛いです、程公……それに、まだ生きています」
 そういう問題ではない、と程普はより強く彼の頭を締め上げる。
「いだだだだ!」
「あっはは、余計なことを言うからだ、公瑾」
 いよいよ呂範は笑い出したが、さすがに周瑜の傷口が開く恐れを考慮したのか程普を宥めすかし、怪我人が横たわる牀を囲んでではあったが、今後のことについて話し合おう、と居住まいを正した。
 曹軍の弩兵から放たれた矢は周瑜の右脇腹を貫き、彼の皮膚と肉とを破った。傾いだ彼の体を遠目に見、すぐに事態に気づいた周泰が馬を駆って傍に寄った直後に江陵城門への攻撃が開始され、曹仁の注意が逸れたことで二人と周瑜の率いていた軍勢とは前線から安全に離脱することができた。軍営に避退した周瑜の傷は深く、痛みのためにほとんど体を動かすこともままならない有様である。ただ鏃に毒の類いが塗布されていなかったことは幸いだった。医官が懸命に治療に当たっている最中に軍営に戻ってきた程普は実に不機嫌そうな表情で施術の様子を睨みつけており、彼が呂範に促されて一時幕舎から出て行くまで医官の冷や汗は止まらなかったと言う。
 周瑜の容態は決して外に漏らさぬよう箝口令が敷かれた。特に軍外――曹軍に知られることがあっては、曹仁がこの急場を突いて攻勢を掛けてくる可能性が大いにある。或いは末端の兵士たちにまで知れ渡れば、すなわち士気の低下に繋がりかねない。もはや周瑜とは、孫軍に於いて一切の替えがきかぬ立場となっていた。
 周瑜はまた、孫権に対しても怪我のことを決して知らせぬようにと皆に懇願した。周瑜が深傷を負ったことが彼に知られれば、彼は間違いなく軍を撤退させ、その身柄を前線へは戻してくれないだろうとの考えだったが、その憶測に異論を唱える者はない。それほどまでに孫権は慎重――ともすれば臆病と言い換えられるほどの――であり、その態度は周瑜をはじめ、府内でくすぶっていた武官たちをやきもきさせるものだった。彼らにとってこの荊州攻略は、己の存在を天下に示し、孫権の軍勢を世に打って出させるまたとない好機である。この上周瑜にはとにかく安静にしてもらい、一刻も早い回復が望まれた。
 周瑜の傍には魯粛が留まることになり、彼らの軍勢を後方支援のために下げ、程普、そして呂蒙の軍勢が前線に出ることになると、呂蒙は緊張した面持ちでその指示を受けた。周瑜に声を掛けられると呂蒙は、まるで己を奮い立たせるように大声で返事をし、どうぞ任されませ、と頼もしく言い置いて、大股で幕舎を後にした。
 程普が感慨深そうに嘆息する。
「あれは良い将になったな」
「ええ、兵卒になったばかりの頃の無謀さが嘘のようです」
 呂範が答えて笑う。魯子敬どのと口論したこともありましたね、とからかうように己を見てくる周瑜に、魯粛は顎をさすりながら唸った。
「むしろあなたが彼を奮起させたのではありませんか?」
「あのなあ、あいつは我が君に言われなきゃ何もしなかったような奴だぜ」
 苦々しく返される魯粛の言葉に周瑜は笑うが、すぐに顔を顰めて笑みを引っ込めた。そのことに気づいた三人は目配せし合い、おもむろに程普と呂範は立ち上がる。
「ともかく、お前は安静にしておれ。案ずるな、誰一人失いはせぬ」
 その声音、眼差しの優しさに周瑜は胸打たれ、引きしぼったような声で、はい、とだけ返した。そうして軽く手を挙げて幕舎を立ち去る二人の後ろ姿を見つめていた魯粛だったが、ふと周瑜が身じろぎした気配に振り返った。
 彼の比較的自由に動く左手が、自身の目元を覆ってわずかに震えている。
「……傷が痛むのか」
「…………いや……」
 周瑜はそれだけ返してしばらく声を発することもままならなかったが、ようやく、本当に誰も殿には言うまいね、とささやかに言った。
「……大丈夫だ。皆に徹底してある。ただ、もしかしたら察する奴はあるかも知れないが、そのときは既に我々が我が君に伝令を出したことにしてしまえばいい」
 魯粛が言うのに周瑜は同意を返す。その様子に魯粛は大いに違和感を覚えていた。
「そんなに……言いたくないのか。我が君に心配させまいとする気持ちだけかい?」
「もちろんそれもあるし、前線から離れたくない気持ちもある。こんな機会を逃す手はないんです。それは皆の心情とも通ずるところはありましょう」
 そうだな、と返事をする魯粛に、周瑜はようやく左手を浮かせてその目元を露わにした。涙の膜が張って潤んでいるその眼差しに、魯粛は動揺する。
「――私はね、子敬どの。殿のもう一人の兄なのですよ。私がここで死ぬかも知れない不安を、彼に与えるわけにはいかないんです」
 その言葉に、魯粛ははっとなった。
 孫権が今このときまで、一体どれだけ彼にとって慕わしい者たちの命が失われるのを見てきたのか。
「これ以上は、もうだめです。それは孫仲異どのにもお伝えしてある。荊州を取ったら、次は益州です。その行軍にはいよいよ彼の軍勢も参加してもらえるよう殿に打診せねば……」
 そこまで言って、周瑜の顔が引きつるのに魯粛は慌てて彼の肩に手を遣った。
「わかった、わかったからもう喋らないで、早く休んでくれ」
「子敬どの、あなたは――」
 周瑜の震える右手が、魯粛の腕を掴んだ。
「あなたの思うやり方で、殿を愛してくださいね」
 浮かべられた力無い微笑に片眉を上げた魯粛は、この程度なら構わないだろうと周瑜の額を軽くはたく。
「あんたに言われなくても、とっくに俺は我が君を愛してる。全く谷利といい、あんたといい……いや、我が君もかな。俺たちを見くびりすぎだよ。まあ、自信のあるのはいいことだがね、ないのはいささか困りものだ」
「あはは……申し訳ありません」
 周瑜の恥ずかしそうなその表情に、ようやく魯粛はほっとしたように笑った。さあもう休め、と彼に布団を思い切り被せられた周瑜は、痛いですよ、と文句をつける。フンと鼻を鳴らす魯粛が幕舎の外に声を掛けると、すぐに返事があって医官の徐雍が中に入ってきた。
 包帯を替えるからと牀の傍から退けられてしまった魯粛は、徐雍が慣れた手つきで周瑜を看護する様子を見ながら思考を巡らせる。
 あまりこの荊州戦役を長引かせるわけにはいかないと思いながら、敵対する曹軍の将が堅守を誇る曹仁と、武勇に優れ計略を得意とする徐晃であることがそれを妨げていた。
 江陵城に備えられた守城兵器を駆使する堅固な守りもさることながら、不意を突いて城門から迎撃の兵を出してくる徐晃の攻勢は苛烈で、城門への攻撃を受け持っていた部隊の中でも少なからぬ死傷者が出ている。敵将の手の内を――孫軍の将よりは、であるが――知っている関羽と張飛とが彼に対敵することを申し出たが、その意見を周瑜は退けた。その代わりに来るべき曹軍撤退の際に北道へ先行し退路を塞ぐよう要請し、彼らはそれを了解した。
 徐晃の人となりを語るときに関羽が浮かべた柔らかな表情を魯粛は思い出す。
「子敬どの」
 仕事を終えた徐雍が傍から退いてすぐに周瑜は魯粛を呼んだ。
「江陵を制圧次第、あなたは柴桑に戻ってください。殿に戦況と戦果とをご報告くださいますよう」
「ん? あ、ああ、わかった」
「言葉を尽くしてくださいね」
 ニヤリと、今の彼の状況に似つかわしくない不敵な笑みを浮かべる周瑜に、魯粛は呆れたように笑い返す。
「任せておけ。あんたがどれだけ一所懸命せっせと働いたかって、美辞麗句を並べ立ててやるさ」


 ◇


 ――それよりしばらく経ち、日暮れも日ごとに早くなってきた頃、なおも続く孫軍からの江陵城門への攻撃をまたしても退け城内に帰還した徐晃は、出迎えた曹仁、そしてその長史である陳矯、字を季弼に向かって、やはりですね、と渋面で訴えた。
「周公瑾の姿はありません。また別の周の旗はありますが、部隊の規模が違います」
「と、いうことは……やはり曹征南様の仰る通り、死んだか、深傷を負って動けずにいるかですか」
 陳矯が顎に手を当てて眉を顰めると、死んではいない、と曹仁が低い声で口にした。
「あれが死ねば、まず間違いなく敵は撤退する。あれはそういう将だ」
「では、重傷で臥せっているか……」
 徐晃が腕を組むと、陳矯が不思議そうに言う。
「我々の交戦開始から既に長い時が経っております。軍事の難しさは攻囲軍がより勝っておるというに、大将が動けぬほどの怪我を負いながら、孫会稽はなぜ未だ軍を引かせる様子がないのでしょう」
「周公瑾本人が頑なに撤退を拒否したか、でなければ孫会稽は周公瑾の怪我を知らぬかだ」
 やけに自信があるように答えた曹仁を、徐晃は目を丸くして見つめる。対して陳矯は、なるほど一理ありますね、と己の疑問に対する答えに得心のいったように頷いた。
「孫会稽は世辞にも戦に秀でているとは言えますまい。私ですらそのことはようく存じ上げております。それこそ、今この隙を突いて友軍である劉玄徳が孫軍の本陣を乗っ取り兵を掌中に収め叛旗を翻したなら確実に負ける。では劉玄徳はなぜそうしないか」
 それは周公瑾がいるからです、と陳矯は言う。
「――そして、雲長どのたちが周公瑾の麾下にあるから、ということもありましょうか」
 彼の言葉を継いで顔を顰める徐晃に、陳矯は困ったように微笑んだ。かつて結ばれた彼と関羽との友誼は、曹軍にあっては広く知られたものだった。ましてや徐晃という男は、曹軍に参加してよりここまでほとんど、旧知の将以外の他者と深く関わることを避けていたような節すらあって――それは曹仁が彼の立場と気難しい性格ゆえに孤高であるのとはまた別の理由で――皆には余計に物珍しく思われたものである。それが戦争の枷になると疑うわけでは決してないが、友と殺し合うことの虚しさ、その心中は察するに余りある。
 しかし、その気遣いを知ってか知らずか徐晃が頼もしく笑みを返すのに陳矯はひとつ頷き、気を取り直したように嘆息した。
「蒋子翼様が以前仰っていたのは、孫軍の将は確かに個々が精強なれど、事実上は周公瑾がその軍事のかなりの部分を担っているであろうということです。であれば、彼の思惑通り、孫会稽への上表を避けることもできるでしょうね」
「なんとも不遜な男だな。孟徳が向こうの使者から聞いた通りじゃないか」
 口からでまかせではなかったか、と曹仁は口の端を上げる。
「軍を掌握して何とするのだろうな」
「征南様……あまり滅多なことは口になさいますな」
 陳矯が思わずねめつけるのに曹仁は鼻を鳴らし、彼の肩を二度軽く叩くと、城内に設えた本陣の幕舎へと歩き出した。徐晃と陳矯とはそれに続く。
 足の速い曹仁に遅れぬよう大股になりながら徐晃が口を開いた。
「曹将軍、これよりは江陵からの撤退も視野に入れねばならぬかと。食糧の備蓄や物資の量も目に見えて減っております。加えて先に陳長史が仰いましたように長期に渡る交戦で、将兵はともかく、江陵城民は少なからず戦いを倦んでおる様子。もとより北門への軍備はことさら強固にしてあります。いつなりとご命令を」
「ありがとう、さすがは公明だな」
 振り返らないまま言う曹仁は、明日の突撃には俺も出よう、と続けた。きょとんとする徐晃と目を剥く陳矯はまるで対照的である。
「撤退するぞ。これ以上無暗な戦闘はもはやできまい。兵も馬も多く失いすぎた――ああ、だめだ、あのときああしていればなんてのは」
 自嘲するような笑みを浮かべる曹仁は、徐晃が掛ける気遣うような声音にまた柔らかく首を振る。
「孫軍の兵営の前まで駆けるぞ。もし周公瑾が出て来られないようなら打倒する手もあろうが、そうでないのであればそのまま取って返し北へ撤退する。俺と公明とが突撃を仕掛けているあいだに、季弼、お前と仲剛とは兵を率いて先んじて北門から脱出せよ」
「今度は囮になられるおつもりですか」
 やや険のあるような声で言う陳矯に曹仁はふと笑むと、なぜ俺が囮などせねばならぬ、と昂然と言った。
「突撃の足手まといになるからとっとと退いていろと言ったのだ」
「…………、……はあ、わかりました。牛校尉にそのように伝えてまいります」
 失礼、と言い置いてその場を離れて歩き去る陳矯に曹仁は、よろしく頼む、と声をかける。その後姿を見つめながら、徐晃はほうと息を吐いた。
「陳長史はあなた様を気遣っておいでなのですよ。あなた様は曹公のお身内でもあるのですから」
「関係ない。あれと俺との性格がどうしようもなく合わんだけだ」
 自覚はあるのか、と呆れたような表情をする徐晃に、足を止めた曹仁は真摯な表情を向ける。
「身内だとか外様だとか孟徳には関係ない。お前も季弼も等しく孟徳には意味のある存在だ。あいつは己が裏切られることだけが嫌いなんだ」
「それは……ありがたい話です」
 むず痒そうな表情の徐晃の肩をもまた軽やかに叩く曹仁は、止めていた足を再び動かし始める。
「江陵は孫会稽にくれてやる。だが残った兵は全員で間違いなく都へ帰るぞ。北からの助勢は望めんが、必ず俺が守ってやる」
「ええ、私も微力を尽くします」
 力強い言葉を返す徐晃に曹仁が満足げに笑って、彼らは連れ立って本陣の幕舎へと戻って行った。


 ◇


 魯粛からの、具合はどうだね、といつも通りの開口一番に周瑜が、まずまずですね、と返事をする。既に江陵攻囲から一年近くが過ぎようとしている朝だった。
 このところは、攻城戦を展開する孫軍は元より江陵に籠城する曹軍もまた軍需物資の減少が激しいものと思われ、衝突の規模はかつてよりも小さくなっていた。孫軍の諸将の予想では遠からず曹軍が撤退を始めるものと踏んで、既に甘寧、周泰、そして関羽の軍勢は江陵の北道を防ぐような形で兵を伏して布陣させている。やや薄くなった軍営の防備はしかし、程普や呂蒙、呂範らが巧みに兵を配し、また防護柵を増強してそれとは見えぬように工面していた。
 周瑜はまだ起き上がることができない。彼自身はもう大丈夫だと主張するのに、彼の看護を任されている徐雍が何かあってはいけないからと牀に縛りつけて離さないのだ。箝口令が敷かれた孫軍のなかで数少ない周瑜の事情を知っている彼は、己に課された勤めに奮励しているらしかった。
 秋が深まり、今朝は特別に空気が冴えている。江陵から見える景色の中には紅葉に染まる山も見え、今頃の呉郡の風景はどんなものだろうかと魯粛には思い起こされる。
 時折、孫権からの書簡が届く。諸将は皆きちんと目を通すが、特に臥せっている周瑜はその文面を具に読んだ。足りぬ物資は何か、兵員はどれほど必要か、死傷者の数はどれだけあるか、諸将は皆息災でいるか――
「大将、息災かね?」
「……息災ですとも。徐君のことは、少しの間どこかへやってくださいよ」
 ままならない現状にさすがの周瑜もうんざりしているのか、ついにはそんな軽口をたたいてみせる。魯粛はただそれに笑い返すだけで、彼の言う通りにはしなかった。
 実際、周瑜は己の力で起き上がることも苦労するような状態だった。包帯を替え、体を洗ってもらうたびに痛みに顔をしかめ、唇を噛んでぐっとこらえるような表情をする。余裕のない彼の様は魯粛もついぞ見たことがないようなもので、常ならば威風堂々たるこの年下の青年の弱さを目の当たりにしてしまったようで極まりが悪い。
「程公と呂子衡将軍、呂子明とは張将軍と一緒に半ば辺りまで出てるよ。炊事の煙が目に見えて減っているからそろそろじゃないかと」
 そう伝えると、周瑜は首肯して、ありがとうございます、と答える。
 なんとも歯がゆいですね、と彼は言う。己が部隊の指揮を取ることのできない現状がか、と問うと、そうではないとの返事が返ってきた。
「今となっては、ただ、馬に乗って――どこまでも馳せて行きたい。それだけです」
 その言葉は柔らかく、彼の悲壮さなどどこにも感じさせないのに、魯粛は泣きたくなった。
「まだすべきことは山積みなのに、己のことばかりを考えて、私は――」
 周瑜がそう言いかけたとき、
 突如、幕舎の外から激しく陣太鼓が打ち鳴らされるのが聞こえた。
「!? なんだ……!?」
 魯粛が幕舎の入り口へ向かうより早く、外から徐雍が切羽詰まった声で、失礼します、との挨拶もそこそこに中へ入ってくる。
「曹軍の突撃兵が江陵の北門より出で、程公たちの軍勢を避けて迂回し、この軍営へと向かっているとの報が届きました!」
「なんだと!?」
 焦燥した声で牀から起き上がろうとする周瑜だったが、それを見た徐雍が、なりません、と慌てて駆け寄ってくる。喉の奥で唸り声を上げた周瑜は、彼の差し出す手を振り払い、無理に立ち上がろうとしてふらついた。
「周将軍、なりません! 程公たちが曹軍を挟撃するために動いております。あなた様はどうか安静になさってください」
「徐君、君は少し下がっていてくれ。私が今本当にすべきことは、この牀の中で惰眠を貪っていることか?」
 地面に足をついて力を籠める周瑜に、魯粛は横から手を差し伸べる。それを取って、ようやく周瑜は立ち上がった。目を見開いて己を見つめる徐雍に、魯粛は微笑みかける。
「悪いね、この人はこのまま寝かせておいたら何をしでかすかわからないぜ。お前さんのためでもあるんだからこらえてくれ」
「本当に人聞きが悪いですね」
 笑う周瑜は、それでも小さな声で魯粛に礼を述べた。渋々と言うように身を退く徐雍にも小さく頭を下げて謝意を示す。
 魯粛に付き添われて幕舎から出た周瑜は、己に突き刺さる青天の光に思わず目を閉じた。少ししてからおもむろに瞼を上げれば、懐かしく美しい空が己の上に広がっているのがわかる。幕舎の守衛をしていた二人の兵士が瞠目し、なぜと問う。周瑜は彼らにも微笑みを返し、魯粛と連れ立って厩舎に向かった。
 あの日、矢を受けた周瑜と同じように、彼の馬も礫と矢の雨を浴びて傷を負っていた。馬丁の治療の甲斐があって大事には至らなかったものの、乗り手と同じように彼もまたこれまで休息をとっていたのだ。厩舎に現れた乗り手の姿を見た彼はぴくりと耳を震わせ、周瑜の姿をじっと見つめている。
「櫂、久しぶりですまないが無茶をさせるよ」
「待ってろ、すぐに俺の馬も連れて来る」
 脇腹が痛む周瑜を支えて馬に乗せた魯粛は、急いで己の馬のところへ向かい、騎乗する。すぐに戻ったはずなのに、周瑜はさっさに厩舎を離れて軍営に向かっていた。魯粛は肩を怒らせて馬を駆った。
「待てと言ったろうが!」
「櫂が進みたがるんだからしょうがない」
 少しも困った風でないように笑う周瑜に肩を竦め、魯粛は傍に寄ってくる兵士から剣を受け取って周瑜に渡した。
 二人は太鼓の音が響き渡る軍営を閲見して回った。始めは曹軍強襲の知らせに恐慌していた軍営を守る兵士たちも、周瑜の堂々たる佇まいと、彼のかける奮励の言葉に己を奮い立たせ、皆が武器を握り直して曹軍の影を見つめている。
「皆、聞け。曹軍には既に戦う力はほとんど残されていない。だが手負いの獣は恐ろしいものだ。努々敵を侮るなかれ! これから先に何が起ころうとも、己の持てるすべての力を出し切って戦うのだ!」
 張り上げられた周瑜の声を聞きながら、魯粛は微笑んだ。手負いの獣の恐ろしさ――それは少なからず、曹軍だけを表すようなものではない。己の脇腹に手を添え、額に脂汗を浮かせながら、彼の表情は今にも敵に噛みつかんとする鬼気迫る表情をしている。彼の自制心さえなければ、今にも駆け出して突撃を仕掛けんばかりの気魄を滲ませている。
 彼の目が遠く江陵城を見つめている。やがて、その視界に土煙が上がった。
「戦いを努々恐るるなかれ! お前たちは皆、我が君の加護を受け愛された兵士たちだ! 私が必ず皆を守ってやる!」
 あろうことか、周瑜は馬を走らせて自ら軍営の先頭に立った。目を剥いた魯粛がその傍につくと、彼は肩越しに少しだけ顔を振り向かせて笑った。
「私の傍から離れないでくださいね」
「もちろんさ。俺はまるで武芸の覚えがないからね、俺の命はあんたに預けた」
 そうして二人は土煙を睨みつけた。
 影が迫り来るにつれ、その輪郭がはっきりしてくる。翻る旗には曹の文字と徐の文字がある。
 ――大将首二人が連れ立って、とは……
 周瑜は緊張のために流れる汗もぬぐえずに、しかし口元は不敵に微笑んだ。程普、呂範、呂蒙、そして張飛の軍勢が戻るまでに――或いは彼らが反転して防備の手薄になった江陵に攻撃を仕掛けるとしても――持ち堪えられる自信は、実際のところあまりなかった。
 脇腹の疼痛は止まない。添える手は震えるが、周瑜は背筋を伸ばして敵の姿を視野に迎え入れた。
 曹仁、徐晃、そして彼らの率いる騎兵とその後ろに続く歩兵たちが、孫軍の軍営の目と鼻の先まで迫った。曹仁が片手を挙げると、彼らはゆっくりと行軍の足を緩め、ついに止まった。周瑜は更に馬を数歩進め、曹仁の顔の輪郭がはっきりとわかるまでの距離に近づいた。魯粛も続く。
「やはり死んではいなかったようだな」
 決して大きくはないのに、遠くまで届く声だ。曹仁の言葉が、周瑜の傷のことを示しているのは明らかだったが、周瑜はそれに対して首をかしげて見せる。
「何の話をしているんだ? 影でも射抜いて敵を討ったつもりだったのか?」
「少なくとも減らず口は叩けるらしい」
 肩を竦めて曹仁は笑う。その斜め後ろに控える徐晃が瞬きもせずに周瑜を睨みつけているのとはまるで違っていた。
「俺たちはもう行く。江陵の“差配”はお前たちに任せよう」
「……見くびるな。生かして北に帰すとでも?」
「生きて帰る。では、さらばだ」
 曹仁が手綱を力強く引き、馬をいななかせる。行くぞ、と曹仁が叫び馬を走らせると、後続の兵士たちも一斉に走り出した。徐晃はその行軍から少し逸れ、しばらく周瑜と魯粛とを見つめていたが、ほどなく退避していく軍勢の後ろに続いた。
「矢を射掛けよ! 曹軍を生かして帰すな!!」
「はい!!」
 すぐさま周瑜が指示を出すが、兵たちが弓に矢をつがえるよりも曹軍がその射程圏内から抜ける方が早かった。チ、と舌打ちをした周瑜の下に焦燥した様子の伝令が駆け込んでくる。
「今この間に、江陵城北門から曹軍の別動隊が脱出し、街道を北進した模様です!」
「なんだと……!?」
 魯粛が唸る。撤退のための陽動か、と周瑜は呟いたが、すぐに北道に展開させていた軍勢に思い至った。
「程公たちの軍勢も曹子孝を追っている。挟撃できるだろう」
「いえ、それが……!」
 伝令が続けた報告に、周瑜は目を剥いた。

 江陵から南陽郡へと伸びる北道を封鎖していた甘寧、周泰、関羽の軍勢をその後背から攻撃したのは、南郡より七百里近くも遠方にある汝南郡の太守としてその周辺の賊を討伐していたはずの李通、字を文達の率いる軍勢であった。不意を打たれた孫軍は、彼の繰り出す苛烈な攻撃に散り散りになった。李通は、下馬して手ずから北道周辺に建てられた鹿砦を引き抜き友軍が退避するための道を作ると、立て続けに北門周辺を包囲していた孫軍に突撃を仕掛けたという。時に、曹仁、徐晃の軍勢が孫軍の兵営へと迫り、別動隊が北門からの脱出を始めた頃で、望み薄だった助勢を得ることができた曹軍は勢いづき、次々と北道の封鎖を突破して北へ走り去ったということだった。

「…………北東から、か……やられたな。襄陽の楽文謙は動かずか」
 忌々しそうに言葉を発する周瑜の肩を、魯粛は軽く叩いた。
「だが、これで江陵は我々が取った。十分だろう。我が君もお喜びになるさ」
「…………ええ、そうですね」
 そこでようやく周瑜は肩の力を抜き、ふう、と長いため息をついて空を仰ぎ見た。

「……ようやっと、終わったか……」

 長く続いた荊州の攻防戦についに決着がついた瞬間だった。
 わあ、と兵士たちが次々に歓声を上げ始める。それを振り返った周瑜は、ほっとしたように微笑み、魯粛に手を差し伸べた。気づいた魯粛が彼の手を握り返せば、その様子に兵たちはまた盛り上がる。
 その日の内に、江陵城壁に孫軍の旗が建てられた。


 ◇


 柴桑の政堂に荊州奪取と曹軍撤退の報を持ってきた魯粛を、孫権は官吏、そして柴桑の防衛のために残っていた部将たちを皆一堂に会させて迎え出た。初めは目を丸くした魯粛も、すぐにニヤリと笑って堂々と孫権の下に歩み出る。
「お疲れ様でした、魯子敬どの! 戦況の報告は逐一書面にて受けておりましたが、こうして戦いを終えた将を出迎える喜びには敵うべくもありませんね」
「ええ、諸将は皆奮戦し、その勇武で以て敵を圧倒いたしました。叶うならばあなた様のお目に掛けたかったほどです」
 その言葉に孫権は微笑み、魯粛の手を取った。
「改めて、私は皆様方のすべてにお仕えしたい。あなたを手ずから馬から迎え下ろさせていただくところから始めても構いませんか?」
 そのまっすぐな視線を魯粛はしばし見つめ返していたが、やがて首を振った。
「それではいけませんよ、我が君」
 傍らにいる孫権にしか聞こえないような小さな小さな声で、魯粛は語りかけるように言う。
「まだそれには及びません。あなた様の光が天下にあまねく行き渡り、この中華から一切の争いが消え、私が以前申しましたように、あなた様が帝王となられましたその暁に――」
 ぐいっと孫権に顔を近づけた魯粛は、にこりと微笑んだ。
「あなた様の御車より手を差し伸べて、わたくしを、皆様方をその中へ迎え入れてくださいませ。それで十分です」
「あ……はは」
 なんですかそれ、と孫権はおかしそうに笑う。その表情を見て、魯粛も楽しそうに肩を震わせた。内緒話が聞こえなかった周りの官吏たちは、二人の様子に首をかしげるばかりであった。