結局、関羽は魯粛側から提示された条件の一部に難色を示し、彼らは互いに護身用の剣を一振りと、二名の護衛を伴って会見に臨むこととなった。誠意を見せる、と言って諌める周囲の声も聞かず魯粛は軽装で自ら渡河し、先達て関羽が対岸に築いた陣に入る。北西を積乱雲が侵す青天の下、既に兵馬は遥か先まで下げられたようで、物音が一切しない死んだ陣のように魯粛には思えた。
「李君、鮑君、そう気張るんじゃない。もう誰もいないよ」
「わかりませんよ」
 後背の鮑楷が渋面で答えるのに苦笑を返した魯粛は、目線を戻すと前方に三人の男が立っているのを見た。
 中央に立つのが関羽だ。派手さはないが荘厳さを感じさせる鎧をまとう堂々たる巨躯から少しの気配を発することもなく、じいっと歩み寄ってくる魯粛たちを見つめている。
 その表情がはっきりとわかるまで近づいたところで、おや、と覚えず魯粛は僅かに口を尖らせた。かの男は、魯粛が思い描いていたような顔つきをしていなかった。
 その怪訝な態度を悟られぬよう、魯粛は我先にと口を開く。
「やあ、お久しぶりです、関将軍。こたびは会見に応じてくれてありがとう」
「魯将軍こそ壮健そうで何より。こちらの条件を呑んでいただき感謝します」
 関羽は実に穏やかな笑みを浮かべている。まるで古い友人に会うかのような温もりさえ伝わってくる。長江の流れで互いに隔てられていたときに感じていた威圧感からは想像もできないほど静かだ。今の関羽には、敵意がなかった。
 だが、彼の両脇に立つ左右については別である。魯粛がさっと彼らに目線を向けたのを見た関羽は、柔和な表情そのままに彼らを一歩前へ促した。
「ずいぶんお若い方々ですな」
「ええ。私の息子たちです」
 魯粛は瞠目した。向かって右側に立つ背の高い青年は関平、字を泰和、そして左側に立つまだ幼い顔立ちの少年は関興、字を安国といった。関興のほうはつい昨年字を与えたばかりだという。
 関平は父のその話を聞きながらずっと魯粛を睨みつけていた。その表情に苦笑した魯粛は、李悌と鮑楷を彼らに紹介しながら――とはいえ李悌はいつぞやの夏口で関羽とは面識があったが――関平に声をかける。
「君のお父上は実に立派なよい将だね。利ありと見るやかつての敵ともこうして友好的に接してくれる。今回の席も彼の慧眼のあってこそだ」
「……そうですね」
 顰めた表情をそのままに答えた関平を関羽は目線で咎め、すぐに微笑を浮かべて魯粛らを会見の席へと促した。
 席はおそらく、関羽が陣を敷いた際に本陣としていたであろうと思われる最も大きな幕舎にあった。李悌と鮑楷は魯粛を前後で挟みながら先導されるまま中に入る。既に向かい合った床几が設えられてあり、関羽は、粗末ですまない、と詫びた。魯粛は、咄嗟のことだから、と返す。
 二人が腰掛け、それぞれの左右らはその後背に並ぶ。魯粛はすぐに口を開いた。
「ひとつ聞きたい。俺たちの軍事行動を受けてお前さんが主人たる劉玄徳に報告するであろうことはこちらにもわかっていた。ただお前さんは、いや、お前さんも劉玄徳がまさかほぼ全軍を率いて荊州に戻ってくるとは思わなかった。違うかい?」
 関羽はその問いにふと目線を落とし、ゆっくりと二度瞬いてから魯粛を見る。
「仰る通り。この石頭でも荊州の重要性はよくよく承知しておりましたから、我が義兄の承諾なしにあなた方が力尽くで来るというなら戦ってこの地を守り通さねばとは思っておりました」
「……言いたいことはあるが、まあ、いい。続けてくれ」
 額を掻きながら促す魯粛に、関羽は首肯する。
「当然、助勢を要請しました。ただ、それほど多くなくて良い、と添えて。我が義兄が取り掛かる漢中併呑の事業もまた等しく重要なもの。永安、或いは江州に駐屯する軍勢の一部で構わないからと書簡を出したのです」
「ま、その規模がどんなもんかは知らないが、その程度で俺たちを撃退できるとお前さんは踏んだんだな」
「ええ」
 飾り気のない関羽の言葉に魯粛は虚を突かれていよいよ笑うしかない。きっと彼は魯粛ら孫軍を侮っているのではなく、心底から己の知勇に自信があり、いかなる敵にも打倒されない強靭さを持ち合わせているのだろうと思われた。
「ですが……」
 関羽は言い淀み、しばらくじっと一点を見つめたまま動かない。少しして、ようやく彼は口を開いた。
「義兄自身と彼がその大軍を率いて来たことで、私は己が何か思い違いをしているのでは、と考えました」
 彼の言葉に魯粛は目を眇める。
「……それというのは?」
「……私が私を信用しているのと同じようには、義兄は私を信用していないのではないか、と」
 ほう、と魯粛はこっそり息をついた。
 揺らいでいるのか、彼らが。いかにも磐石な信頼関係と、侠の心で結びついているはずの者たちが。
 悄然としている関羽に、魯粛はわずかに身を乗り出した。
「……あり得ないと思うがね。俺が思うに、むしろ彼にお前さんほどの自信がないんじゃないか。お前さんたちはずいぶんと荊州の人心を懐柔し慰撫することに心を尽くしたはずだ。荊州の才知がほとんどお前さんたちのところに行ってしまったことからもそれは察せられる。ただ、それでも劉玄徳に自信がない。だから、お前さんが言うところの惰弱な俺たちにも“ひょっとしたら”領地を奪い取られるんじゃないかって疑ってかかる。そうして、有り余る力で敵を破壊しようとした」
「魯将軍、我らが主公を侮辱することは許しませぬぞ」
 関羽の斜め後ろに立っている関平が声を張るが、彼の父はさっと片手を上げてそれを制し、そうではない、と魯粛を庇うようなことを言う。
「血気盛んなご子息だ」
 肩を竦め小首をかしげた魯粛は、どうかな俺の推論、とおどけるように関羽に問うた。この場にそぐわぬようなその態度を見た関羽の顔に、ようやく困ったような笑みが浮かぶ。
「なぜ私はあなたに慰められているのでしょうな」
「そうだよ。なんでお前さんは敵将に悩みを打ち明けたりするんだい」
 和やかな空気が二人の間に流れる――魯粛には、その理由が明確に察せられた。関羽は結局、魯粛ら孫軍を“大した敵”とは見なしていない。その大いなる余裕が、彼を気弱な一人の男にした。
 ――本当ならそれが付け入る隙のはずなんだがな。
 それでも魯粛には、今の孫軍には関羽を打ち破る力が不足しているように思われて、小さく息を飲んだ。
「さあ、友人同士の話はこれでおしまい」
 場の空気を変えるように、魯粛は景気良く彼の膝をぱしんと叩く。さっと顔を上げた関羽は、すぐに大将の顔になった。
 魯粛は口の端を舐めた。関羽の発する威圧感が、彼の全身を強かに打つ。
 ――あなたは武人じゃないから。
 呂蒙の言葉が思い起こされて、そうだよ、と魯粛は脳内で彼に言葉を返した。
 だが、誰も関羽の存在を知らぬ存ぜぬではいられない。この当代随一の武人を相手に、武人にはできないことをするのが魯粛の仕事だ。

「関盪寇どの、以前俺は江陵から兵を退く際、劉荊州どのに“あなたの信義を恃んでこの地を預ける”と言った。劉荊州どのはこれに“わかった”と答えた。そうして劉荊州どのは我々の代わりに江陵を預かっていてくれた」
 魯粛は一言一言、腹の底から声を発した。両足を地面に押しつけ、鳩尾に力を込めねば体じゅうに震えが走ってしまいそうだ。
 目の前の恐ろしい男が刀を一振り携えて、己の一言も逃すまいとじっと睨みつけている。
「ええ、そうですな」
「その劉荊州どのは、あなたに江陵を預けて自分はさっさと益州に行ってしまった。我々にお返しするとのたった一言もなしにね。だが預け先がないならもう我々はこの地を返してもらわなきゃならない。劉荊州どのが信義を反故にするというなら」
 関羽はぎろりと魯粛を見た。
「主公は約定を反故にはしておりませぬ。涼州を取った暁にお返しすると答えたはずだ」
「そうだな。夢見がちな答えだった」
 関羽の息子たちが一歩前へ踏み出そうとするのに、魯粛はさっと腕を伸ばしてその手のひらを向けた。
「俺が喋ってる。さて、関盪寇どのはその具体的な方策を聞いているかな? どのようにして劉荊州どのは涼州を獲得するんだ? その手腕を俺にも聞かせてくれ、きっと目の覚めるような素晴らしい策なんだろう」
「私は把握してござらん」
「そうかい。じゃあ公安にいる彼に聞いてくれ。そこからどうやって涼州に向かう? 曹孟徳が漢中を制するほうがよっぽど早いだろうな」
「無礼ですぞ、魯横江将軍!」
 関平が怒鳴るように言い、彼の弟がおろおろと困ったように父と兄、そして対する魯粛とを交互に見る。
 魯粛はこれ見よがしに長く嘆息し、両手を顔の前に挙げて気を荒げる関平を制するようにした。関羽はじいっと黙ったままだった。
「すまないな、俺は少々性格と底意地が悪いんだ。ちょっと意地悪な言い方だったな。だがね、我々も得心できないなりに代替案を提示してやっただろう? 劉荊州どのが涼州を獲得して江陵を我々に返すまで、その所領の端っこの差配を抵当に入れると。当然だよな? 我々が貸すばかりじゃ割に合わない。質を欲してどうして悪い?」
「だがあなた方は、我々の主公の返事を待たずに役人を送ってきた。主公の許可なくそれを容認することはできぬ」
「許可より先に軍勢が来たな。その回答はいつ来るんだよ?」
 上半身を仰け反らせた魯粛はわざと呆れたような声を上げた。
「返書の到着まで江陵に留まらせるくらいの思いやりもないのに、この上貸したものも返してもらえないんじゃ強硬手段に出たくもなるぜ。挙げ句大した労苦もなく三郡は陥落、山間でちょっとした小競り合いはあったみたいだがそれもうちの将らが難なく鎮圧させた。三郡ですらよっぽど割に合わないのにこの程度で甘んじてやるんだから礼のひとつもあっていいくらいだろう?」
 関羽が目を剥き、関平の開いた口が塞がらない様子を見た魯粛は、彼自身の左右の不安を的中させるようにニヤリと笑う。
「あれもこれも自分のものだなんて、国事は児戯じゃないんだぜ」
「魯横江将軍!!!」
 ついに関平が剣の柄に手を掛けて一歩前に出た。李悌と鮑楷が慌てて応じようとするのを魯粛は両手で制し、彼を睨みつける。
「荊州が、江陵があなた方の掌中にない理由は、もはや今のあなたの言動から明らかです。土地とは徳のある者の所有するもの。貸し借りがあるからと無理に賢者から引き剥がすような愚劣な行為に人心はなびきませぬ! それがすべてです!」
「徳だと!」
 魯粛は声を張り上げた。
「そのような不誠実で不確かなもので土地や民を御そうなどというほうが愚かな行為だということがわからないか! 預かりものを放置してさっさと益州に入っておきながら信義を反故にして、我々が牙を剥けば慌てて山から下りてくるような男の何が徳治家だ!」
 どん、と魯粛の拳が地面を打つ。李悌と鮑楷は、恐れをなしたような表情で魯粛を見た。
「土地が徳のある者につくんじゃない、徳のある者が土地を愛して慈しむのだ。人民の立ち居振る舞いとはすべて彼ら自身の安寧のためにある。それすらわからず人の上に立つ驕りが為政者の、お前さんの目を曇らせるんだ。だが今に……わかる……」

 ――ああしまった。
 魯粛は内心で舌打ちをした。
 眼前で剣を携えおもむろに立ち上がった関羽を目にして、言葉がすぼんでしまったのだ。
 ――彼らの前では決して隙を見せないつもりだったのに!
 後背の李悌と鮑楷には己に何かあった場合にはすぐにこの場を立ち去り呂蒙に急報を入れるよう言い含めてはあったが、実際に関羽の放つ圧迫感を体感してしまえばそれも叶わぬかもしれない。彼らの勇気を祈りながら、魯粛は眉根を寄せ目を吊り上げる関羽を見上げた――だから武人は嫌いなんだ。

「平」

 しかし、関羽はその重厚な声で彼の息子の名を呼んだ。
 呼ばれた長子ははっとしたように彼の父のこめかみを見る。関羽は、振り返らぬまま再びその名を呼び、続けた。
「下がりなさい」
「! で、ですが父上……」
「二度言わねばわからぬか」
 厳しい口調に関平は唇を噛む。しかし一歩前に出した足を下げる様子は見られない。魯粛は関羽の鬼気迫る表情を見上げたまま、ごくりと唾を飲み込んだ。
「平、下がれ!」
 ついに、関平は後ずさった。ざり、と地面が擦れる音に、関羽はほんの僅かだけ口許を和らげる。
「今、私とこの魯横江将軍とは、互いの主人の名代として国家間の問題について話をしている。これはそもそもお前のような若造が口を挟んでよい議論ではないのだ」
 そこでようやく関羽は彼の息子に顔を向けた。
「それすらわからぬお前を連れてきたのが間違いだった」
「…………!」
 関平はいよいよ慚愧の念に堪えず顔を俯けて、絞り出すような声で、申し訳ありませんでした、と口にした。
 ふう、と嘆息した関羽は一転、平坦な感情を浮かべた目つきで魯粛を見下ろす。魯粛の視界はすっかり彼の巨躯に覆われていて、関平の様子は彼の謝罪の声から察することしかできない。
「平、お前は公安の我が主人の下へ赴き、関羽から孫軍との講和を進めるようお願いすると伝えろ」
「!」
 魯粛は思わず立ち上がる。それは、と問おうとした彼に、関羽はひとつ首肯した。
「これ以上、我らが会見を続けることも、両軍が交戦を続けることも無意味。互いの主君が折衷案を模索することのほうがよほど有意義でしょう……曹孟徳の様子も気になります」
 そう言って関羽はすいと面を上げ、北の空へ目線を遣る。魯粛もそれに倣った。
「あなたの言はすべて我が主人に伝えます。この場であなたを斬ることは容易いが、それではあなたの思うつぼだ。そして私の愚鈍な頭には……反論がひとつも浮かばない」
 彼は、そうして苦笑した。魯粛もまたそれに答えて笑う。
「どうかな、お前さんが剣を抜いた時点で俺たち三人はすぐ逃げ出すよう算段をしてる。お前さんの鎧、すごく重そうだ。しかも俺たちはこんなに軽装、逃げ足も速い。そう簡単には斬られてやらないぜ」
「ははは、そうですか。それはいい」
 幕舎に高らかな関羽の哄笑が響き、彼は目許ににこりと弧を描いて魯粛を見遣った。
「あなたがそうしている限りは、我々はきっと良い関係であり得るでしょう」
 それはいつか、魯粛から関羽へ向けた言葉に似ていて、彼はふと笑んでみせる。
「そう願いたいね」
 返した言葉は心底から発せられたものだった。


 ◇


 会見についての報告と、近く劉備側から講和の使者が来るであろうということを魯粛が伝えると、孫権はほっとしたように微笑んで、そうか、と答えた。
「お疲れ様でした、魯子敬どの。ではその使者がこちらに到着するまでは、ゆっくりお休みになってください」
 肩に置かれた手のひらのあたたかさに、魯粛は長く息を吐いた。
「大変だったようですね。お察しします」
「大変なんてものでは……彼が剣を持って立ち上がったときは一貫の終わりかと」
「本当に無事でよかった」
 魯粛の言におかしそうに笑う孫権は、すぐに笑みを引っ込めて魯粛にだけ聞こえるように囁いた。
「やはり我々には御しきれぬ男のようだ」
「…………ええ。巨大な壁です」
「でもいつかは必ず破壊します。自壊するほうが先でしょうか?」
 孫権の問いに、魯粛は小首をかしげる。
「さて、判断は難しい。何せあの手の豪傑は放っときゃ八十路の坂も矍鑠と登っていきそうですよ」
「ははは、それは厄介ですね」
 そうして彼は魯粛の肩を二度叩き、その手を取ってゆっくりと立ち上がらせた。
「ありがとう、魯子敬どの」
 彼の言葉に、魯粛は首を振る。
「こんなくらい、なんでもありませんよ」
「先程の弱音は?」
「社交辞令です!」
 応えて笑う孫権の小気味良い声に魯粛もまた口許をほころばせて、ほっと小さく息を吐いた。そうしてすぐに眉を寄せ、厳しい表情を作ってみせる。
「我が君、次の講和会見では決して劉玄徳側の条件を吟味してはなりません。恐らく劉玄徳側が江陵を返すことはないでしょう。であれば残る荊州諸郡の少なくとも半数近くを我々の支配下に置くこと。これは譲ってはなりませぬ」
 孫権は首肯を返す。
「すべて、とはどうしたって言えないでしょうね。江夏はともかく、地形的に見て長沙、桂陽……いや、ないだけましか」
「ええ」
 魯粛はぐっと孫権に近づき、そっと囁いた。
「必ず、時は来ます。そのときまではどうか堪えてください」
 その真剣さに孫権はやはり笑みを返した。
「あなたがそう仰るなら。今はどうしたって雌伏の時なのでしょう」

 ――そうして、孫権と劉備による両軍の講和は成り、荊州は彼らによって割譲されることとなった。洞庭湖に南から流入する湘水を境に、西の武陵、零陵を劉備が、東の長沙、桂陽を孫権が領有する。
 土壇場で呂蒙の落とした零陵は、結局劉備の手に戻ってしまった。それを魯粛が指摘すれば彼はほんの僅か迷惑そうに、しかし親しげに眉を顰めてみせる。
 己の策略でも敵を陥れることができるとわかっただけでもいいのだ、と彼は言った。魯粛は彼のその晴れやかな表情に、来たるべき時に軍を率いるのは恐らくこの男なのだろう、と不確かな考えを抱いたが、同時にそれを生涯口にはすまいと心に決めた。


 ◇


 孫軍と劉軍による荊州割譲問題が講和により一応の決着を見たことで、孫軍が相対するべき敵は当面北の曹軍に絞られることとなった。
 皖城を落とし当地の差配を呂蒙に任せていることもあり、江夏郡や呉郡に詰める諸将らと協働して江北地域を攻撃し、揚州全域を孫軍の支配下に置くことで、江東の守りはさらに磐石なものとなる。何より孫権が現在拠点を置く建業は、曹操の守護する地域とはあまりに近すぎた。長江という天然の要害があるとはいえ、なんらかの手段で突破されないとも限らない。曹軍の本隊が現在漢中に進軍中であり、長江北部の合肥県周辺に駐屯する曹軍の数が一万に満たないことを用間で知った孫権は、荊州東部の差配を魯粛に任せ、残る呂蒙、甘寧ら諸将を率いて陸口より反転し、長江北部へ進軍した。

「凌将軍、徐将軍、韓将軍、宋将軍……珍しい、陳将軍に蒋将軍、賀将軍まで動かしますか」
「山越のほうは伯言に任せておいて問題はないでしょう。曹孟徳が中原にいない今が好機だ。なんとしても落としておきたい」
 夜半、宿営地の孫権の幕舎に集まった諸将は、合肥県の攻略について話し合った。
 当地には守備隊として楽進、張遼、李典の三人の将、そして護軍として薛悌が詰めている。寡兵を補って余りある、いずれも良将として知られた者たちだった。――だからこそ孫権は大規模に軍勢を動かそうとしているのである。
「利よ、お前が以前会った武護軍とは、恐らく武伯南であろう」
 孫権は、彼の斜め後ろに控える谷利に声をかけた。覚えていたのか、とぱちりと瞬く谷利に彼はその手に持った書簡を見せる。
 武伯南は名を周といい、彼もまた優秀な功績を収めた者である。続きには、武周は張遼の護軍を務めており、とあった。
 ――では、あれは張文遠か。
 上等な鎧をまとい、羽織を悠然と風になびかせる将。谷利は彼の佇まい、その発する声音を思い出すと今でも身震いする。“一体どのような生き方をすれば”、人はあのような男になるのだろう。青天の下に我が物顔で居坐っていたあの黒い点のことを考えると、谷利は心底から恐怖が湧き上がってくるような気さえした。
「合肥城に着いたら四方を包囲します。だが、あまり時間は掛けたくない……曹孟徳が取って返してくる可能性も考えねばなりませんし」
「北西の宗賊どもがどれだけ粘れるかなあ」
 甘寧の言に、どうして賊を応援しているんですか、などと呂蒙は横槍を入れるが、孫権は笑って彼に同意を示した。
「我々だって曹孟徳から見れば賊でしょう。けれど我々は我々のことを軍だと思っている」
 なりたいものになるだけです、そう言って孫権は手に持った書簡を巻き戻し、左異に渡して腕を組んだ。
「ともかく今日は散会しましょう。立て続けの行軍を強いてしまって申し訳ない。ゆっくり休んでください」
「構いません。でも、ありがとうございます」
 呂蒙は拱手して幕舎を去る。甘寧は彼の背を見送り、それから孫権の傍に寄ってきた。
「呂将軍と俺はいつだって戦いたいのですから、気兼ねなさらず。あなた様のどんな無茶も聞きますよ」
 そうして孫権の返答を待つことなく、甘寧もまた幕舎を後にした。
 閉じた入り口の幕をしばらく見つめていた孫権だったが、やがて頭を掻くと親近監らに向き直り、困ったように笑った。


 ◇


 建安二十年、夏八月。
 孫権は軍勢を率い、巣湖の北に流入する淝水の北岸に位置する合肥城へと進軍した。
 かつて――まだ亡兄も、その亡き友人も少年の時分であった幼い頃、遊覧に訪れたかの美しい湖を東に見ながら、彼らは一路北を目指す。
「巣湖だ、利よ」
 彼は、斜め後ろの谷利に声をかけた。
「かつて兄と、公瑾どのと共に、公瑾どのの叔父上に連れてきてもらったことがある」
「この湖へですか」
 物珍しそうに湖を眺めている谷利や親近監らを少しだけ振り返り、孫権は口許に笑みを浮かべた。
「この地を“取り戻したら”、今度はお前たちと遊びに来よう」
「……お供いたします」
 答えた谷利に頷いて、孫権はふと彼の顔をじいっと見つめた。いつの間にかずいぶんと長い間、己と共にある彼のことを思う。
 そして若かりし頃愛し慈しんだ者たちが、今は誰一人として己の傍にはいないことも。
 ――分かち合う相手もいない思い出のために、感傷に浸るつもりはないのだ。
 孫権は口の中で呟いて、不思議そうに首をかしげる谷利に曖昧に笑い返しまた前を向いた。

 明朝、孫軍の目に天を覆う朝焼けを背にした合肥城邑が映ると、諸将はそれぞれ麾下の軍勢を率いて攻囲のために展開を始めた。孫権の周囲には牙門隊の他、陳武、徐盛の率いる精鋭部隊が控え、後背には賀斉のきらびやかな一団がいる。
 孫権の傍らに馬を寄せた陳武は、こんなのは久しぶりだな、と笑った。
「体が鈍ってるかも」
「あなたが? それはないですよ」
 陳武は腕を伸ばして孫権の肩を小突く。その気安さは確かにしばらく感じていなかったもので、孫権の胸が僅かにあたたまった。
「前線を押し上げるのはここまでか?」
 囁くような声の陳武に孫権は、そのつもりです、と答える。そうか、と答えて陳武は口の端を上げた。
「じゃあ、この一戦を戦い切ろう」
 彼がそう言ったとき、眼前の合肥城の麓から薄暗い中に白い土煙が上がった。皆の目線が一斉にそちらに移る。
「なんだ?」
「わっ、我が君!!」
 合肥城の門前に目を凝らしていた衛奕が叫ぶ。ほとんど同時に谷利と左異とは孫権の前に馬を進めて、刀の柄に手を掛けた。

「こちらに向かってくる騎馬隊が見えます!!」

 砂を巻き上げ、夜が明けるよりも速く土煙の発生源がすさまじい勢いで迫ってくる。左右に展開している孫軍を呼び戻す暇はなかった。
「数は?」
「そんなことはどうでもいい、仲謀! 丘に上がれっ! 陳武隊、将軍の前方を固めろ!」
「徐盛隊もだ! 本陣を死守する!」
 陳武に次いで徐盛も怒号を発する。二隊の動きを見た牙門隊の孫高、傅嬰はすぐに孫権を後方に促した。
 号令を受けて一斉に兵士たちが孫権の前を固める。まさに襲い来ると表現して差支えもないであろう敵の軍勢に、ちりちりと陳武のこめかみが痛んだ。
「典隊は左、張隊は右に広がれ! 敵を包囲する! 文嚮、お前の部隊も借りたい」
「無論! 節隊は左、呉隊は右だ、急げっ」
 しかし、展開より敵軍が孫軍に食らいつく方が早かった。どう、と轟音を発して黒い塊となった曹軍の切っ先が未完成の包囲に切り込み、瞬く間に数人の兵士を薙ぎ払う。退くな、とすぐ近くで徐盛が怒鳴る声が聞こえた。それきり陳武の耳には、曹軍の先頭を行く騎馬が土を蹴り上げる音しか聞こえなくなった。
 まっすぐ、陳武と乗り手の目が合う。朝焼けを背にした将は、その両手に持つ得物についた血糊を無造作に払い、顔の前で腕を交差させた。
 陳武は戟を握り直し、大きく息を吸い込む。
「おおおおおーっ!!」
 影となった二人はほとんど同時に叫んで、ぶつかり合った。


 ◇


 孫会稽の軍勢、合肥に迫る兆しあり――
 報告を受けた九江郡合肥県に駐屯する張遼、楽進、李典の三名の将は、それぞれ彼らの護軍と軍司馬、そして三軍を統括する護軍の薛悌と共に緊急の軍議を開いた。
 腕を組んだ楽進が肩を竦め、呆れたような声を発する。
「ま、いずれ来るであろうことはわかっていた。主公が御自ら征西の軍勢を率いている今このときが絶好の機会と言うよりない。俺が孫権でもそりゃ攻める」
「荊州で劉備と揉めていたという話は?」
「さあ? 大方あの古狸が口先で丸め込んで休戦協定でも結んだんだろうさ」
 益州まで奪ったんだろう? と鼻で笑う楽進に、李典は咎めるように眉根を寄せたが何も言わなかった。
 そのやり取りが一段落するのを見た薛悌が、いかがされます、と困惑気味に問う。合肥城に配属されるのがこの三将と決まったときから、いつでも彼は不安だった。常から誰に対しても斜に構えたような態度の楽進はともかく、特に張遼と李典の仲が最悪だった。
 李典の従父である李乾は、かつての張遼の主人である呂布の手の者に殺害されている。その経緯から李典は張遼を快く思っていなかったのだが、呂布の死後、曹軍に降った張遼はそれらの遺恨や怨嗟をまるで意にも介さず飄々とした態度で過ごし、元より実力を兼ね備えた将であったことも相俟って曹操の麾下で瞬く間に出世していった。彼自身の生来の大味な性格も災いしてか、こうしたことで張遼に対する李典の悪感情は高まるばかりである。
 そこへ楽進が火に油を注ぐようにからかったり煽ったりするのだから始末に負えない。深く眉間に皺を刻んで嘆息する節悌に、当の張遼はと言うと不思議そうに首をかしげて、どこか具合でも、などと心配してみせる。薛悌は彼をちらりと見遣り、またひとつため息をついた。
「ここを抜かれてはなりません。この地は揚州の玄関口ですから、孫軍に押さえられると一息に中原まで届いてしまう」
「無論です。文字通り我々は当地を死守せねばなりません」
「敵の兵力はどれくらいだ?」
 楽進に尋ねられた斥候の兵士は、わかりません、と答える。
「ただ、かなりの多数です。もしかしたら十万も……」
 僅かに怯えの入ったその声音に、張遼は弾けるように呵々と笑った。瞠目する周囲をよそに、演習台に目をやった彼はなおも目許を緩ませている。
「いくら荊州に割く人員を僅かに浮かすことができたとは言え、十万も動員する余裕が孫会稽にあるわけがない。だが……そうですね……」
 ふと顎に手を当てて何か考え込むような仕草をし、張遼は薛悌を見やる。
「こちらの動員できる兵数は?」
「多く見積もっても七千程度かと」
 おお、と楽進がこの場に似つかわしくなく嬉しそうな声を上げる。
「兵の多寡は歴然というわけだ。俄然やる気が出て……」
「あっ!!」
 楽進の言葉を遮るように、薛悌が大声を上げた。突然のことに肩を竦ませ己を見遣る将らを彼も見返し、その口が、主公が、と動く。
「お待ちください、すぐに、すぐに持ってまいりますから」
 そう言って礼もそこそこに足音を立てて忙しなく政堂を出て行く彼に、将らは互いに顔を見合わせて首をかしげるばかりであった。

 彼自身の言った通り薛悌は程なく戻って来たが、その小脇に細長い木箱をひとつ抱えていた。
「申し訳ございません。お待たせいたしました」
「いいえ。それは?」
 李典に尋ねられ、薛悌は大きく頷いてその蓋を開け中身を演習台の上に取り出す。書簡がひとつ入っていた。
「過日、ええ、征西の報と共にです。主公よりこれが届き、“もし賊が攻めてくるようなことがあれば開け”と添えてありました」
「はは、お見通しですね」
 李典の感心した声に首肯を返して、もったいぶる様子のひとつも見せずに薛悌は書簡を開いた。将らも一斉にそれを覗き込み、書かれた文面に各々目を通していく。
「…………見間違いかな、俺は城を守れって?」
「見間違いですよ、楽将軍が守るのは薛護軍です」
 ぼやいた楽進を李典がちくりと刺す。薛悌は苦笑した。
 戦場に出れば常に先陣を切りたがる若い頃からの楽進の性質は長じた今も鳴りを潜めることがなく、主人からの書簡にあった防衛の命に彼はあからさまに拒否感を示した。
 張遼は彼に、こたびは私にお譲りいただけますな、と自身の口許を手のひらで隠しながら言う。声を掛けられた楽進は一層眉をひそめて、声が笑ってるぞ、と悪態をついた。ふふ、と張遼はいよいよ笑みを隠さず、ひとつ咳払いをする。
「時は一刻を争う。今から救援を要請したとて手を拱いて対処し兼ねていれば孫会稽の軍勢は我々を打ち破り、合肥は落ちるでしょう。ですが、包囲が完成する前に敵に損害を与えれば孫軍の意気消沈は必至。なぜなら荊州から取って返し、時を置かずこの地に進軍しているであろうことがその速度からも明白だからです」
 演習台に両手をつき、張遼は地図上の合肥を見つめながら皆に訴えかける。
「決戦になる。……そうでなかったことなどありませんが。私は出ます。諸将はいかがされます」
「……出るさ。当然だろう」
 真っ先に答えた李典に、おや、と薛悌と楽進は揃って目を丸くする。存外素直な返事だった。李典は彼らの様子に片眉を上げて、いささか怒気を含んだような声で続けた。
「国の興廃が掛かる一戦に私心を交えるつもりはありません。張将軍の高説を聞くまでもなくそのつもりでした。私を侮らないでいただきたい」
 そんなことよりも、と李典は彼より一回り以上も年嵩の張遼に対してわざと居丈高な態度を取った。
「貴公がそうまで自信満々に振る舞うならそれ相応の計略があるのだろう?」
「……さて、李将軍の満足のいく策かはわからぬが」
 にやりと口の端を上げて目線を返す張遼の肩を、李典は軽やかに叩く。ほう、と安心したように息を吐いた薛悌の隣で、楽進もおかしそうに笑った。

 ――夜半、合肥城南門前の広場に張遼、李典らの集めた八百の兵士が集っていた。そのすべてが将たちの募兵に自ら名乗り出た者たちである。そこへ楽進が数頭の牛を率いて現れ、着飾ってはやれないが俺からの労いだ、と言って張遼と李典の腕を励ますように強か叩いた。
 張遼はその牛たちを手ずから戟を持って打ち殺し、戦意を眼に迸らせる将兵らに振る舞う。
「明朝、我々は夜明けと同時に孫会稽の軍勢に切り込む」
 伸びやかによく通る声で張遼は言った。牛の血にまみれた兵士たちが皆、静かに彼を見つめている。
「敵の包囲が完成する前にその本陣を急襲して叩く。私が先頭を行くから、この姿を見失うなよ」
 そうして張遼は、己も手に取った牛肉に食らいつく。びちゃり、と血が滴って、彼の口許が真っ赤に染まった。手の甲でそれを拭い、頬まで伸びた色を舌で舐める。
「さあ、壮士たちよ。腹を満たしたら朝が来るまで眠れ。次に目覚めたとき、お前たちの傍に死があるぞ」
 宵闇のなか、張遼の目が輝いた。

「お前たち一人ひとりが鬼神となるのだ」

 深く濃く帳が下りる夜に将兵らの鬨の声がおどろおどろしく響く。
 この瞬間、彼らの守るこの要塞が――歴史に残る金城鉄壁の砦となった。