さかのぼること建安十六年の春半ば、孫権より秣陵の邑に拠点を移し当地の支配を固めていくとの報告を受けた魯粛は、軽やかな音を立てて書簡を巻き戻すとどこか嬉しげに言った。
「よっし、潮時だな」
「え?」
 ちょうど魯粛の下で人事についての書簡をまとめていた龐統はその一言を聞いて顔を上げ、首を傾げた。
「何が……ですか?」
 嫌な予感がして恐る恐る尋ねれば、魯粛はそんな龐統の心情など知る由もなく事もなげに、江陵から退く、とやはり笑ってのたまう。龐統は仰天した。
「な、なぜでございます!」
「我が君が秣陵に拠点を移すそうだからね。いよいよ我ら江東の将士たちは揚州に於いて曹孟徳と対峙することになるのさ。そんなときに遥々荊州まで戦線を伸ばしておくわけにもいくまい。精々……そうだな、赤壁、陸口、うーん、せめて江夏南部か。南郡にまで軍は割いていられない」
「それは……」
 そうなのでしょうが、と口ごもる龐統の脳裡には周瑜の顔が浮かぶ。かつての荊州戦役の際には江陵城で明日をも知れぬ身の上で戦々恐々としていたものが、かの将軍と出会ってからは、彼がなんとしても欲していた地に生きる者として思いを新たにしたものだ。
 それを、魯粛は簡単に打ち捨ててしまうと言う。
「で、ですが程南郡様がなんと仰るか」
 龐統が現在南郡太守として詰めている程普の名を出すと、魯粛は肩を竦めて笑った。
「程公と俺の気持ちは一緒だよ。彼も南郡の差配に難儀しているし、先達てもそのことで話し合ったんだ」
「……では、周様のご遺志は……」
 彼の呟きに、魯粛はふっと嘆息する。
「公瑾どのは、南郡を死守せよなどとは一言も仰っておられないよ。何より、この地に必要だったのは他でもない彼の才覚で、後を継ぐ我々はその器じゃない。残念だけど、この地は我々の手に余る……今はまだ」
 おもむろに顔を上げ己をねめつけるような、恨めしげな目線を寄越す龐統に魯粛は苦笑を返すと、その肩を軽く叩いてそっとさすった。
「そんなに慕ってもらえて公瑾どのもさぞや光栄だろうさ。大丈夫、劉玄徳には俺からよく言っておく。俺たちがこの地を離れた後、すぐに彼は来てくれるはずだ」
 唇を噛む龐統は、己も連れて行ってくれとは言えなかった。彼には南郡功曹従事としての職務があったし、例えそう訴えたとして魯粛はやんわりと己を拒絶して置き去りにするだろう。龐統にはそのことが明確に察せられた。
 魯粛は公安に拠点を置く劉備に書簡をしたためるため筆をとった。
「ただ、益州の動きが気になる。間者から劉玄徳のところへ見知らぬ益州訛りの男が出入りしていると聞いている。張公祺はともかく劉季玉はどっちつかずで機を逸するだろうと思っていたが、よもや劉玄徳が西を取るつもりなら……」
 そこで魯粛は言葉を区切り、彼自身が動かぬわけにはいくまいね、と続ける。
 龐統は頷き、小さな声で答えた。
「例え劉玄徳とて容易く益州は取れますまい。かの地はただ峻険な山々に囲まれているだけではないのです」
「それはそうだ。ただ、人には地形を物ともしない力、あるいは味方につける力がある。人徳と策謀だ。劉玄徳にはそれがある」
「人徳と……策謀ですか」
 繰り返す龐統に、然りと魯粛は首肯する。
「荊州の人心は劉玄徳を欲している。これは俺たちが江陵から手を引く理由のひとつでもある。荊州はこれまで劉表の庇護下にあったからね。我々孫軍は、言うなれば部外者だ」
 現在、劉備は先に自身の手で下した荊州南部四郡の官吏たちを己が下に集めている。その中には江南地域に広く武名を知られた勇将たちの名もあった。元劉表麾下の霍峻、字を仲邈や、長沙太守韓玄の麾下にあった黄忠、字を漢升などはその筆頭である。
「龐君、お前さんは黄巾党が河北で叛乱を起こした頃、歳はいくつだった?」
「え? ええと……中平元年ですから、まだ六つでしょうか」
「俺は十三、ようやく字をもらって喜んでた頃だ。劉玄徳はね、その頃にはもう義勇軍を率いて戦場で戦っていたんだ。この古強者に精々俺と同じくらいの歳の、ましてや益州の山の中で安穏と暮らしていたようなお坊ちゃんが、攻防戦を展開して勝てると思うか? 公瑾どのの江陵攻略の目を盗んで、荊州南部を容易く併呑してしまえるような男に」
 ずい、と己の方に身を乗り出して顔を寄せてくる魯粛を真っ向から見つめながら、龐統は息を呑む。
「……彼は、それを成し得てしまえますか」
「こんなことを言っちゃあなんだが、我々がそうするよりもよほど楽なはずだ。叶うならその手並みを傍で見さしてほしいくらいさ」
 息を詰めたまま視線を彷徨わせる龐統の様子を見てとった魯粛は、くく、と喉を鳴らして笑い、すらすらと竹簡に筆を滑らせた。
「気になるかい、どんな人物か。お前さんは人が好きな人だから」
「…………、……はい、とても。ぜひ一度お目に掛かりたく」
「よしよし、ちゃんと書いておくからな。何せお前さんは立派だから、劉玄徳も気に入ると思うよ。よく見て、よく働くといい」
 ありがとうございます、と謝意を述べながら、龐統はちらりと上目遣いに魯粛を見た。
「……でも、またいつか南郡へお戻りになりますか」
 その言葉にきょとんと目を丸くした魯粛だったが、すぐに破顔して、もちろんだとも、と応えた。
「この地、江陵だけは劉玄徳が彼の力で落としたものじゃない。紛うことなき我々の戦果だ。言わば我々はこれから劉玄徳に江陵を“貸し与える”ことになる――そうして、劉玄徳は必ず益州の攻略に動く」
 こん、と軽やかな音を立てながら、魯粛は筆置きに筆を横たえる。
「互いに機を得、事を成し得たら江陵を我々に“返していただく”。これは単なる盟約じゃない、信義の話だ」
「互いに、ですか」
 龐統が言うのに、魯粛は神妙に頷いた。
「じきに曹孟徳も関中軍閥を下し、漸う南方攻略に乗り出すだろう。孫軍は決して後手に回ってはならない……もはや、戦神は我々の下にはおられないんだから」
 ふと小さく笑みをこぼす魯粛を、訝るように眉根を寄せて龐統が見つめる。なんでもないよ、と彼は答え、ぱしんと胡座をかく自身の膝を強く叩いた。
「また元気に会おう、龐士元君。お前さんも来たるべきときには今以上出世して立派な人物になっておろうが、我々もまた成長して、公瑾どの以上になっていてみせるよ」
「…………ふふふっ、はい、わかりました。私も皆様に、周様に笑われぬよう、精一杯務めを果たしてまいります」
 そうして二人は互いに手と手を取り合った。盟約でも信義でもない、友誼の交わりのために。

 一月後、程普、魯粛を始めとする孫軍の江陵駐留軍は一路東進し陸口へ向かった。
 江陵城門で見送りに出た龐統ら江陵の官吏たちに、程普、魯粛、そして今は魯粛に率いられた周瑜の軍勢は皆して手を振り、惜しみながらも再会を約束し合って一時の別れを告げた。

 ――しかし、これ以後、彼ら孫軍と龐統とが再びまみえることはなかった。


 ◇


 建安十七年、孫権は改築が終わった石頭に将軍府の機能を移転し、当地を含む秣陵一帯を建業と改称した。さらに、前年から続いていた曹操と馬超、字を孟起を始めとする関中の軍閥たちとの戦争に決着がつきそうだという報告が既に孫権の下に入っていたため、曹操の攻勢に備える守りとして濡須口に防塞を築いた。
 陸口に駐屯している魯粛からは、当地の南部、洞庭湖のほとりに水軍調練のための軍事施設を建造に目処がついたとの連絡が入った。これを受け孫権はかの地で魯粛の補佐をしていた呂蒙を呼び戻すと、既に濡須の防塞に入っていた諸将と共に濡須口の防備に当たらせることとした。

「利、左異!」
 孫権がどこか晴れやかな表情を浮かべて、書簡整理に当たっていた二人を手招く。首をかしげながら二人が側近くによると、孫権はひとつの書簡を広げて見せた。
「また食があるぞ」
 それは、天文官から提出された蝕の予定日数が示されたものであった。夏六月頃、と書かれてある。
「もうすぐですね」
「そうだ。府を移したところにこんな巡り合わせがあろうとは」
 喜ばしいことだ、と気色ばむ孫権と谷利に、左異は不思議そうに首をかしげる。
「そんなにいいことですか」
「ふふ、いいことだと思うことにしたんだ」
 いたずらっぽく笑って孫権が言う。その言いようには谷利も思わず吹き出した。
「物事の懸案にああでもないこうでもないと頭を悩ませて、畢竟悪い方にばかり目を向けてしまうのは私の悪い癖だ。だが今、事業を新たに始める今このときにあってその悪癖は皆に肩代わりしてもらおうと思う」
 そうして孫権は目を上げ、室の扉に視線を動かした。間を置かず外から張昭の入室を求める許可の声が聞こえてくる。
「あれこれ思い煩うことは、私より頭の良い者たちに任せることにしたんだ。張公のようなね――どうぞ、中へ!」
 許可を得て入室してきた張昭は、彼の主とその親近監たちがひとかたまりになって己を見つめているのに気づいてたじろいだが、すぐに咳払いをして鋭い声を発した。
「殿、政務はどうされました。お前たちも、殿の目付けである自覚はあるのか?」
「すっ、すみません!」
 慌てる左異とおもむろに頭を下げる谷利の対照的な様子に、張昭は片眉を上げる。
「……まあ、よい。殿、呉会より人事についてお伺いを立てる書簡が届いております」
「? そちらで確認していただければ特別私からは要望はありませんが……やる気くらいのもので」
「朱休穆、陸伯言より直々にあなた様に見てもらいたいとの念押しが」
 全くあの者らは、と愚痴のひとつもこぼしたそうな張昭に苦笑しながら、孫権は書簡を二つ受け取る。年を経て居所を隔てていても変わらない朱桓や陸議の人となりに、谷利もまた胸の裡があたたかくなるのを感じた。
 書簡を拡げて内容に目を通した彼は、二、三度首肯し、口許をほころばせる。
「うむ、これは確かに私の確認が必要ですね」
「と言いますと?」
「親近監の人員の打診です。先日の通達を受けて」
 ああ、と得心が入ったように頷いて張昭は彼の卓に腰を下ろす。過日、孫権は将軍府に出仕する官吏の推挙と同時に、親近監の人員増に充てるため山越の若者らを数名選抜して寄越してほしいと呉会各県に依頼していたのであった。
「休穆どのと伯言が推すなら間違いなかろうが、やはり数は少ないな。まあ、その方がいいか……」
 ぶつぶつ言う孫権の一方で、張昭が声を張った。
「谷利、お前はその長を務めることになるのだから、一層気を引き締めるのだぞ」
「――はい、わかりました」
 背筋を伸ばして孫権と張昭の二人に礼をすれば、うむ、と満足げに頷く張昭と、苦笑を浮かべる孫権との表情の対比が見られる。
「ほどほどにな、利」
「殿」
 ぴしゃりと張昭に呼ばわれ肩を竦めた孫権は、朱桓、そして陸議に対する返信をしたためるため筆をとった。
 その姿を横目で見ながら、谷利は唾を飲み込む。
 ――いつか願った以上のところまで、己は来ている。そんな風な心地がした。


 ◇


 冬十月、ついに曹操が動いた。大詰めとなった関中軍閥との戦いの始末を彼の股肱である猛将・夏侯淵、字を妙才らに任せ、自身は大軍を率い長江流域に向けて南下を開始したのである。
 智勇兼備、などという言葉は曹操には不足である。武勇を誇る歴戦の勇将たち、機略に富む有能な軍師たちを従える彼自身もまた、孫権の亡父や劉備たち同様、黄巾党の乱の時代より多くの将兵を率いて死線をくぐり抜けてきた一人の偉大な将軍であった。

「仲謀、土塁の造営がそろそろ終わりそうだ」
「仲異どの、ありがとうございます」
 本陣を立てた丘の上からぼんやりと眼下を見下ろす孫権に後背より声がかけられる。彼はゆっくり振り返ると、谷利を伴った孫瑜が大股に歩み来て慇懃に拱手するのに礼を返して頷き、目線で話の先を促した。
「先鋒は董元代、徐文嚮、呂子明、凌公績。韓義公、周幼平、甘興覇は遊軍。朱義封、蒋公奕はもうすぐ到着すると聞いている。さすがに賀公苗と陸伯言は動かせなんだか……」
 至極残念そうな声音の孫瑜に、孫権は詮方ないと言うように首を振る。曹軍の侵攻の一方で山越征伐をないがしろにはできなかった。丹楊周辺には阜屯の兵たちが目を光らせているとは言え、行き届かぬところで先の噂にあった曹軍の動きに呼応する不服従民が現れる可能性もあるのだ。
「曹軍には曹孟徳以下、楽文謙、張文遠、李曼成、それから臧宣高が従軍しているという報告を得ております」
「どれも精強な将たちばかりだ。臧宣高というのはあれか、先達て韓将軍が敗れた」
「はい。用兵が巧みで、手練れの兵たちを束ねる良い将です」
 孫瑜は顎に手を当て、手強いな、と呟く。孫権は頷いた。
「――もう、我が軍に神勇はありません。兄も、公瑾どのも泉下の人となりました」
「…………仲謀」
 気遣わしそうに己の名を呼ぶ孫瑜を、孫権はまっすぐに見返した。
「ですが、猛勇を誇る武人たちがおります。韓義公どの、董元代どの、あなたもそうです仲異どの。それに……周幼平どのや蒋公奕どの、呂子明どの、あるいは若い将たちの慧眼もあります。無論、私も江東を守るため、誰一人欠けることのないよう奮励努力を惜しみません!」
 孫権の表情に笑みが浮かんでいるのを見た孫瑜の心に、さっと不安がよぎる。かつて周瑜が己に伝えた、将の在り方のことが。
 孫瑜はやおら口を開いた。
「仲謀、お前は、後ろで構えていればいいんだよ。お前の目に見つめられていれば、それだけで皆は百万の力を発揮する」
 じいっと孫瑜の真摯な眼差しに見つめられそのようなことを言われて、孫権はたじろいだ。彼の言うところは、孫権自身の成さんと欲するところとは違うであろうという確信がある。
「仲謀、どうか聞き分けてくれ。これからはお前が我々の上に立つんだから、くれぐれも軽率な行動は控えてくれるか。我々がお前にとってそうであるように、我々もお前を失えない」
「…………ち、仲異どの」
「わかってくれ」
 強い口調で言われ、孫権はすっかり閉口してしまう。助けを求めるように孫瑜の傍らで成り行きを見守っていた谷利に視線をやったが、それすら孫瑜が彼に声をかけるほうが早かった。
「谷利、お前たち親近監はその職務にあって決して仲謀から目を離すことなく、無体を諌めるように」
「…………」
「返事は?」
 孫瑜の言葉に、ようやく谷利は、承知しました、と返す。ひとつ頷いた孫瑜は、装備の確認をすると言ってまた本陣から立ち去った。
 その姿が見えなくなると、孫権は憮然とした表情を浮かべて谷利の名を呼んだ。
「……土塁築造の様子はどうだった」
「はい、皆恙なく。以前荊州攻略の際にも呂子明様の発案で似たようなことをしたとかで、さほど労苦はないようです」
「ああ、子敬どのがそんなことを仰っていたな。頼もしい限りだ……」
 そうして深いため息をつく孫権に、谷利もまた小さく嘆息する。息を殺して成り行きを見守っていた左異、そして新たに親近監として加わった衛奕に目線をやると、彼らはぺこりと頭を下げて申し訳なさそうな表情をした。
 谷利は彼らに肩を竦めて見せると孫権に視線を戻し、彼を呼んだ。
「我が君」
「…………仲異どのは、過保護だな」
「慎重で責任感のある方です」
「……まるで私の父や兄になったようだ」
 きっとそうなのだろう、と谷利は内心で返答し、孫権へ歩み寄った。
「私だって、わかってはいるんだ。私には兄や公瑾どののようには振る舞えない。だが、それでは軍を率いていくことはできないだろう」
 孫権が率いる軍勢は、多くが孫策や周瑜の類稀なる将器を知っている。孫権はそのことを頼もしく、しかし同時に不安にも思っていた。
「では政務のように、他の皆様にお任せしてしまえばよいのでは」
「人の命がやり取りされる戦場でか?」
「あなた様は将の皆様の背をめいっぱい押して、やりたいようにやってこいと言えばよいのです。その先の生き死にはもはや誰しも己のみの責任ですから」
「…………そんなものだろうか」
 ほう、とひとつ嘆息して、孫権は少しばかり顔を俯けた。
 つい数ヶ月前にはあんなに欣然として事業の展望を語らっていたというのに、随分と意気消沈したものである。確かに孫瑜の言うことは最もで、谷利にとっても他の何物も孫権の生命には替えるべくもないが、他に良い伝え方はなかったものだろうかと思う。
 ――多少厳しさがあったほうが、若年の頃から迂闊な孫権には身に染みるだろうか。
 ふ、と小さく笑みをこぼした谷利の呼気を耳聡く孫権は聞きつけて、どこか不満げな表情で彼を見た。慌てもせず谷利は、思い出しました、と口にする。
「私とあなた様が初めて会った戦場で、あなた様は大怪我を負われた周将軍を抱いて泣いておられました」
「い、いつのことだ……! そんな昔の話をよくも思い出したな」
 狼狽える孫権は首をかしげて己を見る左異と衛奕を気にして、やめてくれ、と谷利に訴える。谷利は笑みを返すだけに留めた。
「あのときもあなた様は、蒋将軍や義封どの、陳子正様に口々に諌められておられた。皆、孫綏遠様と同様にあなた様のご身上を慮っておいででした」
 は、と孫権は短く息を吐いた。谷利の言わんとするところを察したのかもしれない。
「私も、あなた様も、あのときからまるで変わりませんね」
「…………、……成長がないと言うのだ、こういうときは」
 孫権は絞り出すような声で答える。谷利は何も言わなかった。
 しばらく彼は黙っていたが、やがてまたひとつ深いため息をつくと、両手で顔を覆った。
「あー…………」
 やるせないような、もどかしいような、そんな唸り声だった。
「……私も思い出した。私は強くなりたいと思っていたのだ。守られるだけの男には決してならないと」
「もうなっているではありませんか」
 事もなげな谷利の言葉に、訝るような孫権の表情がかち合う。谷利は小首をかしげた。
「あなた様が後背にいることで、あなた様の戦士たちは皆その加護を得て守られているのです」
「……仲異どのに充てられているんだ、それは」
「まさか」
 呆れたように肩を落として幕舎へ向かう孫権の後を追いながら、谷利は重ねる。
「私は変わっていないと申し上げました。私は初めから、こうでしたよ」
「…………、……そうだったな」
 それも思い出したよ、孫権はそう言ってようやくおかしそうに笑った。
「お前はいつだってそうやって、私を舞い上がらせるんだ」


 ◇


 翌建安十八年は、年明けから天候が崩れ、風雨の吹きすさぶ日が多かった。長江は上流域の長雨の影響で水かさを増し、連日のように濁流に覆われている。
 長江北部に位置する――かつて幼い頃、孫策や周瑜と共に孫権も遊んだ――巣湖より長江に注ぐ濡須水西岸に曹軍は陣を構えた。濡須口を挟んで南岸に対面する孫軍もまた、重く垂れ込める曇天の下にじっとして動かない。

「……曹軍は動かんな」
「到底無理です、この風と水量では」
 どうどうと恐ろしい音を立てて、江は力強く流れていく。荒れた風が孫権の赤い髪を激しく揺らした。孫瑜は厳しい表情で対岸の船の群れを睨めつける孫権を横目で見遣る。
「もとより操船に不慣れな曹軍はともかく、我が軍の船団もいささか不安だ」
「はい。……各将にはよくよく注意して、有事の際には人命を優先するようにとは、通達しておりますが……」
 孫権は唇をきゅっと引き絞り、早く撤退すればいいのに、ともごもご口にした。その身も蓋もない言い分に孫瑜も思わず笑ってしまう。
「はは、それを言っては」
「先達ての赤壁でも兵に疫病を抱えさせたまま行軍するし、曹孟徳はどうして時々こうも無闇なことをするのでしょう」
「お前も人のことを言えた義理ではないよ。だが……無茶を通しても進まねばならぬときが誰にもあるだろう。伯父君も、討逆様も、周公瑾どのも、皆してある時はそうだった。そうしてその無茶がしばしば活路を開いてきたのだ」
 あいにくしばしば命を落とす者もあるが、と小さく早口で孫瑜は付け加える。それに相槌を打って、孫権はぽつりと言った。
「――そこで生き残ることができれば、もはや滅多なことでは死ななくなる」
 二人の斜め後ろに控えていた谷利は、その言葉を耳にしてそっと顔を孫権のほうへ向けた。彼の面は己の目には見えないが、きっとどうにも複雑そうな表情をしているのだろうと察せられる。
「死ぬのは、私か曹孟徳のどちらかです」
「仲謀!」
 孫瑜の咎めるような大声に、孫権は口先ばかり謝って翻る。ぱちりと目が合った谷利に彼はにこりと微笑みかけて顎をしゃくり、下へ行こう、と言った。
「はあ……」
 呆れたような孫瑜の嘆息を背に聞きながら谷利は先を行く孫権に続く。二人の親近監も速足でそれに続いた。

 孫権の来訪に陣中は沸き立った。皆前年の暮れから続く布陣に憔悴している様子ではあったが、孫権の労いの言葉に笑みをこぼす余裕もある。
 水かさが増し勢いの強まる水流を考慮して、河岸にこしらえた土塁より少し距離を置いて敷かれた陣ながら、けたたましく流れる江の音が耳を打つ。孫権は自身に追いついた孫瑜と共に、ちょうど幕舎で将帥たちが集まって議論を交わす場に立ち会った。
「ああ、殿。今伺おうと思っていたところで」
 腕を組んで難しい顔をしていた董襲が、孫権の姿を見て僅かに表情を和らげる。その横で韓当も相好を崩した。
「何かありましたか」
「ええ。このまま戦局が動かず糧食と気力を浪費するようなことがあっては士気に関わりますし……」
 言い淀む董襲に、孫権は首をかしげて先を促す。彼は、昨年の暮れに五諸侯に星孛が現れましたでしょう、と言った。
「あれを見て不安がる者が少なからずありまして……殿のおかげで食のことは皆してもう気にならない風なのですが、妖星となると勝手が違って……よくないことが起こるのではないかと。その矢先にこの戦ですから……」
 ふむ、と腕を組んだ孫権は、しばらく考え込んだ後、己の後背に控える親近監たちを見た。
「お前たちのところでは妖星にはどんな謂れがあるのだ?」
 三人は各々顔を見合わせる。左異が聞きにくそうに、妖星ってなんですか、と問うた。
「ほら、先達て五諸侯に――南の空の井宿の近くで、尾を引いた星が流れたろう。あれ」
「ああ」
 衛奕が合点が入ったというように大きな声で相槌を打つ。
「私のとこではあれが流れた方角には移動しないようにと言われております。人死にがありますから」
 山越と呼ばれる江東地域に点在する不服従民や異民族のなかでも、衛奕は定住をせず山間を移動して巡る部族出身の青年だった。たまたま会稽の山間にある屯に立ち寄って商いをしていたところに陸議の率いる討伐軍の襲撃を受け、逃げる間もなくまとめて虜となってしまったという。
 彼の言にへえ、と感心したような声を上げた左異も、私のところもですよ、と口にした。
「保屯と麻屯では、あれが流れるとしばらく川に近づかないようにしておりました。でも、大きいのは滅多に流れなかったですけど」
「どこも不吉な予兆ばかりだ」
 困ったな、と苦笑する孫権は谷利を見る。
「私は存じ上げません。星が線になって流れるのは豊穣の祝福ですが、大きいのが何と言われていたかまでは……」
「……面白いですな」
 谷利に応えて孫権が何か言う前に、口を開いてそのように言ったのは呂蒙である。
「ものの見方が異なりもすれば、斯様に似通うときもある」
 何がどう、とは呂蒙は孫権の目を憚ってはっきりと口にはしなかったが、我々は決して違わないのだ、と彼の呟いた言葉を耳にして孫権は満足げに口許に弧を描いた。気を良くした孫権は、パシンと両手を叩き諸将の目を己に向けさせる。
「さあ、もう萎縮してはいられません。曹軍が江を渡り、江東の地を蹂躙することを看過してはなりませんから。妖星は南に流れました。であれば、不吉があるのは南――曹軍の向かう方角です」
 孫権は胸を張り、その場に集まる諸将を見渡して、
「我々がその不吉を体現するのです」
と声高に言った。


 ◇


 ――しかし、夜半のことである。突如として長江に暴風が吹き荒れ、孫軍、曹軍の別なく船団に襲いかかった。両軍の楼船は凶暴な嵐、川面に激しく立つ白波になすすべなく、大きく左右に傾ぎ、あるいは今にも波に飲み込まれんとしている。かがり火が消え暗黒が立ち込める濡須の両岸に兵たちの悲鳴と唸り声とが満ちていた。
 五隻の巨大な楼船団を率いる董襲の乗る楼船もまた暴風に苛まれ船の揺れはいよいよ大きく、縁にしがみつく兵士には川面が眼前に迫るほどであった。
 董襲の左軍である王羽、右軍である胡鵬は手分けして楼船に繋いでいた走舸を切り離しにかかり、何度も船上に倒れ込みながらなんとか董襲の下へと向かう。輪郭もおぼろげに彼は舳先に立って、闇に包まれた風の吹く方角を歯を食いしばって睨みつけていた。
「とうっ……董、将軍! そこは危ないですから、こちらへ!」
 胡鵬が声をかけるのにちらりと視線を寄越した董襲はしかし、何も答えない。
 王羽が甲板に膝をつきながら拱手する。
「今、走舸を離してまいりました! すぐさまそちらにお移りください。この船は危険です」
 言うや、船の揺れに抗えず転びかける彼を董襲は睨んだ。
「なぜ勝手をしている」
「……! 生命の危険が伴う火急の事態にご許可を得ず独断で行動したことの責めは受けます! ですがまずは将軍に安全な川岸までお移りいただかねば」
 王羽が言い募るのに、董襲は体ごと彼を向く。暗がりのなか、見えもしないのに彼の光る視線に射られたように王羽の身は竦んだ。
「私は殿よりかの敵からこの地を守るよう言いつけられてここにいるのだ。その命をどうして違える!」
 吹きすさぶ嵐のなか、雷鳴のように董襲の怒号が轟き、王羽と胡鵬とは押し黙った。
「次にそのようなことを口にしてみよ。いかにお前たちと言えど斬らねばならぬ」
「…………」
 何か言おうと口を開いた胡鵬であるが、すぐに引き結んで眉を寄せた。
 王羽は覚束ない足でなんとか立ち上がり董襲のいるほうへ向かって、私もそちらに行きます、と声を上げる。慌てて胡鵬もどうにか立ち上がろうとしたとき――
 轟音を立てて、風が船団を蹂躙した。

「我が君!!」
 強風が支配する戦場、丘上に設えた安寧の役目もままならぬ本陣の幕舎から黒い影になって飛び出てきた孫権を谷利は押し留める。周囲の暗闇を察し、孫権は谷利を脇に退けながら、どうなっている、と急くように尋ねた。
「この風で火が消えました。対岸にも灯りは見えません」
「皆はどうしている。下に行こう」
「なりません、危険です」
 谷利の言葉に、孫権の碧の双眸が彼をねめつける。
「どこも危険だ。ここも」
 幕舎を建てる材木が軋む音がそこら中でがなり立てる。
「下に行くぞ」
 孫権が歩き出そうとする気配を察し、谷利は彼の腕を取った。
「なりません」
 彼の硬い声に応えるように、孫権は長く嘆息する。呆れた、とも、わからずや、とも言いたげに。
「利、――これは君命だ。私は下に行く。お前は供をせよ」
「…………わかりました」
 己の後背で人の動く気配がして、谷利はちらりとそちらを見やる。左異と衛奕の輪郭がうっすらと浮かんでいるのを見て彼は首肯した。

 ――そのとき、轟音が辺り一帯を震わせた。

 すぐに振り返った孫権が、江を見渡すことのできる櫓のあるほうへ走り出す。親近監たちも急いで後を追った。
「今の音は!」
「わっ、我が君!?」
 暗闇の中で前が見えず、危うくぶつかりかけた近衛兵に問うと彼は慌てて、船が、と口にする。
「破壊されたか、衝突したか……」
「何だと……!」
 手探りで櫓に向かおうとする孫権を先導するように谷利は彼の手を改めて取る。衛奕がひらりと彼らを交わして前に出た。
「櫓は危険だ、この風ですから! こっちから江が見えます!」
 さあ、と衛奕は孫権の手を取る谷利の手を取って大股で歩き出す。左異が孫権の背中をそっと押して、彼らは丘の縁に立った。
 ごう、と風が吹きつけるなか、孫権は顔をしかめた。赤い髪が頬や鼻先にまとわりつき、思わずぐっと口を結ぶ。
 言う通り、江が見えた。ほんの僅かの暗雲の合間から、月の光が一筋、荒れ狂う川面を照らしているのだ。
 孫権は息を飲み、目を見開いた。
 濡須口に連なる船団は波に弄ばれ、片や陣の北東では隣り合う船同士がぶつかり、片や南西では数隻の船が遠くまで運ばれようとしている。
「西の船が流れる!」
「あの船は誰の麾下にあるものだ? あすこに敷かれているのは子明どのと文嚮どのの陣のはず」
「わかりません、旗が絡まっていて文字が見えない」
 白波が数隻の船団を大きく揺らしながら北西へ攫っていく。船団はそのまま暗闇に溶けていった。
「向こうは曹軍の陣がある! すぐに戻さねば……」
「舵がきかないのでしょう。この状況では救援を出そうにも今度はこちらが危険に晒されます。皆様の無事を祈るよりほかは……」
 左異が眉をひそめて言うのに、だが、と言い募ろうとした孫権はそのとき、より一層重く、強い音が周囲を震わせたのに気づいた。
 孫権はすぐさま音のするほうに体ごと向き直った。もっとも北東に位置する陣にある一隻の楼船が南面に船底を向け、高波を起こして徐々に崩れ落ちていくのが見える。ミシミシと木の軋む音が遠く離れた本陣にも届いた。
 旗竿に掲げられた“董”の旗が結び目から千切れ、すさまじい勢いの風になすすべなく吹き飛ばされる。
 風波は満身創痍となった楼船になおも激しく襲いかかり、やがて天地を震わすほどの軋みを立てて、船の側面の木が破れた。
「ああ……!」
 孫権たちと同じように丘上の縁に立って眼下の様子を注視していた近衛兵の一人が悲鳴を上げる。
 その場にいた皆が、波間に人らしき黒い影をいくつも見た。
 船はどうどうと暴力的なまでの白波に押し流され、浮き沈みしながら下流に向かって進んでいく。月の光が破壊される楼船を白く縁取り、荒れる川面をさやかに照らした。
 誰一人言葉を発することもできず、呆然と立ち尽くしてその様を見つめていた。船はやがて黒く染め上げられて輪郭も不確かになり、月光の円から外れて、ついに誰の目からも見えなくなった。