「ここの部隊に来てからなんだか、城壁をよじ登ってばっかりな気がします……」
「いいじゃないか。人なんか生まれて死ぬまで壁に登るか壁から落ちるかくらいしかすることないんだから」
 己の言葉に、はあ? といかにも怪訝な表情を浮かべる丁奉の肩を豪快に叩いて一頻り笑った甘寧は、肩に括りつけた練絹を弄びながら、そろそろ行くぜ、と囁くように言った。
「まあ、この戦が終わったら俺から我が君に言って、お前にもっと別の経験もさせてやれるよう図ってやる。これが最後の壁登りだぜ。最後じゃないかもしれんがな」
「え? あ、ありがとうございます」
 丁奉の謝意を耳に、馬上の甘寧は面を空に向けた。彼らが背にする東の空は卯の刻にはすでに薄赤色に染まって明るく、細くたなびく雲が濃くなっていくのがわかる。
 甘寧は再び正面を見た。八里の向こうには彼らが落とすべき皖の都城がある。
「皖城南壁に張りついたら、魯将軍の部隊と呼吸を合わせて弩弓隊は壁の上の敵をとにかく狙え。粗方片付いたらすぐに雲梯を架ける。手間取るんじゃねえぞ」
「はい」
 副将が返事をするのに甘寧はひとつ頷いて続けた。
「先陣は俺と承淵、悌士、正豫、虎凌だからな。一人でも死なせたらお前らも全員道連れだ」
「はい」
 次第に応えを返す将士は増えていく。
「我が君が見てるぜ。気張っていけ!」
「はい!」
 暁の幽静な気配を震わす軍の呼応、数瞬の後に後方の本陣に位置する鼓吹より勇壮な太鼓の音が轟いた。
「孫牙門隊、行くぞ! 風の如く疾く敵を制圧する!」
「傅牙門隊も出るぞ。落ち着いていこう!」
「牙門隊に遅れをとるなよ! 凌公績隊、進軍!」
 先んじて動いたのは周辺城邑の制圧を任じられた三隊である。整然と走る軍勢に続いて、魯粛の陣頭から太鼓が打ち鳴らされる。
「さあ、俺たちも続こう。首尾よくな!」
 そうして一斉に駆け出す魯粛の軍勢を見送った甘寧の傍に、呂蒙が馬を歩ませて並んだ。ちらりと横目で見やる甘寧に彼は軽く会釈をする。
「よろしくお願いします、甘将軍」
「改まって言わなくてもいい。俺はお前さんと亡き周将軍に山程借りがある。この命で払ってもまだ足りないぐらいのな」
「……それは違いますよ」
 甘寧の言に緩く首を振る呂蒙は、すいとその目線を軍勢の後方、孫の牙門旗の立つあたりへ移す。甘寧もそれに倣い、口許にうっすら笑みを浮かべた。
 ぐ、と手綱を強く握った彼は、さあ、と高らかに言って己の軍勢を振り返った。
「甘興覇、行くぜ!!」
「オオッ!!」
 鬨の声を聞いた呂蒙が慌てて馬首を翻すと、瞬間、甘寧の軍勢が一陣の風の如く走り出した。土煙に激しく咳き込む呂蒙に、隣に並んだ副将が気遣う言葉をかける。それを手で制し、そのまますっと高く掲げると、呂蒙の軍勢もまた姿勢を正して前を見た。
「さあ、皆、行くぞ! まずはここからだ!」
 応、と鬨の声が虚空を震わせ、手綱を引いて駆け出した呂蒙に皆が続く。
 その黒々とした塊、きらりと閃く鎧のふちを、東から昇る朝日が強く照らしていた。


 ◇


 辰の刻に僅かに差し掛かった頃には、孫軍は皖城邑をすっかり抑え、盧江太守の朱光、その参軍である董和を捕捉した。
 特に甘寧、呂蒙の働きは素晴らしく、皖城南面を弩弓兵で素早く片付けると、手早く雲梯を架けると一息に城壁を駆け登った甘寧は練絹を狭間に引っ掛けて飛び上がり、その大胆な攻勢に皖城を守備していた兵たちはおののいた。甘寧の部将たちも彼に続いて次々に城壁に乗り込み、誰一人欠くことなく皖城南面を制圧した。
 その勢いに乗じて呂蒙の率いる精鋭部隊が皖城に突入し、瞬く間に当地は陥落したのであった。

 皖城陥落の報を聞いた孫権は本陣から中天を見上げ、まだ日はあすこにあるぞ、と拍子抜けしたような声を上げる。
「昼餉にも早いじゃないか」
「ふふ、本当ですね」
 参軍として孫権の傍らに控える諸葛瑾が笑った。一行は孫権に続き本陣を出ると、皖城に向かう彼の後ろにつく。
 ――そのとき、谷利はふと北東の方角を見た。
「……我が君!」
 名を呼ばわれば、孫権はすぐに返事をした。谷利は無言で北東方面、巣湖に続く丘陵地帯を示す。
 二里ほど離れた先の丘上、緑萌える草原の涼やかな中に不自然な黒い点が二つ見えた。
「何かあるのか? 目がいいな」
「人のようにも見えますが……曹軍の斥候でしょうか?」
 左異が眉を顰めて目を凝らしながらそう口にする。皖城より三百里離れた合肥県に駐屯する曹軍から出された援軍であろうかと彼らは危ぶんだが、孫権は、だとしても構うな、と言った。
「皖は既に落ちているし、太守は捕捉した。我が軍もまだ武装は解いておらぬ。いかにこの盧江が要地であるとはいえ、曹軍に現状この地を奪還する余裕はないだろう」
「ですが……」
 二つの影を睨みながら、谷利は己の鳩尾に圧迫感を覚える。こすれば消えてしまいそうな風景の中の黒い点が、息を呑むほど重い視線を谷利たちに――孫権に向けている。
「……こちらを見ています」
「何だと?」
 怪訝な声を発する孫権を黒い影から遮るように馬を進めた谷利は、そのまま上体で振り返り衛奕を呼んだ。
「すぐに前線の牙門隊に伝令を。僅かでもいいから本陣に兵を戻してほしいと」
「わかりました!」
「左異、皆様方を頼む」
「は、はい。谷利どのは」
 左異の問い掛けにひとつ頷き、谷利は手綱を強く引いた。
「我が君、様子を見てまいります」
「利、いいから!」
 孫権の制止を振り切って馬に鞭打ち走らせ、まっすぐに黒い点へと向かって駆けていく。馬上で息を詰め、影を睨みつける谷利の頬に朝の太陽が照りつけた。夏の光が一層、彼の目指す影の色を濃くしていく。
 不吉だ、と彼は思った。あの黒い色は禍の色をしている。
 さほど距離が離れていないせいで、一里も走れば谷利の鋭い目には黒い影の正体が察せられた。二騎の騎兵が丘上に佇んでいるのである。彼らの目にもそちらへ向かって駆けてくる谷利の姿は見えていように、微動だにしないままに。
 いよいよ彼らの立つ丘の麓まで来た谷利は、馬の足を緩め、ほとんど歩くような速さで丘の斜面を登らせた。黒い影から発せられる視線は今、まっすぐに谷利を向いている。
 残り半里まで来たところで谷利は止まった。じいと丘上の二騎を見上げると、日除けの羽織を風に靡かせた片割れがすいと右手のひらを谷利に向け、こちらへ来いと言うように手招いた。
「…………」
 谷利は手を腰の剣に添えながら彼の招きに従って馬を進め、斜面を登っていく。
 いよいよ、彼らの輪郭が鮮明になる。谷利を手招いた男は上等な鎧を身にまとい、背筋をぴんと伸ばして谷利をじっと見つめている。彼の隙のない佇まいからは、明らかな強者の気配を感じた。
 その吊り上がった丸い目、色素の薄い瞳孔までもがはっきりと見え、谷利が息を飲んだとき、薄い唇から発せられた声が彼の鳩尾を強かに打った。
「皖は落ちたか」
「…………落ちた」
 震えをどうにか抑え込んで答えると、男は、そうか、と言って目を細める。
「さすがに間に合わぬか。なかなかどうして、速いじゃないか」
「…………」
 すい、と男が谷利の後方を指差す。
「あすこにいるのがこたびの戦の総大将か?」
 振り返らないまでもその言葉が誰を示しているのかがわかって、谷利は首肯した。その応えに、差していた指を己の顎まで持って行き、ふうん、と気の抜けたような音を発して男が小首をかしげる。
「さて、どれだろう。よく見えないな……まあ、いいか。帰ろう、武護軍どの」
「はい」
 男が馬首を返すのに護軍と呼ばれた男も続く。二騎の足音がすっかり聞こえなくなってから、谷利も孫権の下へと引き返した。

 谷利が戻ると、牙門兵に囲まれながら彼の帰還を待っていた孫権が怒ったような表情をして、なぜ命を無視した、と詰めた。
「君命とは仰いませんでした。それに、あの二騎を捨て置くのも良策ではないと思われましたので」
「…………何者だった?」
 憮然とした顔で口を尖らせながら問う孫権に谷利は、名はわかりませんでした、と答える。
「ですが、片割れは武護軍と呼ばれておりました。もう一人も上等の鎧を身につけておりましたので、将軍の一人ではないかと」
「まさか。将自らが、ただ護軍一人を連れて斥候に来たとでも言うのか?」
 孫権の当惑もわからないではない。本来であれば及びもつかぬことなのだ。
 だが谷利には不思議と、疑念に思うほどのこともないように思われた。
「……親近監一人と山越の水夫を連れて敵陣の真っ只中に漕ぎ出したような人もおりますし」
「…………」
 孫権が谷利の頬を軽くつまみ、指先で弾く。いて、と呟く谷利の表情を見て小さく笑った彼は、馬の手綱を引いて周囲を皖城へと促した。
「もう単独行動はするんじゃないぞ。さあ、皖に入って皆を労おう。あまり長くここにいるわけにもいかない」
 応、と返した兵たちは、孫権の後ろについて皖の都城に入った。既に戦後処理まで終えて孫権の入城を待っていた魯粛と呂蒙とが一行を迎える。
 一番の功のあった呂蒙は盧江太守として任命され、今回の戦で得られた兵馬、そして人民が彼の麾下に収まることとなった。先陣を切って城内に入った甘寧とその部隊は皆が褒賞を得、甘寧は折衝将軍に昇進した。また魯粛が横江将軍に、凌統は盪寇中郎将をそれぞれ拝命することとなった。


 ◇


 孫権、そして魯粛はそれぞれ丹楊、陸口をあまり長く空けておくわけにもいかぬと論功行賞を終えてすぐに帰還した。
 呂蒙は残った部将たちに誘いをかけ、皖城奪取の記念に酒席でも設けないか、と提案した。先に尋ねた甘寧は快諾したが、その後凌統に声をかけると彼は、甘折衝どのも来られますか、と呂蒙に尋ね返した。
 彼の遺恨を知らぬわけではない呂蒙は、それでも彼を安堵させるために気さくに微笑み返す。
「来る、が、彼以外の者たちも皆来る。あまり気にかけるな。殿がああしてお前のことを褒めていたのだから、そのことだけ思っていればいいじゃないか」
「…………そう、ですね」
 昨日、孫権に取られた手を弄びながら凌統は答える。あの温もりを裏切りたいわけではない。だが――凌統が抱く父を殺された恨みを、孫権が理解できないはずもないのだ。
 凌統は顔を上げ、呂蒙をまっすぐに見遣る。
「わかりました。俺も行きます。でも俺はあんまり酒も飲めないですし……肴舞もないでしょう? 賑やかし程度ですけど、俺が剣舞でもしますよ」
「おお、そうか! 確かにむさ苦しい男だけの集まりだからな。まあ、剣舞もいよいよ男くさいが……頼まれてくれるか」
 その言葉に首肯する凌統は、嬉しげに笑って、ではまた夜に、と言って去っていく呂蒙の背中を見ながら、今一度己の手に手を添えて唇を引き結んだ。

 酉の刻を過ぎた頃、ようやく盧江の空は赤みを帯び始める。呂蒙のために充てがわれた皖城の寓居は、孫権の意向もあって正庁の大きい造りのものが選ばれ、部将たちが十数名集まってもなお広々としていた。
 呂蒙はずいぶんと機嫌よさそうに客人たちに酌をして回っている。よほどこたびの戦勝が喜ばしかったのだろうかと思われるが、酒が入れば彼はいつもこんなふうだったような気もする。
 呂蒙が酒席を一周し終えたところで、凌統が剣舞を舞う手はずとなっていた。上座にある、今は空座となっている呂蒙の席の後ろに、凌統が舞う際に使用される一振りの剣が飾られている。柄頭に赤い組紐が丁寧に結ばれているそれを凌統はじっと見つめた。
「あの剣きれいだよなー」
「ん? あ、ああ、そうだな……」
 凌統の隣席にいる丁奉が、上の空な視線に気づいてかそんなことを口にする。慌てて繕いながら、凌統は彼に顔を向けた。
 丁奉は甘寧の部隊に所属していた若い将で特に甘寧の気に入りであり、こたびの戦でも目覚ましい活躍があったということで酒席に招かれていた。今回の戦を終えた彼の率いる小部隊は、近々潘璋の軍団に組み込まれることになるという。年の頃も同じくらいだからと、呂蒙は気遣って二人を並べてくれた。凌統も、甘寧をよく思ってはいないことと丁奉に対する印象は別だったから特別何を言うでもなくそれを受け入れた。
 丁奉は実に気さくな男だった。粗野な性格が態度や口調の端々には出るものの、人懐っこい笑みを浮かべながら話しかけられれば凌統だって彼に対して心安く対応することができる――もしかすれば、甘寧は彼のこういうところを気に入っているのかもしれないな、などと思いもしながら。
「なあ公績、あとで剣舞するんだろ? さっき呂将軍がこっそり教えてくれたんだ」
「うん、そう。こっそり?」
「さあ。俺にだけ教えるって」
 なんでだろうな、と二人して首をかしげる。緊張しているであろう己を慮ってのことなのかもしれないと得心し、凌統は膾に箸を伸ばした。
 甘寧の麾下にいた立場ながら、丁奉は凌統と会話をしながら彼の名を一切出さない。それもまた呂蒙の配慮なのかもしれない。
 ――緊張しているというのは、そのことだ。凌統にはひとつ、やらねばならぬことがある。
「失敗しても笑わないでくれよ」
「笑うもんか。そもそも俺は剣舞もできないしな。そういうのってさ、どこで習うの?」
「父が……以前教えてくれたんだ。もうずっと小さい頃だけど」
「へえー。羨ましいな」
 彼は何が“羨ましい”のだろう。凌統はそのことが知りたかった。丁奉は不思議と親しみやすい空気を持っているくせに、人の内情に踏み込んでくることはないし己の内情にも踏み込ませぬよう壁を作っているように凌統には思われる。
 今このとき初めて会話したくらいの相手なのに、凌統は丁奉のことがもう少し知りたかった。
「さあ、若い衆たち、次はお前たちの番だぞ」
 口を開きかけた凌統を遮るように、どすんと呂蒙が二人の前に腰を下ろした。思わず口を尖らせてねめつける凌統にも彼は気づかず、二人まとめて酌をしてしまおうとする。
 嬉々として杯を差し出す丁奉に続いて凌統もむくれながら倣えば、そこでようやく呂蒙が首をかしげた。
「どうした、公績。飯がまずかったか?」
「そんなわけないじゃないですか。ただちょっと、将軍うるさいなって」
「あっはは、そりゃあすまないな」
 失礼な凌統の言葉も、酒席の緩い空気で軽やかに流されていく。呂蒙は膝を叩いてひとしきり笑い終えた後、杯を掲げて、では一献、と口許を隠した。
 凌統と丁奉もほとんど同時に口許を隠して酒を飲む。杯を下ろした丁奉が、ああー、と感慨深げに嘆息するのに凌統は笑った。
「もうそろそろ頼むぞ、公績」
「はい」
「あ、そうか。着替える? 俺手伝うぜ」
 丁奉の申し出に目を丸くする凌統をよそに、よいか、と呂蒙が声を上げる。
「奥に簡素ではあるが衣装を用意させてある。さすがに客人がそのままの装いではな……」
「そっか、俺、何も考えてませんでした」
 己の当為、その他は何も。頭を掻く凌統の肘をつついて丁奉が腰を上げた。その動きに顔ごと目を向けながら同じように立ち上がる凌統に、呂蒙はにこりと笑って、よろしく頼むぞ、と激励を送った。

 酒宴が開かれている広間の外に出ると、凌統が来るのを待ち構えていたらしい下男が恭しく二人に礼をし、こちらです、と回廊の奥へ促す。
 下男が案内したのは客人のために用意された室のひとつで、彼ももともと呂蒙に言われて凌統の着替えを手伝う積もりのようだったが、俺がするからいいよ、と気安く丁奉に断られてしまって当惑した様子を見せた。
「外で待っていてくれ。すぐに支度をするから」
 凌統に言われてようやく下男は室から辞去した。
 これかな、と傍らの卓に置かれていた衣装を丁奉がてきぱきと凌統に手渡す。
「しまった、手伝うとは言ったけど、こんな服着たことも着せたこともない」
「特別おかしな服じゃないんだから、今着てるものと何も変わりはないだろ?」
 凌統の言に、それもそっか、と頷いた丁奉は、彼がさっさと脱ぎ捨てた服を拾い上げて卓に畳んで置いていく。それに謝意を示しながら薄絹で作られた衣装を何枚も重ねて着ていく凌統は、腰帯を締めると大きく伸びをして肩を回した。
「夏服だからかな、すごく軽い」
「動きやすいのが一番だろ。ほら、後ろ」
 丁奉が腰の回りで弛んでいる布を軽く引いて整えていく。次いで袷を整える手が傷だらけなのを見て凌統は目を細める。
「今日登ったときにできた傷?」
「ん? ああ、これ? 違うよ、普段の積み重ね。お前だってそうだろ? 傷のない奴なんかいるもんか」
「……そうだよな」
 彼の言葉に頷きながら凌統は腰帯を丁寧に整える。よしいいぞ、と丁奉は高らかに言って、凌統の肩をしたたか打った。
「かっこいいぜ。これが終わったら俺にも教えてほしいな」
「本当にその気があるならね」
「あるって」
 軽口を叩き合いながら二人が室を出ると、待ちかねていたように下男が背筋を伸ばして拱手した。
 彼に続いて凌統と丁奉が広間に戻ると、入り口を守っていた衛士の二人が彼らに会釈し、次いで一人が広間の入り口から中に向かって身を乗り出すようにする。呂蒙に合図を送ったらしい、中から彼の機嫌良い声が聞こえた。
「俺はここで見てるよ。転ぶんじゃないぞ」
「わかんないな、裾も長いし……」
 そう言う凌統の肩を丁奉は今度、押さえ込むようさすった後にぽんと軽やかに叩いた。
「大丈夫だって。がんばれえ」
「凌将軍、呂盧江様がお呼びです」
 衛士に呼ばれ、はい、と背筋を伸ばして返事をした凌統はちらりと一度だけ丁奉を振り返ってから、呂蒙とその客人たちの待つ広間へ戻った。

「凌盪寇どのがぜひにと申し出てくれたのだ」
 宴席が左右に連なるなか上座の呂蒙の前に歩み出た凌統は、一振りの剣を差し出す呂蒙から片膝をついてそれを受け取ると一礼し、次いで身を低くしたまま翻り、客人たち――とはいえ皆孫軍の将であり凌統の顔見知りであるのだが――を見渡して拱手した。
「凌公績、若輩ながら一手舞わせていただきます。皆様どうぞお手柔らかに」
 宴席から飛ぶ冷やかしの声に笑みを返して、凌統は剣を鞘から抜く。剣を右手に、鞘を左手に持ち、彼は胡座をかいて片膝を立てると、目を伏せた。

 ――本当は、父から剣舞を習ったことなどない。これから凌統が舞うのは、ただの見よう見まねの拙い凌統なりの剣舞だ。
 最後に父が舞うのを見たのは、孫策が斃れてから少しした頃のことである。まだ孫権が邸内に篭りきりで葬儀をしていた頃。年端もいかなかった凌統にも、父の焦りと不安がその舞いから滲み出ているのがわかった。
 父は、孫策が寿春にいた頃から彼に付き従い、起兵に連なって各地を転戦し、その武勇を迸らせた。そんな父を孫策は愛してくれた。そして父も、孫策を愛していた。
「統、近々お前も我が部隊に連なる」
「…………!」
 舞い終えた父は長い息を吐き、室の隅に坐している凌統のほうを見ぬまま声をかけた。その内容に覚えず凌統の背筋も伸び、全身に血が巡るように痺れが走るのがわかる。
「討逆様亡き今、遺された我々に必要なのは少しでも多くの味方だ。我々は一騎当千の神勇を喪ってしまったのだから……」
 そこでようやく、父は凌統を見た。
「張公のお達しがあった。討逆様の後継は孫孝廉様だということだ。我々はこれから彼を戴くが、彼はまだ若い……御兄君を亡くされたのだ。今は悲しみに沈んで、暗い気持ちでいることだろう」
 父は凌統の眼前に片膝をついて屈み込むと、その肩に優しく触れて微笑んだ。
「どんな困難があっても、お前は必ず彼の味方でありなさい。そうすれば彼もお前の味方でいてくれる。ちょうど、我々にとって討逆様がそうであったように」

 伏せた目を開き、凌統は剣を水平に薙いだ。鞘を後ろ手に掲げ、剣を立てる。立ち上がり立てた剣を水平に倒した――その切っ先の示す向こうに丁奉の姿があって、凌統は笑みを浮かべる。
 足を踏み鳴らし、軽やかに跳ね上がる。体を捻って回り、着地して剣を鞘に収めながら身を屈め、顔を上げて右足を摺り足で前に出す。
 今一度鞘から剣をおもむろに抜きながら、凌統はまっすぐに前を見た。
 幼い頃に取られた手に感じた温もりも、昨日取られた手に感じた温もりも、やわらかく、穏やかだった。あの日の己の手にも、今の己の手にも、丁奉の言うように傷がある。
 少しずつ増えていった、傷がある。
 抜いた剣の切っ先を床に伸ばし、手首を返して顔の前に持ち上げる。立ち上がり、また白刃を水平に薙いで、凌統は二、三度、足先で床を蹴り、衣装の裾を翻して回った。
 父の言う困難とは、決してこんな形を想定していたわけではないだろう。だが、彼はもう凌統の傍にはいない。凌統に遺されたのは彼の率いていた軍勢とその影、そして――

 かけられた言葉、切なくも優しい微笑。
 父に言われなくとも、きっと凌統は孫権の味方であることを望み、誓っただろう。
 だから、父の死が遺し、凌統の胸を焦がしてやまぬ執念を、この剣で断ち切らねばならない。
 孫権の味方でいるとはそういうことだ。

 そのとき、だん、と強か床を鳴らして着地した凌統が鋭く凛と伸ばした刃の先に見たものは――甘寧の、ひどく腹立たしそうに歪められた表情だった。

「…………!」
 覚えず、凌統は息を飲む。動きを止めた彼を甘寧はどう思ったのか、ふいと自身の背後を振り返りそこにいた衛士を見るやのっそりと立ち上がると、彼の持っていた戟を取り、宴席を振り返った。彼の様子に気づいた宴席が静まり返るのに甘寧は目を細め、口の端を上げて微笑んだような表情をする。
「呂将軍、俺も双戟を使った舞くらいならできるんでね、凌君にばかりさせられないだろう」
「え、いや……」
 当惑した様子の呂蒙をよそに、甘寧はもう一人の衛士の下へ歩み寄ってその戟を借り受けると、手首を捻って得物を回す。
「凌君、そこを動くなよ。俺とお前とで、宴席を盛り上げようぜ」
 凌統の目には、緩慢に己に歩み寄ってくる甘寧の姿が映っている。心臓がばくばくとけたたましく鳴り、まるで呼吸をすることを忘れたかのような息苦しさを凌統は覚えた。甘寧の目はまっすぐに凌統を睨みつけている。初夏の夜気も、酒の酔いも、凌統の体を暖めはしない。
 ――殺される。凌統は、寸分の違いなくそう思った。

「お待ちください! 甘将軍!」

 そこへ飛び込んできたのは呂蒙の声である。ドタドタと忙しない足音は彼の酔いと焦りのためであろうが、その手には剣と楯とを携えていた。
「甘将軍もお上手でしょうが、ここは主人である私の舞もご覧ください。何を隠そう、私の舞もなかなかのものですよ」
 凌統と甘寧の間に割り込んできた彼は、ぐいぐいと凌統を宴席の奥に押しやるように足摺りをする。まるで甘寧の前に立ちはだかるような様子で、凌統には呂蒙にも甘寧の気を荒げた様子が察せられたのだと気づいた。
「お客人に世話をかけるわけにまいりませんから。さあ、甘将軍はお坐りになって、私と凌盪寇どのの舞をご覧になっていてください」
「ふうん。だが凌君も一応お客人じゃないのか?」
 指し示す指にも人を射殺すような気が感じられて凌統は体を竦めるが、そこへ丁奉が駆け寄ってきたことで彼の不安は僅かに拭われた。
「もー! ほら、坐りましょうよ甘将軍。すぐ自分が自分がって言いたがるんだから」
 戟を持つ腕を気安く引いて促す丁奉に甘寧も眉を顰めたが、やがて小さく舌打ちをすると彼に従った。
 ほ、と己の後ろで息を吐いた凌統に気づいたのか、呂蒙は肩越しに振り返ると口許を小さく動かして、すまん、と言う。思わず首を振れば彼は苦笑を浮かべて、さあ、と黙り込んでいた宴席に向かって声をかけた。
「もう宴も酣です。この舞を仕舞いとしましょう! 皆さん、本日は本当にお疲れ様でございました」
 お疲れ様でしたあ、と一番に叫んだのは丁奉である。その爽やかな声音に確かに宴席の空気が和んだのを凌統は感じた。
 呂蒙が足を踏み鳴らして凌統の顔を見るのに合わせて、己も、とん、とん、と床を二度叩く。ピイ、と指笛が聞こえてそちらを振り返れば、やはり丁奉がおかしそうに笑っているのが見えた。
 凌統は気が楽になったような心地がして、あとは呂蒙の動きに己を任せるようにただ無心で舞うことに努めた。


 ◇


 宴が散会したあと、凌統は一人、呂蒙に呼び止められて彼の邸宅に残った。丁奉も呼ばれかけたが、彼は一度甘寧と共に彼の邸宅に行くことになったという。その用事を済ませたら必ず戻って来るから待っていて、と彼は念を押して先を行く甘寧の後ろに従った。
 なぜ丁奉が甘寧と共に行く必要があるのか、それが凌統の気にかかったが、何でもないよと笑われてしまえば己に言えることは何もなくなる。ただ、凌統は丁奉に己の傍にいてほしかった――甘寧の、ではなく。
 邸宅の外にいるのであろう甘寧の下に走って行く丁奉の後姿をずっと見つめていた凌統の腕を、呂蒙が強く引いた。驚いて振り返れば、彼はひどく心配そうに眉根を寄せて、具合はいいか、と問う。
「…………」
 頷く凌統に、ふう、とひとつ嘆息した呂蒙が頭を掻いて謝罪した。
「甘将軍の……ことを、見……くびっていたとは、言わないが……いや、こんな言い方は正しくないな……その……」
 呂蒙は気遣わしげに凌統に視線を向け、その手を引いて空になった宴席のひとつに坐らせると、己も隣に胡坐を掻いた。
「……彼は恐らく、あのままにしていたらお前を殺しただろうから」
 その言葉に凌統は首肯する。やはり呂蒙も、己と同じ危機感を察していたのだ。
 しばらくその場には沈黙が降りたが、呂蒙はそわそわと何か言いたげな様子であった。凌統が見つめると、口をモゴモゴと動かした彼は言いにくそうに、お前も、と口にした。
「彼を殺すつもりだっただろうか。だから……剣舞のことも」
「! 違います! 俺は決してそんなふうに……」
 呂蒙に思い違いをされてしまったことが悲しくて、凌統は彼の膝に触れて何度も否定の言葉を述べた。凌統の必死の様子に彼をたしなめた呂蒙も、相変わらず眉根を寄せて、だが甘将軍がそうは思うまい、と続ける。
 その言葉が凌統の中に強く響いて、そうしたいわけではなかったのに凌統の目から涙がこぼれた。
 流れ落ちてしまえばもはやとめどなく、焦って肩を抱き寄せる呂蒙の腕も、彼のかける言葉も何と言っているのかすらわからず、ただただ声にならない嗚咽だけが脳内に響いている。
「すまないが、こたびのことは殿に報告させてもらう。殿もずっとお前たちのことを気に掛けていたのだ。殿が……どういったご判断を下されるかは俺の知るところではないが……きっと、お前のことを思ってくださる」
 己の背を一所懸命にさすりながら呂蒙が言う、そのことだけが唯一凌統に理解できたことで、同時にあまりにつらい事実だった。
 己は一体何度、孫権に許されれば気が済むのだろう。

 ――呂蒙からの書簡を受け取った孫権は、ふとひとつ嘆息したきり、口許を手で覆ったまましばらく動かなかった。
 文面から察せられるのは“凌蕩寇に非はない”という呂蒙の意思のみである。それは孫権の願いでもあった。
 書簡には、じきに甘寧と凌統の軍勢が建業に帰還する旨と、道中は丁奉がいるので恐らく心配はないであろうこと、そしてどうかご寛大な処分をくださいますように、との一文が重ねて添えられてあり、呂蒙もまた彼らについて思い煩っている様子が見て取れる。孫権はそのことに少しだけおかしくなって、ふふ、と笑みをこぼした。
「……殿?」
「ん? ああ、すみません」
 張昭に呼ばれ、取り繕う孫権は次いで谷利を呼んだ。
「二人が戻ったら、お前は公績を呼んで……そうだな、詰め所へ連れて行ってくれるか。理由はなんでもいいから」
 己の言葉に眉根を寄せる谷利を見た孫権は苦笑し、剣舞が見たいとか、と付け加える。
「構いませんよね、張公?」
「……ええ、そうですな。戦果については既に伺っております。これ以上何か聞くこともありますまい」
 渋面でそう答える張昭もまた、甘寧と凌統の確執については頭を悩ませていた。彼としても心配事が減ることは喜ばしいと、そういう考えでいるのだろう。
 彼の様子を見た孫権は大きく頷き、それでよろしく頼む、と谷利に重ねて告げる。
「甘将軍が気にするご様子を見せたら?」
「見せないよ。彼だってこれまでずっと、互いに関わらないように努めていたのだから」
 今回のことは不運だった、とぽつりと孫権はこぼす。
「……私にも非がある。だが、見て見ぬふりをするわけにはいかない」
 そうして碧い瞳を己に向けられて、谷利は頷いた。
「明日の夕刻には戻られるだろう。利、公績を気遣ってやってくれ」
 わかりました、と答えて、一同は再び己の職務に戻った。

 結局、凌統は遥任として沛国相を兼任するため建業に留まり、甘寧は陸口に駐屯する魯粛の助勢として陽津県、下雉県の差配を任され、当地に赴くこととなる。
 これでいいのだろうか、という孫権の疑念には、誰も答えることができない。