火花が散るほど、両者の戟が激しくぶつかる。一合、二合、打ち合った彼らは互いの反動でその騎馬を僅かに後退させた。
 張遼の口許には笑みが浮かぶ。陳武もまた、口の端を上げて息をついた。
「ずいぶんな大軍を引き連れて来たな。どれだけいる?」
「さあね、十万くらいはいるんじゃないか?」
 陳武の挑発的な表情と発言に張遼は眉を寄せたが、しかしすぐに落ち着いたように表情を和らげる。
「そうか。だが逆境にこそ我が武勇も吼え猛るものだ!」
 馬の手綱を引き、張遼は勢いをつけて陳武に斬りかかった。陳武も戟を構えそれを受けるが、双戟の使い手である張遼の素早い動き、人馬一体の挙動に少しずつ押され始めている。
 合肥城邑を眺める平原は朝焼けに燃えながら乱戦の様相を呈していたが、二人の周囲はぽっかりと穴が開いたように彼らだけの戦いを形作っていた。誰一人近寄ることもできず、また近寄ろうなどとは思ってもみない。
 彼らのまとう空気だけが目まぐるしく、彼らは互いに互いの姿だけを捉えている。張遼の操る戟の切っ先が陳武の肩当を掠め、陳武の剣は張遼の兜に弾き返される。
 互いの呼吸を感じ、その意表をつく。まるで彼の輪郭に差す影すら愛おしむかのように――しかし、その打ち合いは唐突に破られた。
 張遼は陳武の肩口に突き刺さった矢を見、振り上げた得物を収めようとしたが、結局それは叶わなかった。その戟が陳武の胸から腹にかけて荒々しく食い破り、彼は激しく血しぶきを上げて馬上に傾ぐ。好敵手が草の上にゆっくりと落ちていく様子を、張遼は見開いた目で見つめた。
「うおおおおおっ!!」
 数瞬後、平原に怒号が響き渡り、張遼ははっとそちらを顧みた。一人の若い将が猛然と馬を駆って張遼に迫ってくる。
 張遼は馬を返し、双戟を構えて若い将に向き直った。彼は涙の膜の張る目を見張り、張遼を睨みつける。
 彼が槍を突き出した。張遼は双戟でそれをいなし、馬を返して翻る。迎え撃つために再び彼に向き直ったとき、張遼は視界の端から矢が飛んでくるのを見た。若い将がすんでのところで上半身を反らして避け、手綱を引いて馬を押し止めるのを見、張遼は一呼吸置いて矢の飛んできた方へ目を向ける。
「…………」
 彼は思わず、チ、と舌打ちをしてしまった。恐らく眉根を寄せた張遼を見咎めたのだろう、李典は構えていた弩弓を下ろさぬままに、私欲を挟むな、と声を荒げる。
「貴公がそう言ったのだぞ」
「……そうでしたな」
 そうして目線を動かした張遼は、落馬した陳武とその馬が既に孫軍の兵士らによって動かされていることに気づいた――首を、落とし損ねた。
 一瞬後悔が過ぎった意識の端から馬の蹄の音が聞こえる。張遼は再び、怒気を総身に滾らせる若い将を見遣った。
「敵討ちか? 貴様に私が殺せるか」
「俺だけじゃない」
 彼の鬼気迫る表情を見つめていた張遼は、騎馬隊の周囲を巡る孫軍の包囲に気づいた。彼は眼前の丘に登った“将”の一人をちらりと見上げる。その“将”もまた、じいっと張遼を見つめていた。距離があり、人の形がなべて漆黒に染められた空の下では、その顎を覆う立派に蓄えられた髭が朝日に燃えているような色をしていることしかわからない。
「なぜそんなところにいる。貴様も下りてきて戦え」
 張遼は声を張る。丘の上の“将”は僅かに馬に足踏みをさせたが、当然のごとく下りてくる様子は見られない。
 張遼ら騎馬隊を包囲する陣には、若い将の他に五名も部将がいるのが見受けられた。張遼は、恐らく己らは本陣に程近い位置にいる、と確信する。
 そうして彼は己を取り囲む包囲を見渡した。幾重にも連なるそれは、並大抵の力では打ち壊すことは到底敵わぬであろう。だが――
 李典を振り返ると、彼は小さく頷く。それに頷き返して張遼は前を向き、自身の両腕をすいと左右に拡げ、おもむろに指差した。
 示された敵陣の左右に動揺が走る。その隙を見て取った張遼は、力強く手綱を引いた。
 騎馬隊が一斉に走り出す。一かたまりになった彼らは、敵陣が左右を固め、手薄になった正面の突破に掛かった。
 若い将が瞠目し、張遼を遮ろうと馬を返すも、その馬が騎馬隊を恐れて避けてしまう。なんとか向かってきた別の将を一合の内に斬り伏せてしまうと、走れ、と自身の馬に向かって怒鳴る若い将の声を聞きながら張遼は馬を駆った。
「張将軍っ!!」
 しかし、包囲突破の最中に騎馬隊の後方が陣内に取り残され、分断されてしまう。悲鳴が聞こえて振り返った張遼の耳に、我々をお見捨てになるのですか、と取り残された騎馬兵たちの悲痛な声が響く。
 張遼は大声を上げた。
「李将軍!」
「わかってる、援護する!」
 頼もしい、と張遼は彼に頷く。互いに反りの合わない性格と所以だが、彼の知見とそこから導き出される戦場の展開図にはたびたび張遼も舌を巻かされてきた。
「騎馬隊!! 我々は馬首を返し再び敵陣に突入する!!」
「はっ!」
 叫んだ張遼に、同じだけ高らかな兵たちの応答が届く。丘の手前で転回した騎馬隊の先頭を、孫軍の兵たちは信じられないような表情で見つめた。
 引き返してくる張遼の前に、かの若い将が立ちはだかる。張遼は両手を掲げ、それをさっと彼の前方に向けると、彼自身は馬の速度を落とした。李典に率いられた騎馬隊は張遼と若い将を避けて二股になって駆け抜けていく。どう、と荒々しい勢いで仲間を取り囲む陣に突入した一群は、ますます孫軍の兵士を屠った。
 怒号を発し馬を駆って己に立ち向かってくるその将を、張遼は双戟で迎え打った。馬の勢いに乗って長戟を繰り出す彼を一方の戟でいなし、他方の戟でその胴体に打ち込もうとする。それを避けた敵将は交錯する互いの騎馬の足許で撥ねる泥に舌打ちをした。平原はすっかり人馬に踏み荒らされている。
 張遼は素早く馬首を返し、将の背後から双戟で斬りつけた。かわし損ねた彼の肩口から背中にかけて真っ赤な線が走る。
「ぐうっ……」
「貴様如きが私たちを阻もうなどと笑止! 貴様が振りかざすはかの将の足許にも及ばぬ、ただの蛮勇でしかない!」
 立て続けに振り下ろされた双戟を、敵将は必死に振り返って長戟で受ける。しかし彼の体はくずおれ、双戟を押し返すこともままならず、そのまま馬上から転げ落ち、肩口を強か打った。彼はなんとか立ち上がろうとするも、長戟を手にしたところで再び地面に膝をついてしまう。
 驚いた彼の馬が二度足踏みをして立ち止まる。息荒く、右の鎖骨を押さえながら己を睨むように見上げる彼に向かって、張遼は不敵に笑んだ。
「折れたか。脆いものだ。気にするな、百人殺した男ですら首を締め上げられれば容易く死ぬことができる」
 ふと彼は、自身の傍らに敵軍の旗印が落ちているのに気づく。それを片方の戟の切っ先を使って軽く拾い上げ、ちらりと深傷の将を見た。
「良い名だな。孫子の系譜だろうか?」
「…………」
「それはないな。このような浅慮な策を携えてくるような男が」
 言いかけた張遼は彼の前方――敵将の後方からすさまじい勢いでこちらへ向かってくるきらびやかな騎兵と歩兵の一団を見た。
「騎馬隊、行け!」
 その先頭を行く一際目立つ――何で染めたのか、派手な赤と黄色の紋様が描かれた――鎧をまとう将の一声で、一団の先頭を行く騎兵隊が横列を乱さず速度を速めた。
「…………」
 多勢に無勢を見て取った張遼は地面に坐り込んだままの将の上に旗印を放り投げ、馬首を返して先を行く合肥の騎馬隊の後を追った。
 そこへきらびやかな将は続いて怒鳴る。
「曹軍を放り出せっ!!」
 その言葉に孫軍は、一度は敵の周囲に築いた包囲陣をいとも容易く解いた。誰もが曹軍の意気に畏れを成していた。

「徐将軍、本陣に戻れ」
 騎馬隊に帰参を命じ、深傷を負った徐盛の救援に駆けつけた賀斉は彼を隠すようにその前に馬を進ませる。己を見上げる徐盛の眼差しが剣呑さを帯びているのに口の端を上げ、彼は張遼ら合肥の騎馬隊が包囲を破って走り去った方に目を向けた。
「恐ろしい。奇襲で我が軍の将兵を大勢殺し、あれだけの包囲を破ってまんまと城に戻られてしまった」
「感心……している場合ですか」
 陳将軍が殺されたのですよ、と兵卒たちに支えられながらなんとか立ち上がった徐盛が言うと、賀斉は肩を竦めて息を吐く。
「取り返しのつかない事態になる前に、どうにかしなくては」
 その呟かれた言葉にまた徐盛は忌々しそうに眉をひそめたが、不意に全身の痛みを意識して呻いた。


 ◇


 この日、張遼ら曹軍の騎馬部隊は左右に展開していた孫軍にも攻撃を加え多くの兵を討ち、日が中天を過ぎて空が薄水色になるまで戦い続けた。
 初日の一連の戦闘に於いて孫軍では多くの死傷者が発生し、また将軍が二人斬られたことで軍内の士気は上がらず、連戦の影響もあってか次第に疲労や不平不満を述べるものが少なからず出てきた。
 合肥城に駐屯する曹軍が奇襲の後すぐに籠城戦に切り替えたため孫軍はひとまず北面を除く城の三方の包囲を完成させたものの、六日を過ぎたあたりから体調不良を訴えるものが出始めた。発熱や意識の混濁があるものもあれば嘔吐や下痢といった症状が見られるものもあり、士気が上がらぬところに暑気に中って人も糧食も悪くなったのだろう、と治療に当たった医官が言うのに、孫権はひどく気を悪くしたようだった。
 緒戦での死傷者に加えて疫病による傷病者を後方に送り続け、それでもしばらく包囲を解かずにいた孫軍であったが、やがて全軍の二割ほども体調不良者を出したことでついに包囲を継続することもままならなくなった。
 そうして、孫権が合肥城からの撤退を決めたのは包囲開始から十日も経たぬうちのことであった。

「だめです、殿!!」
 呂蒙が叫んだ。その隣で凌統も必死に頷く。彼らの様子を見ても孫権は彼自身の言い出したことを撤回するつもりはないようで、他に異論がなければこれより撤退を開始します、などとのたまった。
「なりませぬ! 殿軍はこの呂子明が務めます。殿は全軍の先頭に立って渡河してください!」
 縋るように訴える呂蒙であったが、孫権は彼の手をそっと取るとそれを両手で包むように握り、首を振った。
「盧江、そして蘄春に戻る子明どの、興覇どのの軍勢が先頭です。渡河には時間が掛かりますから、川を越えて陸続きで真っ直ぐ帰還できる軍勢を待たすわけにはいかないのです」
「そんなら渡河する他の軍勢の将を殿軍にしたらいいでしょう」
 珍しく、孫権に対しても強い口調で訴えたのは甘寧である。孫権は彼を顧み、その表情が如実に不快であると語っているのを見て思わず唾を飲み込んだ――彼は恐らく、この場の誰よりも殿軍を務めることの厳しさについて理解している将だった。
「こんな危険なこと、我が君がすべきことじゃない。わかりますか。あなたは一番に生きて帰らなければいけないんですよ」
「しかし、無茶な行軍をした挙句、戦果のひとつも挙げられずに疫病のために撤退では私の責任問題です。せめて殿軍として皆を無事に帰さなければ……」
「それは違います、殿」
 しばらく黙っていた韓当が言葉を発した。本陣に集った将たちが皆、彼に目線を向ける。
「あなたが無茶な行軍をしたと仰られるなら、それに諌言できなんだ我々に責があります。軍事行動に於いて将は皆、殿のご判断を補佐する立場にあらねばならない。この結果は紛れもなくそれを怠った我々の非です」
 じっと己を見つめる韓当に、孫権は自責の念と羞恥でさっと頬を赤らめ、唇を噛んだ。こういうとき、特に韓当や蒋欽、呂蒙らの宿将の前に立つと、孫権は小さく、みじめな気持ちになってしまう。なぜなら彼らは亡兄孫策の神勇を身を以て知っていた。あの領域に近づけない己が、遥かに劣るものだと思い知らされてしまうのだ。
「――我が君!」
 そこへ、若い声が上がった。見れば凌統が、孫権と韓当との間に割り込むようにして手を組んでいる。
「俺が共に殿軍となって我が君の戦を助けます。必ず皆を無事に帰しましょう」
「公績……」
 そうして凌統はぐるりと本陣に集う将らを見渡した。
「皆様にも全軍の生還に奮励努力していただきますようお願い申し上げます! とにかく拙速が肝要ですので」
「ああ、じゃあこうしよう」
 ぱちん、と指を鳴らした甘寧が、彼自身と呂蒙とを交互に指し示す。
「淝水まで軍勢を下げたら俺たちは少数精鋭で取って返し殿軍に合流する。本隊が無事に渡河しおおせたところで我々も各々散り散りに逃げる。どうです?」
 得意げな甘寧の表情に凌統は不快そうに眉を寄せた。呂蒙が、散り散りですか、と疑問を投げ掛ける。
「当たり前だろ? 巣湖の淵に沿って適当に逃げて後詰の部隊に回収してもらえやいいさ。まとまって逃げてちゃあの張遼の部隊に一網打尽にされる。だが、だからこそ兵卒がてんでばらばらあちらこちらに逃げるところに何十騎も追っ手をかけるような愚はしない男だ」
 素晴らしい騎兵隊だ、とささやくような声で続けられた甘寧のその言葉だけは、その隣に立つ賀斉のみにしか届かなかった。
 孫権は頷き、そのようにしましょう、と口にし、そうして渋い表情をしている賀斉を見た。
「公苗どのの軍勢には今晩からすぐに離脱していただきます。渡河したところで船団を率い、後続の軍勢を助けてほしい。他方で濡須の幼平どのに伝令を出し、巣湖の東岸にも船団を出してもらえるよう要請してください」
「は、承知しました」
「東西に展開している軍勢は一度南面に集合させます。……策の一環だと思ってくれたら良いのですが」
「太鼓を鳴らせばいい。規則正しく動けばそれは策です。何より、我々が今から行う後退行動だって立派な戦術ですよ」
 笑う甘寧に孫権が困ったように微笑み返せば、彼はぱちりと片目を瞑っておどけた表情になる。
 ――大したことのないことだ、と言外に励まされているような気さえして、孫権はひとつ息を飲み込んだ。


 ◇


「敵全軍が南面に展開?」
 用間の報告を受けて、楽進は合肥城南面の城壁に駆け上がった。薛悌が慌てて後に続くと、空が近くにつれて周囲に響き渡る太鼓の音が大きくなってくる。
 張遼と李典とはそれぞれ東西の両壁に兵を展開させている。彼らも既に異状を察知しているだろう、と楽進は考えた。その通り、程なく両将は自ら南壁を訪れ、城外の様子を身を低くして観察を始めた。
「撤退か」
 張遼が言うのに、楽進と李典も頷く。
「数日前から少しずつ兵の数が減っているようには思っていたが……」
「疫病でしょうね。このところ秋らしくなく暑い日が続いていましたし。それでなくとも江南の兵士たちは江北の気に弱い」
 薛悌が言うのに、不思議な話だよなあ、と楽進はぼやく。
「前の荊州戦役では、俺たち北の兵士が南の気にやられて散々だった」
 この場にそぐわないその言葉に、張遼は思わず笑ってしまう。李典に睨まれてひとつ咳払いをした張遼は、口を開いた薛悌をいかにも真剣な表情を作って見遣った。
「しばらくは静観するのがいいでしょう。早晩後退行動を取るとは思われますが、まだこちらの油断を誘う謀略でない可能性を捨て切れません」
「では、敵方の意図が撤退であると確実になったところで追撃をかけます。李将軍」
「無論。だがまた八百か? もう少し数を増やしたいところだが」
 李典が言うのに、内心では自身も追撃部隊の増員を考えていた張遼は楽進と薛悌とを交互に見た。薛悌はひとつ頷く。
「楽将軍はどうでしょうか?」
「うちの連中も再編して好きなだけ連れて行くといいさ。今やもう皆、敵を屠りたくて意気軒昂だ。ただし条件がある」
 ぱちりと瞬く二人に楽進は目を細めた。
「必ず総大将を捕まえてこい。その戦術の巧拙は関係ない、これほど大規模な軍勢を動かしている男が、並であるはずがない」
 楽進は言外に、江東、江南地域の首長たる孫権がこの戦場にいるものと示唆している。
「…………」
 李典は城壁から孫軍の陣容を覗き込むようにし、目を細める。視線を戻し、腕を組んで諸将らを順に見るその表情に自信が満ちているのを三人は見た。
「考えがあります。私に五百の精鋭を預けていただきたい」


 ◇


 ついに孫軍は撤退を開始した。
 当初の孫権の指示通り、まずは凌統を除く諸将の率いる軍勢を合肥南西を流れる淝水流域まで後退させて渡河させ、殿軍である凌統の部隊三百名、そして孫権の率いる近衛部隊千余名が撤退を補佐する。自軍の戦線離脱を完了させた後、呂蒙、甘寧、蒋欽が精鋭を率いて取って返し、もって全軍の撤退を指揮する手筈であった。
 張遼は合肥城内でその経過を聞き知るや否や、駐屯兵三千を引き連れて追撃を仕掛けた。彼の思惑から外れた孫権の行動こそが正に曹軍の有利となったのである。
 総大将の牙旗を掲げる軍勢が全軍の撤退完了まで殿軍として留まっていようなどとは――及びもつかぬ愚行であった。

「我が君!! 疾く馬を走らせられませ!!」
 曹軍の追撃です――凌統の怒鳴り声が響く。北方から迫る土煙を見た凌統、そしてその三百の麾下兵たちが迎撃のために淝水の周囲に広がる林に展開した。それを見た孫権の近衛部隊を指揮する孫高、傅嬰もまた、孫権を守るように陣を厚くする。時同じく、南方からけたたましく鼓吹の鳴らす音楽が聞こえた。振り返ると甘寧、呂蒙、そして蒋欽の精鋭部隊が淝水より引き返して来るのが見えた。
 孫権は馬上から弩弓を構え、その先鋒の騎兵の肩を射た。曹軍の騎馬隊の速度が僅かに弱まり、孫軍の兵士たちが怒号を発してそれに襲い掛かっていく。
「谷どのっ!!」
 再び弩弓を構えた孫権を横目で見るや、凌統は谷利の名を呼んだ。すぐに彼は馬上から孫権の馬――青の手綱を取る。
「我が君を必ず生かして江東へ帰してください!!」
「わかりま……」
 ぐ、と勢いよく谷利がその手綱を引こうとしたその時――彼の視界の隅に、黒い影が過ぎった。

 激しく木の葉を散らして、軽装の歩兵部隊が林の陰から飛び出してきたのである。

「――っ!! 我が君!!」
 谷利は馬を駆って孫権の後背に出た。左異、そして衛奕もまた孫権の傍近くに身を寄せる。
 猛然と走る歩兵隊の先頭を行くのは一騎の騎兵である。その鎧姿に孫権は見覚えがあった。緒戦で陳武を射た矢の射手である。
「我が君、こちらへ!」
 林を蛇行するように動きながら孫権らは伏兵の突撃を避ける。猛追する歩兵隊に騎射で応戦していた谷利の視界に、戦闘から逸れるように南方へと走り去っていく数名の兵士が見えた。
 左異が声を上げた。
「橋だ!!」
 孫権らは馬首を返し、南方に向かう一団を追う。先頭を進む孫権は上半身を捻り、後背にぴたりとつく谷利に体を倒すよう言った。彼がその言葉に従うのとほとんど同時に孫権の弩弓から放たれた矢が追っ手の一人を射る。続け様に三度矢を放つ孫権は、最後の一矢ののち小さく舌打ちをし、また矢をつがえて追っ手がなくなるまでそれを射続けた。
 孫権と親近監らは林を抜け淝水に架かる逍遥津へと急いだが、辿り着いたのは既にかの歩兵隊によって橋が落とされた後だった。
 谷利は橋のたもとで孫権らを迎え撃つ歩兵隊に向かって矢を放つ。左異、そして衛奕も応戦し、敵を斬り、あるいは川に落として周辺を掃討した。
 馬が足を止め重い沈黙が下りるなかに、孫権がため息をつく。
「……落とされたか」
 川の流れが細くなった箇所に架けられたとはいえ、それでも二丈程度もあったはずの橋は対岸の二枚の橋桁を残して崩落している。淝水に沿って巣湖東岸に至り長江北岸に出る道も常ならばあろうが、迅速に戦線離脱しなければならない状況で長く曹軍の支配下にある地域に留まるわけにはいかなかった。
 対岸に停泊させている船には既に戦線を離脱した孫軍の兵士たちがいる。皆一様に、落胆と失望とをその面に浮かべていた。
 そのなかにあって険しい表情を崩さない賀斉が叫んだ。
「殿!!」
 彼の悲鳴のような声を聞いた谷利は後ろを振り返り、乱戦の様相が林のあい間に見え隠れするのを見た。
「このまま川岸に沿って南下するか……」
「いいえ、我が君!」
 谷利は下馬すると青の鼻面の傍に立ち、その鼻梁をそっと撫ぜた。
「私が後ろから青を鞭打ちます。我が君は手綱を緩く握っていてください」
 それであなた様はこの川を越えられます――谷利の言うのに孫権は瞠目する。
「それではお前は」
「我々も後に続きますから。さあ、鞍をしっかり掴まえて」
 有無を言わせぬ強い口調。当惑する孫権が彼の言う通りにすると、谷利はすぐに青の後ろに回り、ふっとひとつ息を吸い込んで鞭を振り上げた。
 ばしん、と強く張った音が響き、驚いた青が勢いよく走り出す。騎馬はまっすぐ崩れた橋に向かい、力強くその足を踏み込んだ。

 ――飛べ!!

 谷利は内心で叫んだ。あの日、彼がそう叫んだように。

 青はしなやかに跳躍した。蹄からこぼれる土がまるで時が止まったようにゆっくりと川の上に降る。皆の目線が美しく弧を描く騎馬を追った。
 そうして馬は軽やかに対岸に足をつける。僅かに勢い余って対岸に集う兵士の集団に突っ込みかけ、皆が慌ててそれを避けた。
 はあ、と谷利は腹の底から深く、ため息をついた。
「すごい!」
「言ってる暇はない、次はお前だ、衛奕」
 谷利は続け様に、感心したように声を発する衛奕の後ろに回る。
「手綱を緩く掴んで、鞍をしっかり持つんだ。我が君と同じように」
「え、ちょちょ、ちょっと待ってください、俺にはあんなの」
 言い終わる前に谷利に馬の尻を強か張られ、衛奕は悲鳴を上げながら川を越える。そのまま左異の騎馬の後背に回ろうとした谷利を彼が制した。
「お待ちください。私が越えたら、谷どのはどうされます」
「私は自力で越えるから構うな」
「我が君ですら勢い込まねばできなかったのに?」
 睨めつける左異に谷利は眉をひそめる。対岸から、早く、と叫ぶ孫権に手を軽く挙げて応え、谷利は再び左異を見た。
 しかし、谷利が口を開く前に左異が言葉を発する。
「――わかりました。申し訳ありません。よろしくお願いします」
「…………」
 ぐ、と左異は彼の馬の鞍を強く握る。僅かに馬が後ずさったところへ谷利は鞭を入れた。そうして左異もまた川を越えたのを見届けて谷利が自身の馬に駆け寄ったとき、後背の林から幾本もの矢が飛んできた。
「……!」
「利!」
 愛馬が傾ぐ。その名を呼ばわって、谷利は地面に倒れ込む愛馬の傍に膝をついた。それを見た孫権が対岸から大声を上げる。
「利、だめだ! もう構うな! 青をもう一度そちらへ寄越すから……」
 谷利が対岸を向いて首を振ったとき、彼の背後に人が立った。
「――公績!!」
 孫権が叫んだ。
「わ、我が君……」
 谷利も振り返り、覚束ない足取りのその体を慌てて抱きとめる。彼の着物は真っ赤に染まり、満身創痍の有様だった。
「よかった、対岸へ渡れたなら」
「ええ、もう安心です。さあ、私に掴まって」
「いや、俺も、もう……」
 息も絶え絶えに言葉を発する凌統を抱え直して、谷利は彼の足許に横たわる愛馬を見下ろした。
「すまない、お前とはこれきりだ。今までありがとう」
「谷……どの?」
 凌統が縋るように谷利の着物を握りしめる。彼にぐっと体を寄せた谷利は、崩落した橋の下に流れる川を見た。
「もう少しだけ堪えてください。私にしっかり掴まって」
 その言葉に小さく頷いた凌統から目線をずらし、谷利は対岸の孫権を見た。誰よりも前に足を踏み出し狼狽を隠しもしない彼に、谷利は小さく笑みを返す。
「凌将軍、いきますよ」
「待て、お前たちっ――」
 孫権の必死の制止も聞かず、谷利と凌統は勢いよく淝水に飛び込んだ。


 ◇


 ――ぱちり、凌統は目を覚ました。しばらく呆然としていたが、やがてぼやけて見える視界から、自身がどこかの室に寝かせられていることがわかる。
 じっとして動かないでいると、体に僅かな振動を感じる。ギシギシと耳許で板戸が軋む音や、かすかに上下する動き、耳を澄ませば遠くから水を掻く音も聞こえる。
 船の上だ、と彼は思った。そうして、己が安全の裡にいることも同時に察せられた。そのことは途方もない安堵を彼自身にもたらした。
 不意に、曹軍の急襲を食い止め、必死に武器を振るっていたときには思いもよらなかった恐怖が凌統の全身を包む。――誰一人、己の部下は帰って来なかった。あのとき孫権が見とめ、谷利に助けられたのは、ただ一人己のみであった。
「…………ああ……」
 ツンとする鼻の奥、滲む目頭を凌統は堪えることができない。何より体を動かすのは億劫で、ひどく痛みを伴うものだった。全身に受けた戦傷はそうそう容易く癒えはしない。
 目尻に筋を作って流れていく涙が耳許に溜まっていく。凌統はそれを拭う術を持たない。
 程なく療養室に医師を伴って訪れた孫権は、凌統が目覚めていることに気づくや否や牀に慌てて駆け寄り、しかし容態を気遣ってかおもむろに、労わるようにその体を抱きしめた。あの日、凌統が船に助け上げられたときにもそうしたように――

 くずおれる凌統の体を抱いて、彼は何度も、よかった、と言った。無事に帰って来てくれた、と。その言葉に凌統の両目がまた滲む。
「いいえ、我が君。何もよくありません」
 声を震わせた凌統に、孫権は痛ましそうな表情になって彼の顔を覗き込む。
「私の配下の者たちは帰って来ましたか。成章は、裴士は、胡達は……皆、皆、死にました」
 くしゃりと歪んだ凌統の顔を孫権は手のひらで包む。申し訳ありませんでした、と彼は引き絞った声で叫んだ。
 孫権は彼に、何度も首を振ってみせる。彼を苛む罪の意識やその痛みから解放してやりたくて。
「公績、死んでしまった者は、もうどうしようもないのだ。どうしたって帰って来ない。どんなに望んでも……」
 彼は凌統を安心させるために微笑んだ。
「お前がここにいるのだ。それ以上、何を望むことがあるだろう」
 その言葉を聞いたきり、凌統はすっかり気を失ってしまったのだった。

「もうお前自身を責めるのはやめよ。それより、医師の卓先生がちょうど近くにいらしていてな、お前のために薬を奮発してもらった」
 牀の脇に床几を引いてきて腰掛けた孫権は、凌統の額に張りつく前髪をそっと撫ぜながらちらりと後ろを見遣る。親近監の左異の隣に立っていた壮年の医師――卓氏がそれに気づいて、小さく頭を下げた。
「ありがとう……ございます、先生。我が君、あの……」
「ん?」
 目を細めて小首をかしげる孫権に、凌統は躊躇いがちに尋ねる。
「その……谷どのは」
「ああ」
 彼の傍にいつもあるはずの親近監の姿がないのに凌統は不安を覚える。川に飛び込むという無茶までしたのだ。己を助けた後、よもや彼の身に何かよくないことがあったのではないかと――
「利ならぴんぴんしてる。ただ、今は大事を取って別室で休ませているよ。動き回るとよくないから見張りもつけて……本人も自分は平気だからと言って聞かないが、あいつはいつもそう言うんだ」
 おかしそうに笑う孫権に凌統はほっと息を吐いた。常に何が起きても平然としている彼と心配がやや過剰な節のある孫権のやり取りが容易に想像できて、つられて口許を緩ませる。
 孫権は次いで、戦場で曹軍の急襲を食い止めた他の将たちの無事を凌統に伝えた。孫権、そして凌統らが助けられてすぐに諸将らの率いる決死隊もまた戦線を離脱して淝水に沿って南下し、濡須水から巣湖に北進してきた周泰らの船団によって救出されたという。
 ほっとした様子の凌統を見た孫権はふと微笑み、お前はしばらく休養だ、と告げた。そこでようやく卓氏が牀の傍に膝をつき、傷の具合を確かめ始めた。
「しばらくはこちらから戦を仕掛けるようなことはしない……向こうの出方で、どうなるかはわからないが。公苗どのに泣かれてしまったよ。もうこんな無茶はするなと」
「…………」
「目が覚めた……私は、父にも兄にもなれないんだ」
 その言葉に凌統は、己の心臓がきゅっと縮み上がったような心地がした。
 魯子敬どのと軍議を持たねば、と俯き加減で独り言のように言う孫権の鼻先を凌統はそっと盗み見る。
「早く帰ろう。子烈どのの……、……葬儀、をせねば」
 その声音が震え、孫権が目許を手のひらで覆う。凌統は慌てて身を乗り出し、孫権の腕を掴んだ。振り払われた卓氏が迷惑そうに嘆息し、静かに立ち上がって牀から一歩退く。
「我が君、どうか……つらい気持ちを一人で仕舞ってしまわないで」
 俺がいますから、凌統は叫ぶ。
「俺も、谷どのも、賀将軍も、魯子敬様も、呂将軍も韓将軍も蒋将軍も――かっ、甘将軍だって!」
 孫権はぱっと顔を上げた。その目の周りが真っ赤に染まっていることに凌統は心を痛めたが、他方孫権はしばらく凌統の顔をまじまじと見つめてから、ようやく嬉しげに目を細めて、笑みを浮かべたのだった。
 こくん、と言葉もなくひとつ首肯した彼に、凌統はほっと小さく安堵する。そうして二人は卓氏に横から口を挟まれるまで、互いに見つめ合って笑っていた。

 初秋の風が長江を下る楼船を押していく。
 多くのものを失った孫軍はこれから、否が応でも受け容れなければならない変化に直面しようとしていた。