建安二十年春三月の暮れ、曇天の下の閲軍楼に漫然と腰を下ろして、魯粛は頭を悩ませていた。
 劉備が益州に拠ったことを受けて孫権は彼に、魯粛が立ち退き一時的にその差配を譲渡していた南郡の支配権の返還を、敢えて彼の腹心である諸葛亮の実兄、諸葛瑾を使者に立てて要求したのであるが、劉備側の返事が芳しくないのである。
 曰く、涼州を併呑した暁には南郡をお返ししましょう、と。
 劉備がこのような発想をするだろうか、と魯粛は思う。確かに常に人から土地だの兵だのあらゆるものを借りて生き残ってきた彼だ、借用に対する後ろめたさが少しでもあれば、あそこまで豪胆な人物にはなれない。しかし魯粛はこのたび“信義”という言葉を用いて江陵の差配を彼に預けた。侠客らしい生き方をしてきた彼が、このことに何の感慨も覚えぬはずがないと魯粛は見ていたのである。
 ――あの可愛くない男かな。
 魯粛の脳裏に浮かんだのは、劉備の傍に立っていた考えの読めぬ青年である。孫権と歳がほど近いのに、随分と老獪に見えたものだ。諸葛瑾は公事に於いて私情を挟むような男ではないが、恐らく彼は彼の弟よりも“非常に優しい”。彼の弟、そしてその属する一団の持つ飢餓感には太刀打ちできない。

 はあ、と魯粛は嘆息した。飢餓感といえば、彼の隣人も特にひどい。関羽である。先の江陵攻めのときにはその武勇にただ感心したものだが、今こうして川を挟んで相対している彼から感じられるのは敵意のみである。
 苛烈なまでの佇まいは、劉備に“兵家必争の地”荊州をその一手に任された責任感と、自他共に認める己が強者であるという自信から来るものであろうか。よくよく考えてみれば、戦の前に敵将を褒めちぎりあまつさえ友人であるとまで呼ばわるような男だ。不遜極まりないというものである。

 ――呂子明の懸念が当たったな。
 魯粛は現在、かつて周瑜の所領であった諸県、そして陸口を含む新たに長沙郡より分けられた漢昌郡の太守として当地に詰めている。
 昨年の皖城での戦いを終えて任地に帰還する魯粛を呂蒙は引き留めた。何かと問えば、荊州にのさばっている関羽についてどのような対処をお考えか、と言う。
 魯粛は眉をひそめた。
「今はまだ我々の間には盟がある。関将軍は一端の武人とはいえ、劉玄徳の意向に逆らうような勝手をする男じゃない。そのときが来たら適当にするさ。お前さんはここいらの慰撫に励んでくれ」
「適当ではいけませぬ。魯横江どのは彼を見くびっておられる」
 あなたは武人ではないから、と呂蒙は言う。その通りだった。魯粛の本領は政事であり、軍規ならばいざ知らず、実際の軍事についてはそれを生業とする者たちほど明るくはない。
「益州から荊州まで伸びた戦線を、劉玄徳一人の判断で保ち得るわけがない。彼がいちいち両州を行ったり来たりしてその防衛に当たると言うなら話は別ですが、恐らくは荊州地域におけるある程度以上の軍権が関雲長に移譲されていると見て間違いないでしょう。なぜなら彼は劉玄徳の股肱、信頼に耐え得る猛将です。あらゆる事態に備えて計略は練っておかねばなりません。あなたはまだそのときいらっしゃらなかったからご存知ないでしょうが、かつて殿の御兄君、孫伯符様は敵に同盟を申し入れ油断を誘い、その所領に速攻を掛けて陥したのです。所領とは、ここ皖城のことです」
 魯粛は腕を組み、先を促すように彼に目線を送る。すると呂蒙も同じように胸の前で腕を組み、まずひとつ、と立てた指を魯粛の前に持ってきた。
「仰る通り、盟は重要です。表面上は友好的に、それは今まで以上に。あなたならできます。なぜならあなたは武人ではありませんから、彼もあなたに対してなら油断します」
「あー……」
 手のひらで顎をさすり、魯粛は中空に目を泳がせる。そういうことか、と腹の立つくらい納得のいく意見である。
「……だろうな」
「殿があなたに周公瑾どのの後継として西部方面を任せたのは慧眼でした。確かに我々が今取るべき道は間違いなく融和です。あなたにはそれができる。あなたには十分に関雲長の目を引いていただきます」
 いただきますって、と口の中でぼやいて、魯粛は呂蒙が立てた二本の指を見る。
「我々盧江郡はこれから、江夏、蘄春などの諸郡と連携し、西部方面の兵站に比重を置きます。兵糧、武具を前線の各県に送り、有事に備えさせます。無論、魯将軍の漢昌にも対応いたしますので、これをご承知おきください」
「それは構わない。だが、向こうに悟られやしないかね」
「そう、それが三つめです。揚州方面から荊州方面への街道整備を行い、道中に兵站拠点となる邑をいくつか設け、来たるべきときまでは前線に運搬せぬように、しかし有事にあっては拙速にて運用できるように徹底します。これについては殿にすぐにもご承諾いただけるよう上奏します」
 同時に、と呂蒙は四本目の指を立てた。
「水路の整備、水軍の強化、これも肝要です」
「ああ、それなら俺も考えていた」
 口を挟んだ魯粛に、呂蒙は神妙に頷いて彼の言を待った。
「ちょうど洞庭があるんでね、鄱陽にあるような水軍調練用の施設を造ってもいいかと我が君に打診したんだ。好きなようにしてくれていいと言われた」
「では、そのように。最後に武陵蛮を懐柔すること、これも特に重要ですが……」
 魯粛は頭を掻き、得手じゃないな、と呟く。
 荊州戦役の後、周瑜が南郡に駐屯するに当たって武陵郡に軍勢を置いていた黄蓋は、彼の故郷である零陵郡との境界で起こった当地の不服従民、王朝とそれに連なる者たちが“武陵蛮”と呼ぶ人々の討伐に当たった。結局、城邑に立てこもる彼らを攻囲して虜とするよりなく、揚州で山越に悩まされていた孫軍は必然的に荊州方面でも似たような問題を抱えることになってしまったのである。
「同じ漢の連中ならいざ知らず、異民族に関してはなあ……」
「あなたの軍勢も派手に着飾ってみてはどうです? 賀将軍のように」
 呂蒙の言いように、魯粛は大仰に嘆息する。
「あのなあ、あれは賀将軍とその麾下の連中のやり口だから似合うんであって、俺や公瑾どのの将兵たちには合わないんだよ。それに、俺たちが急に派手派手しくなったらそれこそ関将軍に警戒されるだろう」
 その様子を想像したのか、呂蒙は吹き出した。それもそうですね、と肩を震わせながらしばらく笑っていた彼は、ようやくそれが止むと、はあ、とひとつ息をついて魯粛を見る。
「武陵蛮についてはなるべく懐柔したいところ、と言うよりありませんな。先達て劉玄徳が当地を陥落させた際にその統制を試みたという話もありますので、十分に警戒を怠りませぬよう」
「ああ、わかった」
 了解の返答をした魯粛はじいっと呂蒙を見つめる。その視線を訝った彼が首をかしげると、魯粛はひとつため息をついた。
「悪かったな。お前さんをずっとばかにしていた」
「…………」
「もう蛮勇を振りかざすような男ではないんだな、呂子明将軍」
 ニヤリと口の端を上げたその笑みに、呂蒙も組んでいた腕を解くとその手を腰に当て、胸を張るようにした。
「士というものは別れて三日もすれば目まぐるしい成長を遂げるもの。次に会うときは刮目してお待ちいただかねば」
 得意げな呂蒙にぱちりと瞬いた魯粛は、そうだな、と今度は満面の笑みになる。その彼を見、呂蒙は互いの距離を詰めるよう一歩踏み出した。
「あなたもですよ、魯横江将軍」
「俺かい?」
「今あなたが率いているのは、亡き周公瑾どのの軍勢ではありません。あなたが殿から託された、あなたの軍勢です」
 借りものなどではありません、強い口調で呂蒙は言う。
 魯粛は、かつての彼の姿を思い出した。己の部隊を手放すまいと借金までして軍備を揃え、堂々と主人の前に立つことを望んだ若い将。あの頃の己は彼を心底侮蔑していた。
 だが、今の彼が口にするのは、己と目的を同じくするところから来るものだ。孫権のための戦いであり、孫権のつくる“国”のための戦いである。
「……そうだな」
 魯粛は、ほう、とひとつ息を吐く。
「それならちょっとくらい派手な飾りをつけてみてもいいかもな」
「あはは、ぜひ見てみたい」

 ――不意にどこかから魯粛を呼ばわる声があって、彼は顔を上げた。楼から身を乗り出して眼下を見れば、一人の衛士が孫権からの伝令を連れて来たと言う。顎をしゃくって登楼を促し、魯粛もまた身を翻して左軍である李悌に閲軍を委ねると彼を迎える支度を整えた。
 楼に登ってきた伝令は孫権からの密書を携えていた。それを神妙に受け取り、なるべく音を立てぬようそっと開く。
 内容は交州、南越地域の慰撫に目処が立ったということ、そして劉備の南郡返還拒否への孫軍側の返答について、さらに曹操の漢中征伐を交えて綴られている。
 重ねて南郡の返還を受諾されないのであれば、交換条件として他の荊州諸郡の差配を移譲されたし、さもなくば実力行使も已む無しである、と。
 これまで西部方面に於ける軍事行動はなるべく避けてきた魯粛である。彼が当地に駐屯してからは、劉備の軍勢の支配地域との境界で小規模な衝突が幾度かあっても事が起こると常に自身が出張って双方を口先で丸め込み、死傷者をほとんど出させず穏便に済ませることに努めていた。孫軍と劉軍との間に本格的な武力衝突が起これば盟は容易に瓦解する。それは中原の曹操に対し得る手段を失うことに他ならなかった。孫軍は未だ未成熟であり、種々の不安を取り除くまでは劉備、あるいは関羽という“楯”を失うことはできない。
 だが恐らく、この魯粛の目論見については劉備も察するところであろう。だからこそ大きな態度に出たのだ、依然として己の手の内に荊州を収めているという優位性が彼にそうさせた。
 ――しくじったな。魯粛は思わず舌打ちした。
 貸与している領地の返還条件を相手に出させてしまう、手痛い過誤を犯してしまった。
 思わず足をじたばたと踏み鳴らした魯粛に、伝令が恐る恐る後ずさる。慌てて彼を窘めた魯粛は、口許を手で覆って視線を巡らせた。
 恐らく武力衝突は避けられない。ならば、劉備が益州に拠り、曹操が漢中に遠征し、それぞれ当地の問題に掛かっている今このときに速攻をかけるのが――多くの困難な選択肢のなかで――最も容易い手段であろう。しかし、そのために魯粛が動くには、彼には軍事が心もとなさすぎた。
「君、我が君にすぐに連絡を取ってくれ。盧江にいる呂、西陵にいる甘、両将軍を俺のところに寄越してもらえないかと。あともう二、三ほど将と部隊を見繕っていただけると嬉しいんだが」
「は、かしこまりました。他にはございますか」
「…………んんー」
 事態をすぐに察した伝令に重ねて尋ねられ、魯粛は視線を上向け、すぐにぱっと彼を見て声をひそめた。
「もし、もし可能なら、我が君にも陸口の辺りまでお出でいただけないか、と」
「かしこまりました。では、すぐに」
 拱手し、翻って足早に去って行く彼の背に、頼んだ、と投げかけて、魯粛は一息ついた。
 次の一手が重要になる。重要でない手などないが、そのなかでも特に。
 自覚ならとうにしている。周瑜の遺書を読んだときから。ただ、長い間、いつか将軍府に見た暗い影のことを思っていた。
 ――遠からず、新しい国が来る。あの曇天を破る眩い光と共に。
 そして、光の射すところに影はいつでも共にあるのだと、魯粛はそのことをずっと思っていたのだ。


 ◇


 孫権の派遣した荊州南部三郡の統治に当たるための人員が関羽に追い払われて程なく、兵は拙速を尊ぶ、その言葉どおりに呂蒙らを始めとする軍勢が一月もせぬうちに陸口に集った。甘寧の率いる部隊は二日ほど遅れて、そして孫権の軍勢もまたじきに到着するが、その日程は定かでないという。
「……兄の体調が優れぬのです」
 軍勢に連なっていた孫皎が言うのに、魯粛はその肩を撫ぜて彼を宥めすかした。
 孫皎の兄、孫瑜は昨年の暮れから病に伏せることが多くなった。孫権も常々気にして牛渚に彼を幾度も見舞っているようだが、芯から体調の良いときはないのだと言う。
「それは心配だろうね。お前さんもあまり無理をするなよ」
「いえ! 私は我が君のお役に立つために来ましたから……でも、お気持ちは嬉しいです。ありがとうございます」
 彼の肩に置いていた手で軽く二度叩き、さあ、と魯粛は諸将を顧みた。
「状況は把握していると思うが、甘将軍が来る前にある程度詰めてしまおうか。そうだ、呂昭信どの、先達ての巴蜀遠征についても聞きたい。関雲長の陣営は見たかな」
「お待ちください、魯将軍」
 急いて話を進めようとする魯粛を呂蒙が遮る。首をかしげて己を見遣る彼に呂蒙は、ひとつお伝えしておきたい事柄がありまして、とのたまう。
「諸将、しばしよろしいでしょうか」
「ああ、構わんよ。どれ、皆様方。事態に備えて地形の確認でもしておこうか」
 快活に笑う呂岱に促され、その場に集った皆は頷いて演習台に向かう。呂蒙はさっと魯粛の腕を取ると政堂を出て回廊の隅に向かった。
「おいおい、なんだなんだ。皆に聞かれては困ることか?」
「呂昭信どのには行軍の途上でそれとなく伝えております。実は……甘将軍と孫征慮どのとが少し前に諍いを起こしておりまして」
「はあ!?」
 魯粛は思わず大声を上げた。シイ、と呂蒙に人差し指を立てて制され、ぐっと眉をひそめた彼は小声で、なんで、と問う。
「凌君とのごたごたの後かい」
 神妙に呂蒙は頷く。
「年始の酒の席で孫征慮どのは強か酔われたそうで、彼は公績と親しかったこともあって、甘将軍を侮蔑するような言葉を吐いたそうです」
「…………よく殺されなかったね」
「殿の縁者ですから。まあ、だからこそ甘将軍はまっすぐ殿に彼の非を上言したのです。それで殿は丁寧に訓戒の文を認められて……その」
 言い淀む彼に、魯粛は顎をついと上げて先を促す。呂蒙は嘆息し、頬に手を当てた。
「……巴蜀へ使者に向かう諸葛どのにお預けになったのです。諸葛どのはわざわざ夏口にお立ち寄りになって……殿からの訓戒をお伝えになったそうで」
「…………あっのなあ……」
 思わず魯粛は顔面を両手で覆い、長く長く息を吐いた。
「殿にも、子瑜どのにまで迷惑かけてるんじゃないぜ、おい」
「本当に申し訳有りません、私の監督不行き届きです」
 悄然とする呂蒙の肩を、ふっとひとつ息を吐いた魯粛が小突く。
「……いや、お前さんが悪いんじゃないよ……」
 そうして腕を組みしばらく俯いていた魯粛は、面をそのままに、まだ和解してないのかい、と問うた。
 呂蒙は大きく首を振る。
「いえ、殿と諸葛どのの訓戒のおかげで、一応のところは和解をしております」
「そうかい。だがこたびの戦に関する編制については俺はもう決めた。甘将軍は俺と同道、お前さんはその他の諸将をまとめて別働隊。呂盧江どの、異論はあるか? ないよな?」
「ありません、ありませんよ」
 彼はがっくりと肩を落とし、やおら拱手して魯粛を上目遣いに見る。魯粛は覚えず彼をぎろりと睨んでいた。
「お前さんが“そう”だったからと、余人にも“それ”を期待するのは見当違いだよ。ましてや甘将軍はお前さんよりよっぽど年嵩で経験豊富、凌君や孫征慮どのは経験はあるとは言えずいぶん年若い。俺とお前さんですらそうだ。人のつくりが違うのだ」
「…………返す言葉もありませぬ」
 沈痛な面持ちで俯く呂蒙の肩を叩き、魯粛はその横をすり抜けて政堂に足を向ける。呂蒙もそれに従った。
 堂内に戻ると、皆が演習台を挟んで向かい合い、荊州の地図を睨みながら議論をしている様子が目に入る。二人がそれに近寄ると、将の一人、鮮于丹が顔を上げて台上を示した。次いで呂岱が口を開く。
「こたび、我が君は関雲長と直接対決する腹積もりではまさかありませんでしょう?」
「ええ、違いましょうね。さすがに彼を今除くのは有効ではありませんし、そもそも江陵城は堅すぎて今の我々が打倒することはまずもって無謀というもの」
 演習台を覗き込めば、将らの動かした駒が散らばっている。
「殿からの通達では、荊州南部の諸郡を手懐けるのがよろしかろうと」
 呂蒙が言い、台上の長沙、桂陽、零陵の三郡と思しき地点に棒を立てる。ふむ、と呂岱は顎に拳を当て、台上の南方を指し示した。
「ここから更に南部の交州には現在、歩子山どのがおりますな。例えば彼と協働し攻囲する“ふり”をして敵を恐慌せしめ、なるべく戦闘を回避して帰順させられればそれが一番被害も少ない」
「では、帰順勧告を認めた文を廻しましょう。準備に取り掛かっても構いませぬか」
 呂蒙が手を組んで魯粛を伺う。早い方がいいな、と頷けば彼もまた首肯を返し、堂の隅を借りると言って一旦外に出て行った。
「あれ、どちらへ」
 首を傾げる孫皎に、陣営だろう、と魯粛は返す。
「文を認めるなら彼一人じゃできないからね。文字があまり得手でないそうだ」
「ああ、そうなんですか」
 得心して頷く孫皎に、じきに文字も上達するだろうさ、と笑いながら魯粛は付け加える。学問の熟達目覚ましい呂蒙のことだ、一度やる気になれば貫徹せねば気が済むまい、と彼は踏んでいる。
 魯粛は残った将らと同様に演習台を囲んだ。
「まだ甘将軍が到着しておられないが、取り急ぎ、俺と彼の軍勢とは陸口に来られる我が君と共に関雲長を牽制し、諸将には呂子明将軍と共に南部の制圧に向かってもらう方向で動いてほしい。なるべく戦闘が発生する事態は避けたいが、あとは皆の奮励努力に頼むしかない。よろしくお願いしますよ」
 諸将は頷き、その内の一人、孫規がおどけるように、関雲長と相対してみたかったなあ、と笑う。
「本当か? 孫将軍。お前さんもかつての江陵攻囲にいただろうに。俺は嫌だな。味方ならばいざ知らず、あの武勇と敵することだけは御免被りたい」
「それほどですか。俺も見てみたいです、関雲長を」
 孫皎が言うのに、魯粛はその肩を強かに二度叩いた。
「お前さんは若いし、我々の形ばかりの盟も今後どうなるかわからんからね、待っているといい。だがもしこの次、関雲長と我らが対するときがあるならば、それは恐らく我々が彼を殺すときだ」
 魯粛の言葉に皆が神妙に頷く。その様子を見、彼は口の端を上げてにんまりと微笑んだ。


 ◇


 数日の後に甘寧、そして孫権の軍勢が陸口に到着し、孫権はそのまま陸口へ駐屯、魯粛、甘寧は巴丘へ移動し関羽の動向を牽制するために当地に布陣した。
 各陣が整ったとの報告を受け、すぐさま呂蒙ら二万の兵を連れた諸部隊が陸口から南下し、荊州南部三郡の攻略に向かう。長沙、桂陽の二郡は一月とかからず陥落せしめたが、桂陽から零陵へ向かう道中、同郡が太守である郝普が抗戦の構えを見せ籠城する動きを見せたという報告が呂蒙の下に届けられた。

「厄介だな、あまり手間取りたくはないのだが」
 桂陽郡から北上し零陵郡へ抜ける間道の途中に宿営地を定めて陣を張った夕刻、本陣の幕舎に集った諸将は呂蒙が呟くのに一様に渋面になった。その隣にいた呂岱が腕を組んでぼやく。
「劉玄徳の領地で最も遠地にある郡県だからなあ。それなりの人物を置いたらしい」
 鮮于丹が、説得できませぬか、と尋ねると、二人はほとんど同時に唸った。将の一人、徐忠が苦笑しつつ言う。
「郝零陵は荊州の出身ですから、知人ならばどこかにはいそうですが。それが彼を説破し得るかはともかく」
「ん……?」
 ふと声を上げた呂蒙に諸将は一斉に目を向けた。どうしたんです、と孫皎が問うと、呂蒙もまた諸将を見返した。
「そういえば、先刻休息を取った耒陽で南陽人に会った。その者の言うところによるとこの近くの酃県に同郷の鄧どのと仰る賢人がいるらしい。呂昭信どの、郝零陵も南陽近辺の出でしたよね」
 そうだな、と呂岱が答えたとき、幕舎の外から声が掛かった。孫権からの急報を携えた伝令であるという。
 呂蒙が彼から書簡を受け取りそれを開くのを横目に孫皎は、戦闘になりますか、と誰にともなく問う。孫規が顎をさすりながらぼやいた。
「長沙、桂陽はさっさと落ちたからなあ。零陵も同様であれば気も楽なんだが」
「蛮どもの動きも気になる。ここまでなんの憂いなく来ておるが、山道で攻撃されることは避けたいな」
「なんだって!」
 諸将の会話に割って入るように呂蒙が大声を発した。皆がそちらを顧みれば、彼もまた顔を上げて皆を見返している。
 孫規が首をかしげた。
「どうしたんです?」
「……劉玄徳の軍勢が、公安に布陣したそうだ」
 その言葉に幕舎がざわめき、かがり火が揺らいだ。
 巴蜀の地に駐屯していたはずの劉備が、関羽からの報を受けて軍勢を取って返し、荊州に立ち戻ったのである。関羽はこれに合わせて益陽に布陣、この動向を受けた魯粛、甘寧の軍勢が一路当地へ陣を敷いたということだった。
「ばかな、益州を捨てて?」
「いや、成都は既に彼の掌中。政事を他者に任せ、己は軍事行動を取ったのだ……やはり荊州は斯様にも重大な地」
 零陵は落とさねばならない、と呂蒙は強く言った。
「ですが、関雲長に加えて劉玄徳の軍勢を相手取っては、いかに我が君の下に魯、甘両将軍が揃っているとはいえ分が悪いですよ」
 すぐさま軍を返し救援に当たるべきだとする諸将に、呂蒙はしばし思案してから首を振った。
「北へ戻るのは零陵を落としてからです。酃県の鄧どのを至急迎えに行かせます。数日中に零陵を解放し郝子太の身柄を得て後、昼夜兼行で北へ戻りましょう。ただし、呂昭信どのには桂陽へ向かってもらい、孫征慮どのには零陵に留まっていただくようお願いします。蛮の動きに備えてください」
「わかりました。……呂将軍、書簡にはそれだけですか?」
 諸将が頷くなか、尋ねた孫皎を呂蒙は目を丸くして見返した。彼の反応に孫皎はたじろぐ。
「えっ? あ、だって、急報と言うから……劉玄徳が公安に布陣しただけかなって」
「……そうだが」
「そうですか。いや、それならいいんです! 早く零陵を取っちゃいましょう」
 鄧どのに使いを立てねば、と不自然な爽やかさで彼は言うと、策を通達するため彼自身の陣営に一度戻った。その背を見届けてから呂蒙は、身内がらみのことを不安視したのだろうか、と思い至る。その心痛はわからないではなかったが――確かに呂蒙は、書簡の内容を一部諸将には伝えなかった。それで、孫皎の言に動揺したのである。
 ――零陵を棄て、至急軍勢をまとめて益陽の魯横江を救援されたし。
 孫権からの書簡にはそう続いていた。呂蒙はそれを“自身の判断で”伏せた。確かに今零陵攻囲を諦めて北へ戻れば、武装した零陵の軍勢や周辺の山間の不服従民たちに挟撃されかねない危険性も孕む。またこの機を逃せば次にいつ零陵郡に手が掛けられるかも判然としない。
 何より、呂蒙自身が零陵を落としたかった。この地を落とした功績がほしかったのである。

 戌の正刻を過ぎた頃、南陽出身の賢人、鄧玄之が孫軍の将らが集まる幕舎に従僕を伴って現れた。話を聞けば、郝普は彼の若年の頃よりの馴染みであるという。まさに天祐です、と言う呂蒙に、鄧玄之はどこか鬱陶しそうな目線を向けた。
「私の戦嫌いで南へ転居してからはあまり顔を合わせておりませんでしたが、彼が劉玄徳に仕えるという手紙はもらっていました。あなた方が来なければ近々顔を見に行こうと思ってもいたのに……私が行かなければ、あなた方は彼を殺しますか?」
 涼やかな目つきの彼にそう問われた呂蒙は、抗戦を続けるのであればそれも已む無しと判断すると答える。鄧玄之は長い溜息をついた。
「それは困りますから、協力いたします。ただしひとつだけ条件が。彼を降伏させても、彼を劉玄徳の下から連れて行かないでください。子太は私よりほんの少しだけ年若くほんの少しだけばかな男ですが、忠義のなんたるかは重々承知しております。そして例え劉玄徳がそれを拒んでも、私のところに来ればよいと彼に教えて」
「必ず約束します。なるほど忠義とは立派なことですね。ですが郝零陵どのには残念なことですが、関雲長は南部の救援を図ったものの北で我が軍に破られました。私が殿より受け取った書簡にそのようにありましたので間違いないでしょう」
 呂蒙が差し出した書簡を見た諸将は互いに目配せしたが、訝るように書簡を見つめていた鄧玄之はそれに気づかなかった。
「この上、彼が兵卒をまとめ上げて抗戦し、来るはずのない援軍を待つと仰るのであればそれでも構いませぬが、それはさながら牛蹄の後にできた水たまりに棲む魚が長江の流れを恃むようなもの。ご覧のように我が軍は精強な将士が揃っております。戦慣れしていない郝零陵どのの楯を破り、その兵卒を容易く屠ってしまうでしょう。そして鄧どの、あなたはそれを望んでいらっしゃらない、そのありのままをどうか郝零陵どのにお伝えください」
「敵の喉元に刃を突きつけながら、あたかも聖人のように教えを説くのが武人なのですね。わかりました、そのように」
 歯に衣着せぬ物言いに呂蒙は苦笑するよりない。
 鄧玄之が従僕と共に宛がわれた幕舎へ向かう様を見つめながら、呂蒙の隣にいた孫規がうんざりしたような口調で言った。
「なんだか嫌な感じの人でしたね。郝零陵もあんな感じなんでしょうか? だから文人は嫌いなんだ」
「まあ、向こうも武人を嫌っているでしょうし、いつものことですよ。あなたも彼らに嘗められないように本を読むといい」
「呂将軍、それ前にも言いましたよね」
 肩を竦める孫規に呂蒙は口の端を上げて笑い、北へ向かう支度を滞りなく、と添える。
「ところで先ほど、鄧どのに虚言を」
 彼らのやり取りを見ていた鮮于丹がそう口にしたところで、呂蒙は人差し指を己の口許に持っていった。おっと、とそれに倣い口許を手のひらで覆い隠す鮮于丹に呂蒙はひとつ首肯して、一堂に解散を伝えた。

 翌日、辰の刻までに零陵の包囲を完了した呂蒙は鄧玄之を勧告の使者に立てると、自身はそれぞれ四人の将に百名ずつ与えた部隊を組織し、郝普が城外に出てきたところを見計らって速やかに城内に進入するよう言いつけて門の外に待たせた。果たして鄧玄之の勧告に従い、いや予想以上に早く郝普が武装解除し投降したのを見て、呂蒙は彼を迎え入れると喜びのあまり手を叩いて破顔一笑してしまった。信じられないような表情で己を見つめる鄧玄之と郝普の前に片膝をつくと、不思議そうに首をかしげる諸将の視線を背に受けながら呂蒙は神妙に、昨晩、鄧玄之にもその上っ面を見せた孫権からの書簡の中身を開いて見せる。
「……れ……零陵攻略を、中止し、疾く北へ戻り魯横江将軍の助勢に、移る、よう……、……!!」
「すぐに出てきていただけて本当によかった。あなたの身柄は丁重にもてなし、すぐに劉玄徳の麾下に戻せるよう手配いたします。さあ、早く車に乗って。鄧どのも」
 立ち上がり促す呂蒙を、地に伏して言葉もない郝普の傍に寄り添った鄧玄之が今にも掴み掛からんばかりの形相で睨みつける。
「忌々しい武人め! 人を謀って何が可笑しい」
 その憎悪にも、呂蒙はにこりと笑みを返した。
「あなた方はそんなだから、私如きの浅知恵に破れるのだ」


 ◇


 零陵、桂陽両郡の守りをそれぞれ孫皎、呂岱に預けた呂蒙らは昼夜兼行で北へ立ち戻り、十日とかからず魯粛、そして関羽が相対する益陽の地へ到った。
 未だ戦端は開かれていないようだと一息ついた彼は魯粛がいるであろう幕舎を訪ねる。中に入れば魯粛の他に甘寧もいて、入ってきた呂蒙を同時に顧りみた。
「呂盧江、ただいま到着しました。遅参お詫びいたします」
「構わんよ。零陵は結局諦めたのかい?」
 魯粛の言に首を振り、使者を立てて降伏させたと呂蒙が言うと、彼は目を細めて口の端を上げた。
「ふん、そんなことだろうと思った」
「……こちらの状況は?」
「昨晩、関将軍が渡河を試みたが、こっちも甘将軍を送って対峙させたんでね、対岸に留まらせることができた。それで、俺はこれから関将軍と会見の席を持とうと思う。既に我が君に報告は入れてあるし、関将軍にも文を送った」
 その言葉に呂蒙は目を剥いた。甘寧を見ると彼は肩を竦め、ニヤニヤと笑みを浮かべて黙っている。
「まさか、まだ盟などと仰られるのですか。既に劉玄徳が公安に布陣し、我々の敵対は決定的です。今ここで彼らを討ち果たさねば、荊州はもはや我々の手には落ちませぬ!」
 怒鳴るような呂蒙の声に対する魯粛の目線は冷ややかだ。彼は呂蒙が言葉を切ったのを見て、決定的だなんて安易に言うなよ、と咎める。
「お前は肝心なことを忘れている。曹孟徳は今どこにいる?」
「…………」
 息を飲んだ呂蒙に変わって甘寧が、漢中征伐、と答える。魯粛は頷いた。
「それだのに劉玄徳はこっちにいる。彼が自力で得た益州は、例えどんなに政事に優れた官僚をかの地に残しても劉玄徳がいなければ保ち得ないほど脆弱な地だ。曹孟徳には劉玄徳じゃなけりゃ敵わないんだ」
 そこを説く、と魯粛は言う。
「今に曹孟徳は漢中の張公琪を下し当地を掌中に収めるだろう。そんなとき、小競り合いを続ける荊州、がら空きの揚州を見たらなんとするかな?」
 口を引き結んだ呂蒙の前に魯粛は歩み出、ぐっと顔を近づけて囁くような言葉を発した。
「互いに兵を百里引くと約定させるが、俺に何かあったら総員で攻勢をかけろ。だが俺が何事もなく五体満足で帰って来たら、いいか、お前のその殺意は“時が満ちるまで”二度と表に出すんじゃないぜ」
 鋭く己を見つめる魯粛に、呂蒙は渋面になって頷く。それを受けて彼は呂蒙から離れ、にこりと笑った。
「ま、互いに丸腰の会見を要求したからな。さすがの関将軍も俺を殺すのは手間取るだろうさ。そのときは急いでくれよ」
「ははは、せいぜい逃げ回ってくださいよ」
「…………」
 一斉に哄笑する二人を見つめながら、呂蒙は心底ばつの悪そうな表情をしていた。