――建安十五年、周瑜、字を公瑾、巴丘にて没す。

 周瑜の訃報が孫権の滞在する京城に届いたのは、先に彼の危篤の報がもたらされ、それを受けて孫権が彼を京城に召還する旨の伝令を出し、同時に南郡の差配について張昭らと共に検討を始めたときのことであった。
「…………、……それは、間違いないことか」
 孫権の震える声音に、拱手したまま深く俯く伝令の兵は、はい、とくぐもった声で返事をする。
 そうか、と答えた孫権は彼を下がらせると、しばらく言葉を発せず、呆然として床を見つめていた。張昭が彼の名を呼ぶとようやくぱっと顔を上げた彼は、己の名を呼んだ文臣をぽかんとした表情で見遣る。
「殿、南郡をいかがされます」
「…………ああ、南郡、南郡は……」
 孫権の返答は覚束ない。
 そこへ、我が君、と高らかに孫権を呼ぶ者があった。皆がそちらへ顔を向ける。常と変わらず平然としているのは魯粛である。
「愚考しますに、江夏の程徳謀公が最も適切ではないかと。程公は公瑾どのと共に左右の督を務められました。公瑾どのの不在に替えられるのは彼しかありません。何より彼の武功、経歴も申し分ありませんが、一番はその任地です。今、最も早く南郡へ向かうことができるのは程公だけです」
 江陵城を空にしてはおけないのは誰の内心でもその通りであったが、そのことを一番に発したのが魯粛だったから、群臣の多くは忌々しそうに彼を睨んだ。これまでは人より勲功が少なく“孫権の賓客”として府に“招かれている”に過ぎなかった立場の魯粛が、先の荊州戦役の勝利を受けて将軍府内でも堂々と振る舞い始めているのが彼らの癪に障る。
「ええ、その通りです……では、南郡太守の任を程公に移し、江夏は……」
「殿、よろしいですか」
 視線を巡らせた孫権の気を引くように、凛と張りのある声を上げるのは張昭だ。
「確かに程公ほどの人物でありましたら、南郡、江夏太守を兼ねましても必ずや任を全うされましょう。その代わり、彼を補弼する立場の人物を多く両郡に送り込むべきかと思われます。幸い、先の征西の軍に連なり、黄武鋒どのも南郡へ向かわれました。彼の麾下にも程公同様、文武両面に於いて優秀な者たちが多くおりますから、南郡の差配は彼らに共同して当たっていただくべきかと思われます、が……」
 そこで張昭はようやく言葉を区切り、魯粛を横目で睨んだ。え、と魯粛は声を上げる。
「魯子敬も江陵へ向かわせるべきです」
「子敬どのを? ……それは、なにゆえ」
 孫権が尋ねると、ふう、と張昭はひとつ嘆息し、背筋を伸ばして胸を張った。
「先頃の劉荊州との共同戦線は、この者によって主導されたからです。周公瑾どのの率いる我々孫軍に無理やりかの軍勢を組み込み、そして結果的に劉軍に荊州の南部四郡を“与えた”。ところが劉荊州はこたびの巴蜀攻略への協力には難色を示しました。なぜか? それはまだ彼の準備が整っておらぬからです。では何の準備か?」
 劉玄徳自身が彼の独力でもって征西を成すための準備です――張昭ははっきりとそう言った。
「こたびの荊州戦役は、結果として長江流域東部戦線の膠着状態を招きました。我々江東の軍勢は北伐すること能わず、しかし同じように中原の軍勢が南を攻略することも難しい。であれば、周公瑾もそうしたように、そして曹孟徳もこれからそうするであろうように、崩すのであれば西の劉季玉、あるいは馬寿成、韓文約とその一派です。劉荊州は我が軍が西へ向かい、巴蜀を併呑することを嫌った。ゆえにさらなる軍備の増強を避けるために協力を拒否したのです。かの者は己の強力がなければ我々が西を取れぬと思っていたものでしょうが……」
 張昭はふと、口を閉ざした。突然政堂に落ちた沈黙に皆が押し黙るなか、それを静かに破ったのは、先達ての合肥攻囲から孫権の長史として将軍府に復職している張紘であった。
「周公瑾どのがいればそれもできたでしょう。ですが、我々はこうして彼の訃に接しました」
 張紘はそうして体ごと孫権に向き直り、床に拳をついて深く頭を下げた。
「殿、こたびの征西、これ以上は果たせぬものかと愚考いたします。劉玄徳との協働関係は彼自身の拒絶を受け、ここに至って無意味なものとなりました。先頃捕らえました北方の間者が口を割りましたところでは、何やら曹孟徳の麾下で呉会の山越に働きかけを行っている者もあるということです。大規模な叛乱が画策されておるものかと」
「……それは、ならぬ」
 孫権が答えるのに、張紘、そして張昭もまた大いに頷く。
「……すぐに巴丘に伝令を出し、仲異どのと興覇どのの軍勢を丹楊まで戻らせてくれ。それから、叔朗には二千の兵を率いてそのまま沙羡に入り江夏の丞に就いてもらうよう伝えよ。程公にはまっすぐに南郡に向かってもらってくれ」
 叔朗――孫皎もまた彼の兄と共に征西の軍に連なっていた。谷利の脳裏に、眉をきりりと吊り上げた若武者の姿が思い出される。
 孫権は魯粛に向き直り、彼の名を呼んだ。
「子敬どの、あなたにも江陵へ向かっていただきたい。程公の補佐をお願いいたします。渉外役として、劉荊州どのとの折衝を図ってください」
「……はい、わかりました」
 固く拱手する魯粛にひとつ頷いた孫権は、ですが、と続けた。
「…………、……公瑾どのの葬儀を終えてから発ってください。では、皆様方はしばしお待ちを」
 言い置いて立ち上がる孫権に谷利と左異も続く。
 政堂から辞去しようとする主に、張昭の鋭い声が飛んだ。
「どちらへ」
 孫権は背を向けたまま、答えた。
「公瑾どのを、迎えに行ってまいります」


 ◇


 孫権が京城を発ったときには既に、周瑜の遺骸の乗った柩車とその葬列は丹楊郡を過ぎていた。彼らが蕪湖に於いて最後の休息を取る旨の報告を受けると、孫権たちの一行はまっすぐにそちらへと向かった。
 蕪湖の県城に入った一行を迎えたのは徐盛、字を文嚮である。徐盛は、孫権が討虜将軍に任ぜられた際に別部司馬として軍に招かれた若い将で、かつて柴桑に於ける黄祖の息子・黄射との戦闘で武功を立て、数年前から北方の要地であるこの蕪湖県の県令として勤めていた。
「周将軍の葬列の一行は旅館で休んでおります。孫奮威様と甘将軍、それから周将軍の柩車は政庁の方に。どうぞこちらへ」
 徐盛の先導に孫権たちも続く。
「――我が君、俺は以前、柴桑で周将軍に助けられました。付き合いは長くはないですが……残念でなりません。お悔やみを申し上げます」
「…………、……ええ」
 首肯したきり答えない孫権に、徐盛も唇を噛む。さほど付き合いのなかった己にすら、周瑜の死がどれほど重大で、孫軍全体に恐慌を与え得るかわからないはずがない。
 彼はあるいはもしかしたら、決して死んではならない人だった。
「…………、……あのっ」
 思わず声を張り上げて後背を振り返った徐盛だったが、孫権の、着きましたね、という言に続く言葉は遮られる。
 己の前方を改めて見遣れば、政堂へ続く小門はすぐそこにあった。
「あ、は、はい。そうですね……」
「わ、我が君っ!?」
 小門の両脇に立っていた衛士が孫権たちを見て瞠目する。彼らに対して会釈をすると、孫権は足早に門をくぐった。
 周瑜の柩車は政堂の玄関前に停められており、周囲には葬列の護衛をしていた官吏や兵士たちの姿がある。そのなかに孫瑜、甘寧の姿もあった。
「仲謀……」
 孫権に気づいた孫瑜が驚いたように目を見開いたが、すぐに申し訳なさそうな表情になる。甘寧は眉根を寄せてまるで睨みつけているかのような顔をしていたが、そうではないことは孫権には正しく察せられた。
 そしてもう一人、孫瑜と甘寧と共に周瑜の車の隣にいた小柄な男が、彼らに歩み寄る孫権の前に出た。
「あなたは?」
「お初にお目にかかります、孫会稽様。私は周南郡様の下で功曹従事の任に当たっておりました、龐統、字を士元と申します。先達てのご帰還の折も随伴させていただいておったのです。ご挨拶が遅くなり、大変申し訳ありません」
 拱手して礼をする龐統に、孫権も丁寧に礼を返す。
「こたび、周南郡様の訃報に接し、生前のご恩もありまして、まことに勝手ながらご遺体の送還の任を勤めさせていただいております」
「そうでしたか。江陵、巴丘から遥々、本当にご苦労様でした」
 労いの言葉に首を緩く振って応えた龐統は、小さく自嘲気味に笑う。
「周南郡様には本当に良くしていただきました。こたびのことは……なんと申してよいか」
「あなたの仰りようでは、短い間ながら公瑾どのの南郡での治績は素晴らしかったと、その証左ですね」
 そうして孫権は痛ましく眉をひそめ、顔をわずかに俯けた。
「……申し訳ありません、まださほどお休みになられてもないでしょうに、私がさっさと来てしまって」
「いいえ! 周南郡様も早く故郷へお帰りになられたいその一心だと思います」
 龐統はさっと孫権の前から横に退くと、お顔をご覧になられますか、と問うた。孫権はしばしの間の後、ふるりと首を横に振る。
 では、と龐統はぱっと孫瑜と甘寧とを振り返り、すぐに発ちましょう、と大きな声で言った。
「早く周南郡様を呉へ――あの湖沼に包まれた美しい地へお返ししなければ」
 面喰らう孫権を龐統は改めて顧みる。
「周南郡様は、呉会の地をとても愛してらっしゃいましたから」
「ええ、そうですね……」
 弱く微笑んだ孫権に笑みを返して、龐統はひとつ頷いた。

 呉郡の青い空に、長い葬列に連なる指物の旗がひらめく。既に呉郡太守である朱治の出した通達により、周瑜の死は呉の民に広く知られるところとなっていた。かつて孫策が健在だった頃から、孫郎、周郎と呼び表され皆に愛された秀麗な将は、その死もまた亡き孫策同様に呉の民たちに悲傷を与えることとなった。
 周邸に運び込まれた周瑜の遺骸は、通達を受けてから素早く整えられた葬儀を行う室に棺と共に置かれた。葬儀の費用はすべて孫権の財から出されたが、その礼を伝えに来た彼の夫人があまりにも悲痛な面持ちを浮かべていて、孫権はどうしてか己が申し訳なく、居た堪れない心地になってしまう。
「夫人、しばし公瑾どのと話をさせていただいても構いませぬか」
「もちろんです。旦那様も、きっと我が君に話したいことがたくさんございますわ」
 そうして夫人は室外へ出て奥へと退く。孫権は次いで、彼の衛士たち、そして付き添いの龐統を見た。
「少しの間、二人きりにしてくれないか」
「…………」
 左異が己に視線をくれていることに谷利は気づいたが、彼自身に孫権の意向に逆らうつもりはない。小さく頷くと、二人の衛士は連れ立って室の外に出た。
「孫会稽様。こちらをお納めください」
 残った龐統が、うやうやしい所作でもって懐からひとつの書簡を差し出す。首をかしげてそれを受け取る孫権は、添えられた宛名書きの字が周瑜のものであることにはっとなって龐統を見た。
「亡くなられる以前に周南郡様がしたためられていたものです。どうぞ、よろしくお取り計らいくださいますよう」
「…………、……ありがとう、ございます」
 そうして、龐統もまた室を出て、その場に残されたのは孫権と周瑜のみとなった。
 かろん、と軽やかな音がほの明るい室内に響く。周瑜の残した上奏文に具に目を通していくうちに、孫権は頬が熱くなり、じんわりと鼻が沁みてきた。目の前がぼやけ、周瑜の遺した字が読みづらくなる。
「こ…………」
 振り返り、周瑜の横たわる棺のそばに膝をついた孫権は、彼の穏やかな死に顔を見ながら、ぽつりと彼の名を呼んだ。
「私が、あのとき、きっちり引き止めておれば……」
 思い出すのは、己を振り仰いだ周瑜の白い面である。違和感は、確かにあったのだ。
「あなたに、ひどい気持ちを抱いてしまって……!」
 ついに、孫権の両目から大粒の涙がこぼれた。次から次へとあふれたそれは、頬にいく筋も川を作り、止めどなく流れ出ていく。
 計り知れない周瑜の深層が恐ろしかった。共に江東を――亡兄の遺産を守り継いでいけるはずだと思っていたのに、不意に彼の考えが孫権にはまるで見えなくなった。
 たった一言――たった一人の“皇帝”の存在のために。
「すみません、すみません、公瑾どの。あなたがいなければ、私は……」
 私さえいなければ、あなたは――棺に縋りついて、孫権はただただ、泣いた。


 ◇


 室外で待機する谷利と左異の耳に、忙しない足音が聞こえてきた。廊下の向こうを見遣れば、現れたのは喪服をまとった魯粛である。
「魯子敬様?」
「我が君は、中かい」
 問われ、谷利は頷き返す。
「今はご入室を許可できません。ご理解ください」
「ああ、いや、それはいいんだ……」
 魯粛はどこか居心地の悪そうな表情で、谷利たちを見遣る。
 首をかしげる二人に、魯粛は口を開いた。
「本当は俺だって我が君のお傍にいたいんだが、そうもいかない。他ならぬ我が君ご自身に頼まれてしまったからね。お前たちには、我が君のことをどうかよろしく頼む」
 谷利は彼の心配を察して、大きく頷く。
「魯子敬様、私は四年前の麻保屯攻略の際、周公瑾様からお言葉を賜りました。我が君の傍におらずとも、遠く離れていても主を思って働くのも臣の務めであると。我が君はあなた様にも、そのような奮励を望んでおるものと思います」
「……公瑾どのが……」
 魯粛は口許を手で覆い隠すようにすると、そうか、とぽつりと言った。
 そうして魯粛は、彼らの向かいの壁際に背をもたれるようにして立ち、軽く腕を組んだ。おもむろに口を開いて、彼は谷利たちに語り始める。
「公瑾どのとは、彼が若くして居巣県の長をしていた頃に出会ったんだ。昔は今ほど豪族たちの領地の境目もはっきりしていなかったし、居巣は要地といえばそうだったが、袁術の支配下にあって領民は皆困窮していた。そう、当時の淮南は不作でどこも食糧難に喘いでいてね。それで、東城の俺の家のことを聞きつけてきたのだろう。わざわざ自分から訪ねてきて、食糧の援助を頼むと言われた」
 一目見て、魯粛は彼に感心した。まず見た目がいい、魯粛はおかしそうにそう言う。
「あんな美丈夫は生まれてこの方初めて見た。今でこそ精悍な面立ちでいくらか落ち着いたが、二十歳を少し過ぎたばかりの青年の美しさ、素晴らしさがすべて彼の下に結集したかのようだったよ。俺の家族も、取り巻きたちも、東城の民たちも皆すぐに彼を気に入った。女たちもきゃあきゃあ騒いでね……また声もいいんだよ。彼に言われるとどんな無茶も通したくなる。まあ、こんなのは亡き討逆様にも言えたことだがね……彼らはどこでああいうのを覚えたんだろうね。天稟なのかな」
「それで、蔵の片方をまるまる公瑾どのにあげたのですか」
 以前に聞き知っていた話から谷利がそう問えば、魯粛は、それもあるが、と返す。
「結局は時代の流れがあった。天壌を遍く覆う困難の最中には、得てしてああいう男が生まれるのだ。討逆様や公瑾どののように、人を惹きつけてやまない男がね。だから彼に恩を売っておけば、それが後々役に立つだろうとそう思った。決して公瑾どののためでも、俺に徳があるわけでもない」
 そうしてそれが今俺がここにいられる所以だ、と魯粛は微笑む。谷利は首肯した。出会うべくして出会うことは、往々にしてあることなのだ。
「……お前は間違ってない、って」
 魯粛は、囁くように続ける。
「本当は誰だってそう、言われたいだろう。だけどもうこのままじゃ立ち行かないんだよ」
 ちらりと魯粛の目線が、閉ざされた周瑜の室の扉に向けられる。
「もはや見て見ぬふりをしている方が悪だ。崩れかけた家は捨てて、新しく建て直さなきゃいかん」
 じっとして話に耳を傾ける二人の衛士に視線を戻した彼は、にこりと歯を見せて笑った。
「お前たちの存在が俺に希望をくれるんだよ。不服従民の出である所以を持ちながら、我が君の最も傍近くに控えるお前たちがな」
 人は、生まれでその者の生涯を決められるようなものではないのだ――魯粛は、万感の思いを込めてそう言う。
 谷利はその言葉に、覚えず目頭が熱くなるのを感じた。心を揺らす彼のことは気にも留めずに、魯粛は続ける。
「今、曹孟徳もその事業に向き合っている。劉玄徳は……違うとは言い切れんだろうな。北や西の騎馬民族たちは、そもそも中央におもねるような者たちではない。本当に西を我が君の麾下に組み込めたならそれでもよかったが、そうも言ってられん。西なんてのは他所にやってしまえばいい。曹孟徳は困るが、劉玄徳みたいな――そう、天下に並び立つなら、ああいう男たちがいい」
 魯粛はいよいよ、誰に言うでもなくただ一人の思考を口から漏らすようにぶつぶつ呟き出した。左異が片眉を上げて訝るような表情をしている。
「江陵ですらやってしまって構わんかもしれん。劉氏の“徳”なら使わん手はないからな。好きなだけ恩を売って――あの男が、それに甘んじるはずがない」
「魯子敬様」
 口を割って入った谷利を、魯粛は弾かれたように顔を上げて見た。眉を寄せてどこか不愉快そうにも見えるその衛士の表情に、魯粛は首をかしげる。
「あなた様の仰ることは我々にはその意図の少しも計り兼ねますが、どうか、我が君のご心配になるようなことだけはなさらないでください」
 谷利の言葉に魯粛はしばし面食らい、それから目を細めて笑った。もちろんだとも、とその表情は雄弁に答えているように見える。
「彼の素晴らしいところは、新しい考えを拒絶しないところだ。難しそうな顔をしてみても、一度は必ず引き受けてくれる」
 さすがに一番初めはそうではなかったが、とおかしそうに笑う魯粛は、彼と孫権が初めて語り合った夜のことを思い出しているのだろう。谷利と、今はここにいない朱桓もその場にいた。そうして、あの日彼らのなかに生まれたひとつの願望のために、胸を焦がしている。
 ほう、と魯粛は深く嘆息した。
「その寛大さのために、たとえ事業が改まるときでも我々は何のしがらみもなく歩き出せるのだ。あんな懐の広い男はそうそうないよ」
 まるで――そう魯粛が言いかけたとき、静まり返っていた扉の向こうからガタリと音が鳴った。
 三様に振り返った皆に、室から歩み出てきた孫権が目を丸くする。すぐに彼は魯粛の姿に気づいた。
「子敬どの! いらしていたのですね」
「はい。我が君、このたびはお悔やみを申し上げます」
 魯粛が左手の拳に右手のひらを重ねて礼をする。孫権は首を振り、そのように気丈になさらないでください、と言った。
「あなたを亡兄に、そして私に推挙なさったのが他ならぬ公瑾どのです。私以上に思うところがおありでしょう」
 そうして微笑む孫権の目許は赤く、そのことに谷利は胸を痛める。周瑜の死による悲傷は、誰の体にも刻まれているのだ。
 孫権はその手に持っていた書簡を魯粛へ差し向けた。首をかしげる彼に、公瑾どのの遺書です、と孫権は言う。
「私たちと彼の心は同じです。子敬どの、あなたに江陵の差配を任せます。どうか思う様、その才智を振るわれてください」
 書簡を受け取った魯粛は軽やかな音を立ててそれを開くと、じっくりと目を通した。静寂が落ちる廊下で、彼の持つ書簡が鳴る音だけがかすかに響く。
「…………、……これ、は……」
 ちょっとすみません、と魯粛は自身の口許を抑え、孫権たちから顔を背けるようにして一歩後ずさる。
 その目から、涙が零れ落ちるのを谷利は見た。
「なんだって、彼は……お、俺のことを、そんなふうに」
「…………」
 声を震わせる魯粛を孫権はじいっと見つめている――まるで、悲しみなど知らぬかのような、慈しみに満ちた表情で。

 かつて、一度は江東を離れ、そして永劫距離を置くつもりでいた己を、まさにその剛力でもって引き戻したのが周瑜であった。上古の時代の議論を引き合いに出してまで、決して自身の思い通りには動かぬであろう己を、彼はそれでも信じ、好いていてくれた。
 いつかこの地に立ちのぼった王の気が、数百年の時を経て己らの目にも映るなら――
 本当は、そこに共にいるのは、周瑜でなければならなかった。

「子敬どの。どうぞ公瑾どのとお話をされてはいかがですか。その後、私はあなたを奮武校尉に任じ、あなたに西のことを一切お任せしたく思います」
「奮武……ですか。それは……俺には少し、不釣り合いです」
「文も武も私には等しく大切です」
 はっきりと孫権は言い切った。
「あなたにも軍勢を率いていただきます。公瑾どののご子息たちは未だ幼く、兵の命を任せるに適切ではありません。彼らの身柄は私が預かります。あなたには、公瑾どのの軍勢を預かっていただきます」
 魯粛は口を引き結び、目を見開いて孫権を見た。孫権はゆっくりと、うやうやしく両の手を重ね合わせその甲を魯粛へ向け、礼をする。
「不肖の行車騎将軍、孫仲謀を、どうぞお導きくださいますよう」
「わ、我が君――」
 おやめください、とその肩に触れた魯粛の手にそっと己のそれを重ね、孫権は魯粛の目を見つめた。
「私の手で、天下を支えられますか」
 魯粛は息を呑み、そうして、大きくひとつ頷いた。
「もちろんですとも、我が君」


 ◇


 ――何から書けばよろしいのでしょうか。

 伯符と、あなた様と出会ったのが、私が十の頃のことです。
 共に舒の街を駆け巡り――時には街の外にも出ましたね――笑い合った日々を今でも懐かしく、愛おしく思い起こします。お父君の死に際し皆様方と別れてからは、また再び出会うときに笑われないようにと必死に武芸学問に励んでまいりました。
 そうして幸いにも縁があり、長じてその麾下に入り共に戦を重ね、伯符亡きあとは、あなた様の事業を助ける役目をお任せいただき、遂にここに至りました。

 先に友の訃に接し、人の生涯には最後に必ず死があり、その長短はすべて命数によるものであるとはわかってはいるものの、志半ばで斃れ、あなた様を遺して往かねばならぬことが心残りでなりません。
 北方の曹孟徳のために江の彼此は多事多難であり、劉玄徳は南郡に間借りしてさながらその懐に虎を養うがごとく、天下の事象はいまだ終始も見えず、世は混沌としております。
 私から申し上げさせていただきますのは、あなた様にはこの苦難のときにあって事業に精励し、世の物事を深く慮り、よく群臣の皆様とそのお考えを分かち合われ心をひとつにされますようにということです。このことは、あなた様の下に広く集った良将賢臣がおりますれば必ず能うものと愚見を申し述べさせていただきます。

 どうぞ決して、お一人で悩み、苦しむことのありませんように。

 かつてもそうでありましたように、魯子敬は必ずあなた様のお力になります。彼はあなた様を心底愛し、衷心よりあなた様にお仕えする者です。その才智と類い稀なる発想はあなた様の道を切り開き、力強くその先へと導き得るものとなりましょう。必ずや私の任を引き継いでくれるはずです。

 論語に曰く、人はその死に際し、どのような者であれ多くは善言を遺すもの。
 もし私の言を懐に容れていただけますならば、この肉体が死してまったく動かぬものになったとしても、私の魂は朽ちることなく生き続けることができるのでございます。

 あなた様の碧く丸い瞳が、幼い私を初めて見つけたときのことを思い出します。
 あの日のように、これから私もあなた様の御兄君と共に寄り添い、あなた様の事業を打ち守る役目に就きたいと思います。
 あなた様の目の前に広がる景色はもはや、先の見えぬ闇などでは決してありません。それは、いつか共に暮らした街にある、あなた様がお心のままに駆け回ることのできるあたたかな庭です。
 私と伯符とは、思う様あの庭を駆けてゆくあなた様の姿を見ながら、その笑顔にずっと、やわらかな光を見ていたのです。


 ◇


 南郡太守であった周瑜の後任の一人として江陵に向かった魯粛の傍らには龐統の姿がある。南郡功曹従事の任をそのままに、魯粛の補佐に就くよう孫権より要請されたものを受けたためである。
「へえ、名士の皆さんと交流を」
「はい。こたびは以前参りました際には会えなかった全子璜君とも会えました」
「全子璜……全長史のご子息か。あれ? 彼は幾つだったかな」
 十三でしょうか、と龐統が事もなげに言うのに魯粛は肩を竦めた。
「若いのに素晴らしいことだ。見習いたいものだね」
 首肯した龐統は僅かに彼の後背を振り返る素振りを見せたが、すぐに前へ向き直る。
 そうしてチラリと魯粛を横目で見た。
「周南郡様、それより前には呂彭沢様が劉玄徳どのを呉に引き留めるよう献策なされたと伺いました。そしてその際、あなた様が異論を唱えられたということも」
 そうだね、と魯粛は頷く。龐統は首をかしげて尋ねた――なぜ、彼らの話に同意しなかったのか、と。
 魯粛は哄笑した。
「公瑾どのたちは関張の両将軍と共に戦ったことで彼らの秀でた武勇を、また劉玄徳の名の持つ威光の恐ろしさをよく知っていた。それはそうだろうさ、現に劉表の遺した兵や民たちは皆劉玄徳の下に集い始めている。彼を傀儡にし、関張の力を公瑾どのが使役することが我が君の事業を強力に推し進める手段となり得るものだと考えたのだ。だけど、俺はそうは思わなかった、それだけのことだよ」
「では、どのようにお考えだったので?」
 訝る龐統に、魯粛はささやくように答える。

「倒壊寸前の劉さん家を捨てて、俺たちの住む新しい家を建てるんだよ。俺が天に押し上げたいのは劉玄徳じゃない」
 ――誰だと思う?

 やんちゃな子供のようにあくどい表情で笑う魯粛に龐統はぽかんと口を開けた。それを見た魯粛はまた声を上げて笑い、おかしそうに肩を震わせた。
「“南郡功曹従事”龐士元どの。俺と公瑾どのとは、かつて共に歴史を変えようと語り合った仲なのさ。ここまでは、公瑾どのががんばってきてくれた。今度は、俺の番だ」
 目を上げた魯粛の視界、西の空には曇天の隙間から薄い青色が覗いている。
 馬の手綱を取る彼の手が、一層強く拳を作った。