「初めまして、孫将軍」
 人好きのする笑みを浮かべて劉備はそう挨拶した。だが、孫権にはどうしても彼と初めて相見えたような心地はしない。不思議とずっと前から彼のことを知っていたような、まるで古くからの知り合いであるような、そんな懐かしい雰囲気を彼はまとっている。
 その感覚は、孫権にとっては喜ばしいものとは言い難かった。


 ◇


 周瑜たち孫軍の将と、関羽、張飛らが主導する江陵攻囲のまさに最中、劉備は孫軍より預かった兵たちを率い、後顧の憂いを断つと言って江陵の南部にある郡県の攻撃に向かった。結果、距離的な問題はあったとはいえさほどの労苦もなく荊州南部の武陵、長沙、桂陽、零陵の四郡を制圧した彼は、そればかりか、かつて長江周辺で無法を働きながら劉馥のために服従し、現在は盧江郡太守となっていた雷緒、字を子起の帰順という手土産まで携えて、揚々と江陵城の目の前に設営された孫軍の本陣に戻ってきたのである。
「……おかしなことは何もしてないでしょうね」
「おかしなことって? 俺はあいつらがなんのしがらみもなく戦争を終えられるよう手助けしただけさ」
 なにせ俺の義弟たちも世話になってるのだからね、と己を疑いの目で見つめる凌統に劉備は笑う。
 凌統は今度、劉備の後ろに控える二人の武将に目をやった。どちらも立派な風采で威厳ある佇まいの彼らは、それぞれ名を趙雲、字を子龍、そして陳到、字を叔至という。劉備自慢の武将たちは凌統の訝るような視線にも一様に泰然とした態度を崩さない。確かに凌統自身、彼らや他の劉備に従い荊州を落ち延びてきた将たちと関わり合うなかでその気質がとても好ましいものだとは感じていたから、特別何を言うでもなくその場は頷くに留めた。
「さて凌将軍、こっちの状況はどうだい」
「ええ、北門の陣営より、間もなく江陵城の制圧は完了するであろうとの連絡を受けております。南門の城壁に陣取る敵の数も目に見えて減っておりますから、ご帰還早々ですが劉豫州どのも突入の準備を整えてください」
「わかった」
「劉豫州どの、江陵を制圧したらあなたも一度我が君のところへ行くんですからね。挨拶もなしにどこかへいなくなるようなことはしないでください」
 つっかかるような物言いの凌統に、それもわかってるって、と笑って返した彼は、不意に真面目な雰囲気を身にまとわせて凌統を見た。
「だが、ちょっと寄りたいところがあるんだ、それは許してくれるね」
「……俺にその権限はありませんから。ちなみにどこへ」
「劉荊州どののところへ。このところ容態が思わしくないんだそうだ」
 建安十三年末の烏林、赤壁での衝突から程なく、劉備の上表によって独自に荊州刺史に任命されていた劉琦、字を伯瑰は、それからさほど間をおかず滞在していた鄂県で病床についた。劉備は江陵での戦闘中も諸葛亮、そして劉表の死後から行動を共にしている伊籍、字を機伯とを使いに出して彼を見舞っていたが、過日その使者たちから届いた書簡によれば、かの恩人はいよいよ危篤の状態であるという。
 せめて江陵の陥落を待ちたいところであったがこれではそれもままならないかと、劉備は、あるいは趙雲や陳到に南郡戦線を任せて己は鄂へ向かってしまおうかとも考えていたところであった。
「心中お察ししますが、もう少しこらえてくれますか」
 だが、凌統ははっきりそう口にした。
「すぐに江陵は落ちますから」
「……お前さんがそう言うなら、わかったよ」
 劉備は肩をすくめて言う。凌統はどうしてもこれ以上己から目を離すことはできないようだ。
 彼の責任感もわからないではない。凌統と共に本陣の守備を任されていた二名のうち、先の水戦で負傷していた黄蓋は夷陵攻囲にはどうにか参加したものの、その後本陣まで退却した際にひどく痛む様子を見せたため大事を取って一旦呉郡へ帰還しており、韓当はというと、長江流域に於いて発生した曹軍との戦闘に対応するために孫権によって呼び戻されていた。合肥に進軍していた孫権は、盧江郡灊山の近辺で山賊行為を働いていた陳蘭、梅成らが曹軍の将たちの攻撃を受けているとの報を得、彼らを盧江郡へ釘付けにするために、韓当に対して救援の名目で軍を動かし陽動することを要請したのである。
 ――結果としてかの山賊たちは斬られ合肥包囲も失敗に終わったため、揚州方面の戦闘はうやむやのまま収束したのであるが。
 雷緒が劉備のところへ帰順してきたのもそのことが遠因でもあった。かつて、盧江郡に於いて発生した刺史殺害事件に呼応して蜂起した彼は、その敵である孫権の下に出頭するわけにはいかなかったのである。
 彼の訴えを受けて劉備は雷緒と彼の率いる軍勢を受け入れたのであるが、内心では孫権という男への疑念を沸かせていた。
 ――かの若造は一体何を考えているのだ?
 黄巾党の叛乱が起きてからゆうに二十年以上戦場に身を置き、この最近では戦う機会そのものは少なくなっていたものの歴戦の将として兵を率いてきた劉備には、そのところが全くわからない。
 揚州方面の情勢が気にかかるなら睨みをきかせる程度に留めておけばいいのに積極的に合肥を攻囲して挙げ句撤退したり、いかにも戦い慣れない壮年の文官に別働隊として徐州を攻撃させてみたり。その報を受けたとき、劉備は心底ひやひやしていた。彼が“余計な”ことをして、曹操が変な気を起こさないとも限らない――少なくとも、孫権の撤退後に曹操は合肥に入城し、布告を出して長江北岸の郡県を手ずから管轄下に置いている。
 孫会稽のために、曹孟徳が軍をさらに多面展開せざるを得なくなったことは僥倖です、と諸葛亮はしたり顔で言った。
「我々はその裏でただ時を待てばいい。いえ、待つしかないと言いましょうか」
 ――待つだけではつまらないから劉備が自ら荊州南部の攻略に取り掛かったと彼が知れば、呆れた顔をするだろうか。
 義弟たちが奮戦しているのをただ見ているだけというのは劉備の頭にない。それがたとえ、彼らの意にそぐわぬものだとしても。

 周瑜たち孫軍と関羽、張飛の連合軍が江陵を制圧したという報を孫軍の本陣にもたらしたのは、本隊に先んじて帰陣した魯粛であった。未だ城壁に旗は立てられていなかったが、自分は急ぎ取って返し孫権の下へ戻るのだという。周瑜たちは戦後処理を終えてから帰路に着くらしい。
 それを受けて凌統、劉備の両名は本陣を畳んで江陵に入城し、周瑜たちと再会した。
「劉豫州どの、仕度が済みましたら一度我々と共に呉郡へ向かっていただきます。殿に目通りいただきたい」
「ああ、わかってる。凌将軍にも口をすっぱくして言われたよ。だが一旦別行動を取らせてもらえるか」
 劉琦の危篤を告げると、訝る表情だった周瑜は得心したように首肯し、交換条件として引き続き関羽、張飛が孫軍に同道することを提示した。大方の予想はついていた劉備が快諾してみせると、彼は急に興味の失せたようにそっけない挨拶をしてその場を辞去してしまう。
 劉備は首をかしげ、近くにいた周泰に尋ねた。
「周将軍は怪我でもしたのかい」
「……なぜそう思われます?」
「いや、なんとなく」
 大事ないならいいんだ、と手を挙げて劉備もまたその場を去ったが、周泰は眉根を寄せて彼の背を見つめていた。

 呉郡へ戻る途中で一旦孫軍と別れ鄂県へ向かった劉備は、辿り着いた城の入り口でちょうど中から出てきた諸葛亮、伊籍と再会し、彼の口から劉琦が亡くなった旨を聞かされた。
「……間に合わなんだか」
「主公によろしくと、託けて逝かれました」
 口許を手で覆い隠し、視線を逸らした劉備はひとつ首肯して、そうか、とだけ返す。その居た堪れなさそうな表情を見ながら、諸葛亮はしかし、彼の名を呼んだ。
「劉伯瑰様が亡くなられたということは、荊州刺史が亡くなったということです」
「孔明」
 言葉の端からその意図を感じ取った劉備は、咎めるような声を上げた。
「それよりも葬儀はどうする。弟君は既に孟徳のところだ。家臣団も皆……」
「ええ、そこで、従事史の姫正霊様に取り仕切っていただくことになりました。私どももその補佐を。ただ、なにぶん人手が足りませんで、皆様がご到着なさったらご支援をいただきたいと」
 伊籍が早口でそう告げるのに劉備は頷き、彼の後背に控える将兵たちを顧みた。
「無論だ。皆、葬儀の準備を手伝ってくれ。叔至の部隊は城邑の守備を手助けしてくれるか。雷君の部隊も連れて」
「承知いたしました」
 劉備の言を容れ、すぐに踵を返す陳到とその軍勢を見届けてから、己の傍に控えていた糜竺、字を子仲、そして孫乾、字を公祐を手招く。
「孔明たちと共に従事史どのを補佐してやってくれるか」
「はい、かしこまりました」
「なあー、玄徳」
 拱手して礼を返す二人の横から間延びしたような声で割って入ったのは簡雍、字を憲和である。
「俺は何すりゃいい?」
「憲和は俺と一緒。言われたことは何でもする」
「へいへい、わかりましたよっと」
 飄々と返事をして傍近くに寄ってきた簡雍の隣で、趙雲が物言いたげに己を見つめているのに劉備は気づいた。
「おお、子龍、悪かったな。お前のとこなんだが、お前と他何人か、うちの連中の世話に当たってほしい。残りは守衛の手伝いに回ってくれ。受けてくれるか?」
「! はい、わかりました」
 ぱっと表情を明るくして大きく頷いた趙雲の頭をくしゃりとかき混ぜ、ようやく劉備は諸葛亮に向き直った。
「よし、何でもするぜ、孔明、機伯。伯瑰どのとの最期の別れだ」


 ◇


 ――葬儀は恙なく執り行われたが、喪に服する間もなく鄂県の政堂に集った皆はすぐに正庁で議論の場を構えた。
 かつての荊州牧である劉表が没したとき、曹操は李立、字を建賢を新たに荊州牧として派遣していた。李立は劉備と故郷を同じくする人であったが、劉備自身に彼との誼みがあるわけではない。劉備が劉琦を立てたのはその正当性のためというのがほとんどであったが、曹操に対抗する意識がなかったわけではない。
 だが、こたび劉琦が病没したことで、中原の曹操に対し得る手段は劉備のなかには残されていなかった。
「それは違います、主公」
 声を上げたのは伊籍である。
「あなた様は荊州南部の四郡をご自身の力で平定されました。この地に割拠することがどうして余人に咎められましょう」
「その通りです」
 諸葛亮が続ける。
「加えてあなた様のご威光は徐州から豫州へ、そしてこの荊州までも広く行き渡っております。雷子起どのが遥か盧江より数万の軍勢を従えてあなた様の下へ降ってきたのもその証左」
「違う。彼は行き場がなかった。俺と同じ」
 反論した劉備に、ぐいっと諸葛亮は詰め寄った。思わず身を引く劉備に、彼はさらに近づいていく。
「そう。まつろわぬ者たちもまたあなた様のお力を恃みにしているのです。あなた様は彼らのことをよく理解している。人は、己をよく理解してくれる者のためにならいくらでも命を賭すことができるものです」
 諸葛亮は劉備の目をまっすぐに見つめて言った。
 たじろぐ劉備は諸葛亮から目をそらす。返す言葉を見つけられない彼に、横からそっと名を呼ぶ者があった。糜竺である。
「主公、私の妹は」
 その言葉に劉備ははっと息を呑んで彼を見やった。
「あなた様と共に栄えある安寧の国に憩うことを願っておりました。今、もはや甘様も亡く、我が妹も何処かで斃れましたが、その悲願はあなた様の臣下である皆様の中に受け継がれているのです」
「し、子仲、それは……」
 何か言おうとした劉備であるが、目を伏せ俯き加減のままの糜竺にかける言葉を見つけられずに拳を握り締める。
 劉備の夫人の一人である糜氏は、先の逃亡戦の折に曹軍の軽騎兵によって虜にされた者たちの中に混じっていたと思われ、趙雲が単騎走ってもう一人の夫人である甘氏とその子息を救出した際にも姿は見えなかったという。その甘氏も戦争で受けた傷がもとで、荊州まで落ち延びるさなかに帰らぬ人となった。
「玄徳」
 沈痛な面持ちの劉備を、傍らでぼんやりと議論に耳をかたむけていた簡雍が、古い馴染みに向ける気安い声で呼ぶ。
「お前はさ……お前が考える以上に、お前だけのものじゃなくなっちゃったんだよ。もうみんなの中にそれぞれの劉玄徳がいて、それをお前にも望んでる」
 簡雍はいつも笑っているような表情をしている。常ならばそれは劉備の心を安らかにするはずなのに、今の彼の笑みにはどこか寂しげな風情があって、そのことが劉備をどことなく焦らせた。
「残念だけどさ」
 ――だが、彼の言葉で、劉備は己の焦燥が間違っていなかったことを知る。
「決めなくちゃな。自分のやりたいようにやるか、誰かのやりたいようにやるか」
 劉備は絶句した。彼の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
 しばらく互いを見つめていた二人だったが、やがて劉備は周囲に集まる群臣たちにも視線を巡らし――小さな声で、ぽつりと答えた。
「……今日は、もうこれきりにしよう……すぐに孫将軍の都に行かなきゃならん。周将軍にも怒られるし……」
「主公、それはなりませぬ。周公瑾は必ずあなた様を害します。誰ぞ代わりを向かわせれば済む話です。彼のためにむざむざ虜になると仰りますか」
 諸葛亮が語気を強めて咎めるのに、劉備は彼をちらりと見遣る。
「それでは失礼が過ぎるだろう。曲がりなりにも盟を組んでいるんだからさ。大丈夫だ。一晩、時間をくれれば……もう決めてるから」
 今日は、もう休もう。そう言って、劉備はさっさと立ち上がって正庁を後にした。

 夜半、このところどこの県へ行っても日課になっていた――警邏隊から隠れ潜みながらの緊張感のある――散歩から帰ってきた簡雍は、寝静まった政堂の奥の廊下に仄明るい光が揺らめいているのを見た。
「…………?」
 光は突き当りを曲がって、奥の房へと続く廊下の向こうに消える。そこには今、劉琦の遺骸を寝かせた棺が置かれていた。
 まさか副葬品を狙う夜盗ではあるまいかと、簡雍は珍しく正義感を少しばかり携えてその後を追う。劉琦は、劉表の下にいた劉備たちにとっては恩人であり良心のような存在だった。劉表もそうでなかったとは言わないが、彼は心底では劉備を疑い、これを重用することを意図的に避けて飼い殺しにしようとしていた節がある。だから簡雍は劉表のことは好きではなかった。
 劉琦は若いのに立派だったし、なにより寄る辺ない劉備たちにとても良く接してくれた。樊城から這う這うの体で逃げ出し襄陽へ入城することも叶わずに、荊州を南へ落ち延びる己たちの目に映った彼の率いてきた一万の軍勢は、心強く、また励まされるほどの勇猛さを迸らせているように見えたものだ。
 やはりと言うか、光は棺のある房から漏れている。簡雍は武器の使い方も上手くなければ体術を心得ているわけでもなかったが――だから武将たちのように戦うのではなく劉備の傍にいて彼と議論をしたり使いをしたりすることしかできない――とにかく喚いて騒ぎを起こせば誰か気づくだろうし悪漢もたじろぐだろうという予想のもと、そろりそろりと光へと歩み寄っていく。
 そうっと房の開いた扉から顔を出して中を覗き込めば、劉琦の棺の前に黒い何者かが胡座をかいているのが見えた。
「…………玄徳?」
「! 憲和」
 それは劉備の影だった。
 簡雍の声に肩を震わせて振り向いた彼は、簡雍の姿を見てほっとしたように笑った。
 その傍らに酒瓶があるのを見て取って、簡雍は己も彼に笑ってみせる。
「なあにやってんの? 俺も混ぜてよ」
「酒の匂いにはすぐ気づくよな、お前はさ」
 劉備の隣に胡座をかくと、彼が己の使っていた盃を差し出してくる。それを受け取って酒が注がれるのに任せていたら、あふれるくらいなみなみと注がれてしまった。肘で小突けば、ヒヒ、と彼は喉を引きつらせたように笑う。
 こういう二人の気安い態度は、糜竺や諸葛亮たちには好まれなかった。彼らにとって主であるところの劉備がまるで簡雍に気を遣っているかのように見えることがその理由だ。
 否定もしないでいたらいつの間にか疎まれてしまっていたが、そんなことは簡雍にとっては重要ではなかった。己と劉備とはそもそも主従の関係にはない。
「最後の別れ?」
「うん、まあ……世話になったからなあ」
 遠い目をして、劉備は言う。
 彼は何度、こうして恩人の死を目にしてきただろう。病に斃れる者もあれば、彼がその言葉でもって死に追いやった者もある。
 ――曹操だけだ。生きているのは。
 簡雍は曹操のことを遠目に見るだけだったが、その姿、佇まいは鮮烈に目に焼きついている。小柄な体に身の毛もよだつほどの野心と威圧感を従えて、彼は凛として立っていた。
 曹操と劉備とは、これからどうなっていくのだろう。今、中華のすべてが曹操を中心にして円を描いて廻っているのは誰の目から見ても明らかだ。きっと彼が、歴史を変える。
 それでも、その輪に与することをよしとしない劉備の一派や、あるいは今回の荊州戦線に於いてついに曹操と敵対することになった江東の一団がいる。北辺の異民族たちや西北の騎馬民族たち、益州の山間には日和見主義者もいる。
「…………憲和」
 不意に名を呼ばれて、簡雍はぱっと己の隣を見た。どこか覚束ない風情の劉備の横顔が、淡い光の中で頼りなく揺れている。
「これから何が起こるのか……俺にはわからん。江東で殺されるかもしれないしな。事実、魯子敬はともかく、周将軍は俺を敵視してるし」
 簡雍の脳裏に、かの将軍の秀麗な面が浮かぶ。彼もまた食わせ者だ。外面はいいけれど、内心が底知れない。
「江東には先に雲長や益徳が向かってるだろお。誰もお前を殺させやしない。子龍も叔至もいるんだから安心しろ」
「ふふ、それもそっか」
 劉備は笑った。そうして、まっすぐに簡雍を見た。
「なあ、これからもずっと、お前だけは、俺の味方でいてくれるか」
「もちろんだ」
 簡雍は即答していた。それが望まれていたから。
「死ぬまでお前の傍に、ずっといる」
 その言葉に、劉備はようやく“本当に”心の底から笑ったようだった。それで、簡雍も嬉しくなって笑みを返す。
 言われなくてもそうするつもりだった。そうでなければ初めから、北の幽州の地から遥かに遠い江南の地までへらへらついてきたりはしない。飄々としてとらえどころのないように振舞いながら、簡雍はその実はっきりした男だった。
 劉備が好きだから、彼とずっと一緒にいるのだ。
 彼のために誰が死に、誰を殺しても、それだけは永劫変わることがないのだと、誓って言える。


 ◇


 建安十五年初頭、孫権は劉備一行を出迎えるために、曲阿県の北、長江の河口にある丹徒県京城まで既に赴いていた。この地はかつての功臣、孫河の甥である孫韶、字を公礼が守る地であり、江と入り江を隔てて曹操の管轄下にある揚州北部と接していながら、孫河が遺し孫韶の鍛えた精強な軍勢に守られた頑健な要塞でもあった。
 京城に於いて、劉備たちの一団をもてなす宴会は盛大に催された。劉備が荊州牧の任に着くにあたって、孫権を車騎将軍代行とするよう上表していたから、その祝宴も兼ねている。
 宴の席で孫権は、辞令と共に曹操から手紙が届いたのだと笑った。曰く、先達ての戦役では“偶然にも”疫病が蔓延していたところに周瑜の率いる軍勢の攻撃を受けてしまったせいで、彼の高慢さを助長させるはめになってしまったと。
「ふはは、そりゃあ孟徳お得意の負け惜しみだ」
「ええ、周公瑾どの始め、程公、黄将軍ら、そしてあなたから預かりました股肱である関張両将軍もまた素晴らしい戦果を収めました」
 劉備は目を細めて、まるでその様子を見てきたかのようにのたまう孫権を見遣る――実際、魯粛あたりが戦況を隅々まで詳細に彼に述べて聞かせただろう。劉備には、この表情豊かな青年が彼の話を聞きながらどのような面持ちでいたのかまで見えるようだった。

 わかりやすい孫権の視線は時々、劉備を伺うような色を見せる。始めは不可解に思っていた劉備も、段々とその理由を理解した。
 ――畏怖、あるいは、居たたまれなさ。
 酩酊した雰囲気のなかで、孫権は出し抜けに劉備に問うた。
「劉荊州どのは、どうしてここまで曹公に屈せずに来られたものでしょうか」
「え? …………ええっと」
 孫権が、成り行きで、という答えを欲しているのではないことはすぐにわかったから、劉備は視線を彷徨わせて得心のいく理由を探した。あるときは車に同乗し、膳を突き合わせて共に飯を食むような間柄だったのが、今こうして殺し合いをしているのは何とも不思議なものである。それでも己にしてみれば、落ち着くところに落ち着いたというような印象ではあった。曹操に連れられて同じ車に乗ったときの居心地の悪さは――ともすれば、孫権には同意を得られそうなものである。それは、今彼が己に対して抱いている感情とほとんど違いはないように思われた。
「もはや、そうなるさだめだったとしか言いようがないだろうね。孫将軍は、孟徳に会ったことは?」
「……あります、一度」
 おや、と劉備は目を丸くする。それは意外だった。
「じゃあ、わかるだろう? あいつの怖さが」
 孫権は首肯する。そうしてまた、己をあの居たたまれないような碧い瞳でちらりと見上げた。
 曲がりなりにも人の上に立つ者が、どうしてそんな顔ができるものだろう。――誰に何を吹き込まれたのだ? 劉備がこうして孫権の所領に自ら足を運んでいるのには大きな理由がひとつあるが、孫軍が呉郡へ帰還してから劉備たちがここへ辿り着くまでには少なからぬ空白の期間があった。恐らく間違いなく、今後の孫軍の方針について軍議が持たれたことであろう。そこで劉備やその一派に対するなんらかの方策が群臣より提示されたのは――よほどの暗愚でもない限りは――必然であり、そのことが彼にこのような目をさせているのかと、劉備はまずそのように考え、そして苛立った。
 群臣とは、彼らの戴く旗頭を、天空に美しく悠然と漂わせるために旗竿を支え、力強く風を吹かせるために在らねばならないと思っているからだ。
 そうして得心がいくと、彼に対して感じていた疑念も次第に晴れていくのがわかる。彼はどんな無茶をしても、己の力で動かなければならないと“思っている”のだ。己の持てる限りを目に見える形で示さねばならないと思っている。彼を仰ぎ見る群臣の存在、その不確かさゆえに。
 それは、とても切ないことのように劉備には思えた。
「なあ、孫将軍。俺が年上だからって、気兼ねしなくていいんだよ。そう、そうだ、劉って字が怖いなら、俺のことは玄徳と呼んでくれて構わないんだぜ」
 大きな身振りでそう訴え、へらっと笑って見せる劉備に、孫権はぱちりと目を丸くした後におかしそうに笑った。
「いえ、それも……ないとは申しませんが。私はあなたが羨ましい」
「へ?」
「確固たる自信があって、臣下に愛されるあなたが」
「…………」
 中空に上げていた手を下ろして、そうかい、と劉備は返事をした。そうです、と孫権は答え、膳に箸を伸ばして膾を口に放り入れ、無暗に咀嚼している。
「――私の妹が」
「んっ?」
 口の中のものを飲み込んでから、また孫権がぽつりと言った。
「もし、あなたの妻になりたいと申し出たら、受けてくださいますか」
「…………、……妹っていうと……」
「今年で二十になります」
 すぐに劉備は頭の中で己の年齢との歳の差を計り、口許を引きつらせた。
「いやあ、俺は構わないんだけど……いいのか、こんなおじさんで」
「劉荊州どのさえ構わなければ、私は妹の言うことに異は唱えません」
 孫権が真顔で言うのに劉備はたじろいだ。先ほどまであんなに様々な表情を見せてくれていたのに、今の彼はどこか別人のようにも見える。それだけ私情を挟む余地のない問題なのであろう、唐突な申し出とは言え劉備も重々承知しているつもりだ。何より彼の言うことを信じるならば、この婚姻は彼の妹から持ち掛けられたものであるらしい。
「じゃあ、ありがたく受けるよ。こちらこそよろしく頼む」
 中原に坐する強大な敵に対抗する両軍が手っ取り早く盟を強固なものにするには、このやり方が一番ではないかと劉備も考えた。そして、荊州で手から零れ落ちた二人の妻の顔が頭をよぎり、新たに迎えることになるもう一人の妻に思いを馳せながら、劉備は孫権の差し向ける酒を盃に受けた。
 ――彼が孫夫人という存在に手を焼くのは、もう少し後のことになる。


 ◇


「劉豫州の一行は鄂県での劉荊州の葬儀を済ませて、しかる後にこちらに向かうそうですので、到着はしばらく遅れるとのことです」
 伝令の兵士から報告を受けた孫権以下群臣の面々は――劉備の推測通りに――京城に於いて軍議の場を持った。これまで静観を続けてきた河北、中原の情勢に片が付き、荊州、そして揚州での戦役をもってついに曹操と敵対することになった孫軍は、加えて独自に軍を動かし荊州南部の四郡を制圧した劉備に対する処遇という異なる問題をも抱えることになったのである。
 しかし、ある程度の予測はつくものの劉備側の出方が不透明なところもあり、当座は劉備の動向を見てからの判断に委ねても構わないだろうとの意見を取ってその場は解散となった。

 宴会が開かれた後日、改めて孫権と劉備の会見の場が持たれ、彼が孫軍側に求めたのは“公安の地を己の荊州牧としての州都として定めることを承知しておいてほしい”ということだった。
 公安県は江陵から江水を南に下ったところにあり、劉備が独力で落とした荊州の四郡とは所属を異にする地である。いわば、南郡の諸県のひとつであった。
 孫軍は独自に南郡太守として、当地を陥落せしめた周瑜を任命していた。公安県の差配はつまり周瑜の預かるところとなっていたのである。しかし、周瑜は劉備が公安県に開府することにこれといった意見を申し出ることはなく、また孫権も異論を唱えることはなかった。
 ――彼らが、とりわけ孫軍の群臣たちが問題として取り上げているのは、劉備そのものの存在である。
 会見を終え旅館に戻る劉備を見送った後、同席していた呂範が孫権に、劉備の身柄を江東に留め置くように進言した。
「劉荊州は何をしでかすかわからない男です。先の荊州南部の攻略で見せた軍事的手腕はとにかく恐ろしい。後に禍根を遺さぬためにも、彼に自由を与えてはなりません」
「ちょっと待ってくださいよ、呂子衡どの」
 呂範の言を遮ったのは魯粛である。孫権は驚いたように彼を見た。
「あんなに躍起になって落とした荊州を空けておくわけにはいかんでしょう。公瑾どのが南郡へ、程公が江夏へ、あなたが彭沢へそれぞれ留まることになっているとはいえ、当地には蛮や山越ら異民族の脅威もある。我々がそれにかかりきりになって曹孟徳に付け入る隙を与えてしまっては元も子もない」
 魯粛は政堂に集まった一同を見回して、こほんとひとつ咳払いをした。
「それに我々には、荊州より先の目的だってある。そのために、劉玄徳どのを上手く使いましょうよ。彼を泳がして共同戦線を張れば、曹孟徳の戦力を分散させることもできる」
 小首をかしげて言う魯粛をしばらく見つめた後、孫権は周瑜に視線を遣った。彼は少しうつむき加減に目線を落としていたが、やがて孫権と目を合わせると、表情を動かさないまま口を開いた。
「……この場では、決め兼ねます。殿、後ほどお伺いしてもよろしいでしょうか」
「え、ええ……わかりました」
 では、と周瑜が立ち上がって政堂を辞去していく後姿を見ながら、孫権は全身の血が引いて体が冷え切ったような心地がした。
 彼が何を口にしても、それは己の意図するところとは別のところにあるような気がする。周瑜の無表情は、あまりにもかつての周瑜のものとは違っていて、孫権には彼がとても恐ろしく思えた。

 そうして夕暮れ、秘密裏に孫権の下を訪れた周瑜は、確かに孫権の思いもよらぬ言葉を口にした。
 彼は、劉備を呉に留め置き彼のために“宮室”を築いてやって、美女と共に遊ばせ、娯楽を与えて骨抜きにしてやるのがよろしかろう、と言うのである。

 宮室とは――“皇帝”のための宮殿のことであった。