十年前、亡兄の将の一人として生きていた孫権は、召喚されて向かった許の都で献帝の住まう宮殿を見上げた。雄々しく、重厚で、それでいて威厳ある華美を装う佇まい。だが、どこか物悲しさを漂わせている。
 あの日見た朝焼けを背負って黒く染まる宮殿の、最上階の窓から見下ろす小さな人影は――
 ――あの姿は、“皇帝”のものだったのではなかろうか。

「あの人が漢の皇帝なのですか」
 声をひそめて谷利に問うたのは、新たに孫権の側仕えとして黄蓋の麾下から異動してきた左異である。
 劉備の抑留、そして関羽と張飛の両名を己の傘下に組み込むという周瑜の出した提案に対して孫権が熟考したい旨を告げて彼を退出させた後、難しい表情をして考え込んでいるような主を憚って小さな声で発せられたその問いに、谷利が答えるよりも早く孫権は首を振った。
「彼は今の漢王室の皇帝ではない。確かに、かつての皇帝の血を継いでいるという話ではあるが」
 自身を漢の第六代皇帝、景帝の子息である劉勝の庶子、劉貞の末裔であるとする劉備は、かつて都に滞在していた折に献帝に目通りし、“皇叔”とまで呼ばれて親しまれていたという経歴もあった。
 なるほど、と得心した左異には、今度は別の疑問が生じたようでやはり小さな声で言葉を発する。
「では、彼を勝手に皇帝にするのですか?」
「…………」
 孫権は眉根を寄せて厳しい表情をつくる。
 孫権が――孫権のみならずこの天下がそれを是としていないことは、谷利にもわかった。袁術、そして王莽。以前、魯粛の吐いた大言壮語に孫権が振り回されたとき、谷利はこの中国にかつて存在した“皇帝”たちの名を朱桓から聞いていた。彼らは一様に多くの者たちから批難され、その“治世”はいずれも短命に終わり、失意のうちに没したり殺されたりしている。
 今、孫権や江東の一団が劉備を奉戴し、天下にもう一人の皇帝を即位させるようなことがあれば、先達と同じような命運を辿るのは必至であろうと思われた。
 谷利は、いつか見た己の前から歩き去っていく周瑜の後ろ姿を思い出していた。あの日は曹操に対して保質を送るか送らないかで府内が混乱し、最終的に孫権は周瑜と亡母との会談でもってそれを拒否することを決めたのだ。
 彼は、己と朱桓とに、きっとずっと孫権の傍にいるのだろうね、と言った。頼りにしている、と。
「……何か、考えがあるのだ、公瑾どのには」
 孫権はようやくそんなことを口にした。しかし、その声はあまりにもかすれ、頼りない。
「だが……それを受けることは私にはできない」
「我が君……」
「この地に災禍を呼び込むようなことがあってはならない」
 その横顔は厳しく、谷利には彼がまるで怒りに似た感情を心底に湛えているようにすら見えた。

 後日、孫権は群臣とまみえるよりも先に劉備と会見し、荊州当地の牧の不在は不安があろうから、早めに戻るがよかろうということを伝えた。劉備は目を丸くしてそれを聞いていたが、孫権がやけに熱心に勧めてくる様子にやがて頷き、またあの気安い笑顔で笑った。
 そうしてほどなく、劉備一行の送別のための宴会が開かれた。このときようやく関羽、張飛の両名も劉備の麾下に復帰し軍事的協力も解かれることとなったが、以降も変わらず曹操に対抗する名目で盟約は保たれることで話は決着した。
 かつては劉備を突っ撥ね、曹操に降れと勧めた張昭らの文臣や、劉備を江東に“留め置く”よう孫権に進言した周瑜、呂範らも宴に臨席していたが、彼らの劉備に対する視線は鋭く、そのことは常に劉備の隣で酌をしている孫権にも察せられた。
「いつになっても、宴席は緊張するなあ。心安い友と盃を交わすのとはわけが違う」
 ふと、劉備がそんなことを言った。慌てて謝罪を述べようとした孫権であるが、劉備本人の言葉に遮られる。
「昔々――」
「え……?」
「黄巾の民たちが一斉蜂起した。孫将軍はまだ小さかったかもしれないが、俺はもう結構な年だったんでね、義勇兵として当時の鄒校尉に従って朝廷の軍に参じた」
「ええ、亡き父もそうでした」
「孫破虜将軍だな。その武名は俺も聞き知っているよ。若くして亡くなられたのは実に残念だった」
 その言葉に、孫権は恐縮して緩く首を振る。その様を見つめ、目を細めて口の端を上げる劉備は、宴席で酒を飲んでいる彼の仲間たちを見遣った。
「憲和は幼馴染だが、雲長、益徳、それからもう一人、こいつもだいぶ小さかったんだが雍奴県の田国譲ってのがいてね、そいつらと兵を集めて戦った。国譲とは俺が徐州にいた頃に奴のおふくろさんが病にかかっちまって別れることになったんだが、それから二十年、あいつらとはずっと一緒にいる」
 遠い目をする劉備の横顔を、神妙な面持ちで孫権は見つめた。
「盃をね、交わしたんだよ。ずっと共に生きていこう、死ぬときは皆で共に死のうと。誰か一人を死なせやしない、誰か一人を遺しやしないってね」
「…………なんと」
「こんな嬉しいことはないよ。互いにどこにいたって、俺を認め、俺と共に生きてくれる奴がいるってのは……」
 手にしていた盃から酒をあおり、劉備は嘆息する。
 孫権の目には、彼の来し方、そして行く末がとても充実し、輝かしいもので溢れているように思えた。そしてそこに、悲傷や虚無を置き去りにしても進み続ける強さがあるようにも見えた。
「孫将軍、きっとね、こういうのは……」
「……なんです?」
「……酔っ払った年寄りの戯言と聞き流してくれ。こういうのはな、きっと、群臣と呼ぶようなものじゃないんだよ」
 そうして劉備と孫権とは、彼らの様子とは裏腹に賑々しく盛り上がる宴席を見た。
「孫将軍、お前さんの将たちは実に立派だ。だけど、将器に収まることを良しとしない者たちも、なかにはいるように見える」
 ――それは、より歩み来て、傍に、心に寄り添おうとしてくれるものか。
 ――あるいは遠く距離を置き、その手から解き放たれようと望むものか。
「人の言うことやすることに惑わされずに、己の成すべきことを成せたなら、本当はそれが一番いいんだろうな」
 深く、嘆息とともに吐かれた言葉だった。
 少し顔を俯けた孫権は、劉備の言うことを考える――思い当たる節がないではないのだ。
「……兄が、いたんです」
 ぽつり、孫権はこぼした。劉備はごく小さな彼の言葉に耳を傾けようと、居住まいを正し、彼に少しだけにじり寄る。
「ここに集まる皆の多くが、兄が父から受け継ぎ、あるいは手ずから招聘し、兄の志に感銘を受けてその麾下に加わった者たちです。私は、兄からこの江東の地を、彼らの身柄を預かっているに過ぎない」
「うん」
 劉備の相槌に、孫権は己がどこかほっと安心していることに気づいた。
「彼らが何を“決断”するのであれ、私はそれを咎めません」
「そうかい」
 そんならいいんだよ、と劉備は微笑んだ。
 それならいいのだ、孫権も己の心のなかで繰り返す。
 どうか、何ものに惑わされることもなく、己の成すべきことを成せたなら――孫権は、目頭が熱くなるのを感じた。


 ◇


 京城から去る劉備とその一行を見送った孫権は、後背に居並ぶ群臣と将たちのなかから一人が歩み出てくるのに気づいた。
「殿、言上をお許しいただけますか」
「……公瑾どの、ええ、どうぞ」
 振り返り、己の前に手を拱いて膝をつく周瑜を見下ろす孫権は、いつになく緊張した面持ちである。周瑜の――群臣の同意をほとんど得ずに開かれた送別の宴は、孫権にとっては何が起こるのかわからない戦々恐々としたものであったから、どことなく彼の肩身は狭かった。
「我々も疾く南郡へ戻ります。一刻も早く当地に車騎将軍のご威光を行き渡らせねばなりません」
「…………はい」
 顔を俯けていた周瑜はふり仰ぎ、孫権の顔をまっすぐに見た。その面の白さに孫権はどきりとする。
「殿、私と孫奮威様とに、巴蜀攻略をお命じください」
「――巴蜀、ですか」
「はい。今、曹孟徳はこたびの敗戦にその勢いを削がれております。曹軍の戦支度が整い、西涼の不服従民たちがすっかり併呑されてしまう前に当地の劉季玉、そして漢中に坐する張公祺の一団を降伏させるのです。その上で涼州の馬一族と手を結び、益州にはそのまま孫奮威様に留まっていただき、荊州、そして揚州の多面からそれぞれ北方の地を攻撃しましたらば、いかに曹孟徳と言えどひとたまりもありますまい」
 周瑜の表情はいかにも自信に満ちている。なるほど、と孫権は口許に手を当てて視線を逸らし、思案した。
 孫瑜の軍勢は、彼の博愛と精錬のたまもので実に頑健な軍になっていた。加えて彼の治める丹楊の地には現在、山越討伐の目的で蒋欽、賀斉が留まっており、さらにほど近い蕪湖県には徐盛の軍勢がいる。また、南の山間には協働関係にある阜屯の民がいた。
「そうですね……公瑾どの、益州攻略に関してはあなたと仲異どのに一存したいと思います。仲異どのにもすぐに連絡を入れましょう。ただ、攻め手は多いほうが楽になりましょうから、一度劉玄徳どのにも協力を打診してみます」
「劉玄徳……は、当てにならないと思いますよ」
 周瑜が、心のこもらない声で言った。不意を突かれて、孫権は息を呑んで彼を見つめる。
「これ以上はもう、彼に期待してはなりません。我々は我々の力で戦わねば」
 その言葉に、周瑜の後背で様子を見守っていた魯粛がもの言いたげに一歩前に出たが、それを遮るように前に歩み出てきたのは甘寧であった。
「我が君、俺も賛成です。巴蜀攻めは我々の力で成し遂げねばなりますまい。戦争はいよいよ我らのものとなるのです。巴蜀は俺の故郷ですから、少しは土地勘もあります。俺を周将軍に同行させてください」
 頼もしく胸を張る甘寧にこの場にそぐわぬ安堵を感じて、孫権は少しだけ微笑んだ。
「わかりました。ただ、一応念のため……我が軍が西へ向かう旨はお伝えしておかねば。では、一刻の猶予もありませんから、各自己の準備を整えたら西へと向かってください」
 ざ、と一斉に拱手する一同を見て、孫権は大きくひとつ頷き、それからふと周瑜の顔を見た。
「…………周将軍?」
「はい?」
 小首をかしげて返事をする周瑜を孫権はじいっと見つめる。
「いえ、その……」
「殿?」
「どうか、ご無理はなさらないでくださいね」
 不安げな面持ちの孫権に、周瑜は困ったように微笑んで頷く。
 さわ、とその前髪を風が揺らし、西の空へと向かって通り過ぎていった。


 ◇


 呉郡の邸宅に戻り手早く支度を整えていた周瑜に、家宰が客人の来訪を告げる。いつかも覚えのある光景だ、と口の中でもごもご言いながら周瑜が正庁に出れば、そこに坐していた小柄な男が振り返り、それまで茫洋としていた面に笑みを浮かべて会釈をした。
「ああ、ちょうどよかった、龐君。もう出立だったからね。事態は一刻を争う」
「そうでしたか。名残惜しいですが……とても有意義な時間を過ごさせていただきました」
 龐君――龐統、字を士元はもとは襄陽の出身で、南郡の功曹従事として江陵城に詰めていた青年である。江陵に入城し南郡太守代行となった周瑜の下で職務に当たることになり、江東の人材を検討する目的でこたびの帰還に随行していた。人物評が好きだという彼に江東の士大夫たちを紹介したかったという周瑜の思惑もある。
「誰と誰に会ったかい」
「はい、陸公紀どの、顧孝則どのに。それから全子璜君にも会いたかったのですが、こたびは不在でした」
「随分と優秀な面々と知り合いになれたものだね。次は全君に会いにもう一度江東へ来るといい」
 はい、と嬉しそうに龐統は頷く。そうして、周瑜を見返した。
「お体のほうは、大丈夫ですか」
 不意を打たれ、周瑜は覚えず表情を消してしまった。龐統は心底から心配しているふうで、居たたまれない周瑜の気持ちなど見て見ぬふりをしているのだろう。
 江陵で、一度周瑜は倒れた。その場には龐統しかいなかったため彼には口止めしたが、それから江東へ帰るまでの間はいつまた体調を崩してしまうかと気が気ではなかった。龐統には江東への帰還も咎められ城で養生するよう進言されたが、劉備を江東に向かわせることになった手前、彼から目を離さずにおきたい周瑜にはその選択肢は取り得ない。
 幸い、江東へ戻ってきてこれまでは体調もすこぶる良い。慣れ親しんだ第二の故郷は、周瑜の心身に少なからず安寧を齎したようだ。またふたたび争乱の地へと舞い戻ることになっても、次に江東へ帰る日のことを思えばどんな労苦も惜しまないような、そんな気持ちでいられた。
「大丈夫だよ、龐君。さあ、君も疾く荷物をまとめて来てくれ。江陵に戻ったら、益州の攻略だ」
「益州、ですか。……わかりました。すぐに戻ります」
「私が言い出したことだ、私が成し遂げねばならない」
 ――まるで自身に言い聞かせるような周瑜の言葉に、龐統は、そうでしょうとも、と相槌を打った。
 知り合って間もない間柄でも、周瑜という人物の聡明さ、積み重ねてきた武勲の数々は元より、責任感の強さ、その意思の強さは龐統にもひしひしと感じられる。己もまたどうか彼の力になりたい、と願うほど。
 周邸を辞去した龐統は、足早に旅館へと向かった。僅かの間でも、彼の傍から離れていてはいけないような、そんな気がしたから。

 孫権より、劉備が巴蜀攻略への協力を拒否した旨の書簡が届いたのは周瑜らの軍勢が鄂県を過ぎた辺りでのことであったが、そのときには周瑜は既に劉備の動向を捉えており、元より劉備の意図するところは彼の思い通りであった。
 江夏郡へ入る程普の軍勢と別れ、周瑜、孫瑜、そして甘寧の軍勢は、かつての大戦の地を横目に長江沿いに南下し、一路洞庭湖の東岸、巴丘の地を目指している。
 彼ら三名、そして周瑜の傍に付き従う龐統らは常に馬首を並べ、今後の動向について馬上でさえ幾たびも話し合った。彼らにとって特別の驚きは、甘寧が“土地勘”という言葉に収まらず、益州の主、劉璋、字を季玉について詳しかったことである。
「昔、仕えてたんだよ、劉季玉に」
 苦虫を噛み潰したような顔で甘寧は言った。
「劉季玉の親父の劉君郎が死んで間もなく、都から新しい益州刺史が送られてきたんだ。ただ、先に益州のお偉方が劉季玉に劉君郎の後を継がせて奴を刺史とするよう上表はしていたようなんだがね。――あいつらは劉季玉が優男なのをいいことに、益州を手玉に取ろうとしたのさ。んでまあ、俺と他の連中とは劉君郎が嫌いだったし、まあ……俺たちも若かったし、なよっちい息子の下になんかつきたくなかったからな、造反したんだが……負けた。頭は弱くても、手足が強かった。恥ずかしいことだ」
 それで、荊州の劉景升のところに逃げ込んだのだ、と口の端を上げて笑う甘寧に、周瑜が顔を顰める。その様子を見て取って、甘寧は思わず二の句を継いだ。
「我が君はそうじゃない。彼は強い。俺はもうどこにも行かないさ、彼の刃になって折れるまで戦う」
「いえ、それは……重々承知ですよ」
 周瑜が言うのに甘寧はほっとしたように肩を下ろしたが、すぐに何かを訝るような表情になった。
 だが、彼が口を開こうとする前に、周瑜が言葉を発する。
「優秀な者たちの名は、覚えていますか」
「え? あ、ああ……ええと、どうだろうな。何せもう二十年以上も前のことだからな。代替わりしてる奴もいるかもしれんし、親父が優秀でも息子が頼りにならないこともある。逆もまた然りだが」
「例えば、龐義、あるいは劉璝……張任、厳顔などは」
「ああ、覚えがある。まだ生きてるかい? 俺の時代でも、もうだいぶ年寄りだったと思うがね」
 喜色の混じる甘寧の声に、孫瑜は目をぱちくりとさせて周瑜を見た。
「ずいぶん詳しいな」
 その言葉に、周瑜はふと笑った。
「これから攻める敵だ。その生涯を愛おしむほどに、私は彼らのことを知りたいよ」
「なるほど……最も有名な言葉だ」
 孫瑜が得心したように言うのに、龐統も己のあごに拳を当て、何度も頷く。
「『彼れを知りて、己れを知れば、百戦して殆うからず』――」
「はは……耳が痛い」
 かつての己の度重なる“敗戦”に、甘寧は恥じ入ったように肩を竦める。周瑜は緩く首を振り、もう大丈夫ですよ、と小さな声で言う。
 そうして、ふと顔を上げまっすぐに前を見た彼の――

 頭が揺れ、体が前傾した。

「公瑾どの!!」
 孫瑜が慌てて彼に馬を寄せ、その体が落ちる前になんとか片手で支える。急いで甘寧が彼の反対隣りに回り込み、周瑜の馬の手綱を掴んだ。
 将たちの危急の様子に、軍勢の先頭を歩いていた騎兵たちが行軍を止めてざわめく。振り返り、医官を呼ぼうとした龐統の気配を察したのか、鋭い声で周瑜が彼の名を呼んだ。
「大丈夫だから、落ち着いてくれ」
「……何が大丈夫なのだ、公瑾どの」
 孫瑜の発する声は低く、どこか苛立たしげである。
「その物言い、龐士元の様子といい、これが初めてではないな?」
 怒気を湛えた彼の表情をちらりと見遣る周瑜の目つきは弱弱しく、はあ、と嘆息する息は熱い。
「あの、矢傷か」
 甘寧の言に首を振る周瑜。矢傷、と口内で繰り返し己を見た孫瑜に、甘寧は周瑜が先達ての戦役で負傷していたことを打ち明ける。目を剥いた孫瑜は、いよいよ声を荒げた。
「黙っていたな、皆にもその片棒を担がせて。益州攻めを成し遂げたい一心か、それとも仲謀を侮ったのか!」
「違う、違うんだ、仲異どの……」
 周瑜はようやく、己の体に添えられた孫瑜の手に触れ、心配させたくなかった、と必死に紡いだ。
「なんだそれは……あなたらしくない。こうして皆の目の前で――私の目の前で体調を崩しては、その努力も無下にされることくらい、わかったろうに」
 呆れたようにため息と共に言葉を吐いて、孫瑜は最前列を行く騎兵のうち二人の名を呼び、巴丘に先行して室の用意をさせるよう言付けた。焦ったように頷いて走り去っていく彼らの後姿を見つめ、周瑜は、ああ、と嘆息する。
 孫瑜は次いで事の成り行きを黙って見守っていた龐統に目を向けた。
「龐士元。いくら公瑾どのの頼みでも、これ以上はもう隠し立てしてはいけない」
「――大丈夫です、私が知っていることはもうありません」
 龐統がそう返すのに目を細めた孫瑜だったが、やがて、そんならいいんだ、と前を向いた。
「巴丘はもう程近い。着いたらしばらく安静にするんだ。それから、仲謀にはきちんと報告をさせてもらうよ」
「…………わかりました」
「……公瑾どの」
 がくりと項垂れる周瑜に、孫瑜はついに困ったように声をかける。
「……それは、安静にしていれば治るものなんだろうね?」
 その問いに、周瑜は答えることができなかった。


 ◇


 洞庭湖のほとりにある、巴丘の邑に用意された室で養生に努めることになった周瑜は、牀について間もなく高熱を発した。そればかりか連日のように吐き気や全身の痛みを訴え、あまりにもつらそうに身もだえしている。
 荊州攻略時にも彼の治療に当たった医官の徐雍に入室を拒否されたにも関わらず、無理やり周瑜の傍に坐して離れないことを決めた龐統は、苦しそうに息を吐きながら唸り声を上げる彼をただ見ていることしかできない。
 日ごと、周瑜の身体は衰えていった。六日もすればいよいよ自力で起き上がることもままならなくなり、医官たちや龐統の力でも当てにならず、そのたびに孫瑜や甘寧が彼を支えて世話を手伝った。
 息も絶え絶えに、うつるやもしれぬから己に構うなと言う周瑜の言を、将たちはこの際一切聞かぬことにした。
「もう、長くないと思われます」
 周瑜の室から少し離れた回廊の隅で、徐雍以下、医官たちは口を揃えてそう言った。孫権に出した書簡がまだ江東には届かぬ頃のことである。
 口許を手で抑えた孫瑜は堪えるような表情をして、どうにもならぬか、と重ねて問う。徐雍は、申し訳なさそうに首を振った。
 龐統が眉根を寄せて吐き出した。
「私が、彼の言うことを聞かないで、すぐにお伝えしていれば……」
「……いえ、それもどうだったか」
 徐雍によれば、恐らくこれまでに長い間、全身の痛みはあったのではないか、というのが医官たちの総意である。周瑜がそれを巧妙に隠し、悟らせないようにしたのだと。
「なんだそれは……いつからだ。荊州戦役の後、いや、前からか。それとも陸口の水戦より前か。まさかもっと――」
 徐雍に詰め寄る甘寧を制したのは孫瑜である。
「それも、今となっては定かではない……だろう?」
「はい……」
 沈痛な面持ちで俯く医官に甘寧は大きく舌打ちをして、荒々しく足音を立ててその場を去っていった。
 その後姿から目線を戻した孫瑜が、嘆息する。
「……呉に帰還させることも、ままならぬようだ。少し動かしただけでもひどく痛む様子を見せる。とりあえず先に南郡の差配については仲謀に打診してもらって、容態が小康状態に入るのを待つしかない」
 はい、と頷いて医官たちは彼らの詰め所に戻って行く。ただ徐雍だけはその場に残り、孫瑜と龐統の後ろについて、彼らと共に周瑜の眠る室へと向かった。

 窓を開け放し、風の通り抜けるままにさせている彼の寝所はしかし、ひどく静かで、重苦しい空気を湛えている。
 牀の傍に設えたままの床几に龐統が腰かけ、孫瑜が彼の斜め後ろに立つと、程なく周瑜はゆっくりと伏せていた瞼を開けて、二人を視界に入れた。
「申し訳ない……仲異どの、龐君……」
「気にするな。あなたが悪いんじゃない」
 馬上で彼を咎めたのとはまったく違う、優しげな声で孫瑜は宥めるように言う。うっすらと微笑んだ周瑜は、夢を、とささやくように言った。
「……ずっと昔……私たちがまだ舒にいた頃……伯符が、故郷の話をしてくれたことが、あった……」
 丸い稜線の美しい山々。
 雄大な川の流れとその終着地に広がる、
 日の光を浴びてきらきらと輝く海。
 人の空気が生きる邑。
 雨にけぶる街並み。
「……富春の邑か」
 孫瑜が呟き、周瑜は彼の方へと眼を向ける。
「この通りで、合っているかな」
「……ああ。とても良い邑だ。私も誇りに思っている」
 その答えに周瑜は満足そうに微笑むと、彼の上の天井へと目線を向けた。
「そこへ共に行こうと、約束したのだ。……結局、今となっても、行けずじまいだったが……」

 大げさな身振り手振りで孫策が己に教えてくれた彼の故郷の景色は、実に壮大で素晴らしいものだった。以来、心の中に浮かんで消えないその風景の中を、どうか彼と共に歩けたら、と思った。例えば、彼の好きな雨の日に。

 周瑜はどうにか彼の左手を動かし、目元を覆い隠すようにした。その体が震えているのに、その場にいる皆が気づいた。
「龐君……」
「……はい」
 呼び掛けられ返事をした龐統に、周瑜は尋ねる。
「十年前……あなたは、どこで何をしていたかな」
「……十年前、私は人生の師に出会いました」
 おや、と周瑜が感心したような――まるでこの場にそぐわぬような――声を上げた。手の隙間から覗く彼の視線が話の先を促し、龐統はそれに応えて語る。

 襄陽の遥か北、潁川の地で隠遁していたその師を訪ねた彼と、始めの頃は木に登って桑の実を取りながら片手間に対話していた師も、いつしか木から降りてきて共に木の根に坐り込んで世の中のことについて語り合った。
 若い頃の龐統は時代にそぐわぬ見た目をしていて、そのせいで周囲から冷めた目で見られているような節があった。だがその師は、唐突に尋ねた龐統を邪険にせず、仕舞いにはすべてまるっと認めてくれて、君はきっと立派な人物になる、とまで称してくれたと言う。

「……とても嬉しかった。人生でこれ以上なく、幸福でした」
「そうか……それは、本当によかった……」
 周瑜の言葉に、龐統は大きくひとつ頷く。
 そうして、首をかしげて彼をまた見た。なぜ、そのようなことを己に尋ねたのか?
 不思議そうな龐統の表情に、周瑜は小さく微笑んで、言いにくいな、とこぼす。
「教えてください、周将軍」
「…………、……私はね、その逆だ」

 人生で無二の、友を亡くした。

 龐統が目を見開き、ヒュウと息を飲む。孫瑜もまた、はっとなって唇を噛んだ。
「突然の、ことだった……死に目にも会えずに……彼の下に着いたのは、それから一月も、後のことだった」
 だが、辿り着いた先に己よりももっと悲愴な表情をしている彼がいたから――周瑜は、己を奮起させた。
 それから十年、仲間たちと共に死に物狂いで生きてきた。その過程で失われてしまったものもあまりに多い。とても愛おしく、美しい、孫策の愛した、周瑜の心の中に映るあの風景ととても似ている生命。
「だけどね、だけど……どうなってもいいと、本当は思っていたよ。光が見えない、こんな暗闇を、手探りで歩いて行こうなんて……どうかしている……」
 自嘲気味に笑う周瑜の様子も、今となっては切なく、物悲しい。
「……だが……それでも……」
 周瑜のまなじりから、涙の筋が流れていく。
 はあ、と深く、長く、熱い息を吐いて、周瑜はいよいよ彼の目元を強く押さえた。

「十年……長かった……」
 彼の震える声を、次々にあふれ、流れていく涙を、龐統は、孫瑜は歯を食いしばって見つめる。
「いつ死んでも構わないと思っていた……だけど……」

 ――ようやく見えてきた、光があった。

「今じゃない」
 周瑜は、絞り出すような声で、そう言った。

「今じゃないんだ…………」

 彼の右手を咄嗟に握り締め、龐統はそこに額をこすりつける。
 誰も彼も、他者の心など真に理解し得るはずなどないのに、
 龐統の目からも、涙があふれて止まらなかった。